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黒い城の孤独な君主と愛を運ぶ聖女  作者: Lucy M. Eden


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第三章

あの夜を境に、カスティリオーネ城を支配していた死の静寂は、春の雪解けを待つ大地のざわめきへと変わっていった。


図書室の窓から差し込む陽光の中で、ベアトリスは静かにダミアンの背中を見つめていた。あの日、悪夢に狂う彼を抱きしめたときに掌に伝わった、激しい鼓動の残響がまだ指先に残っている。完璧な公爵という仮面の裏側で、傷ついた子供のように震えていた孤独な魂。


(ああ、私は……)


彼を救いたいという同情は、いつの間にか、もっと熱く、切実な疼きへと変わっていた。彼と共にこの暗闇を歩みたい。彼の流す涙の理由を、すべて私が奪い去ってあげたい。それは、没落した令嬢としての義務感などではなく、一人の女として生まれて初めて抱く、抗いがたい情熱――恋という名の、美しくも残酷な病だった。


「……閣下、この『古のピレネーの叙事詩』、修復が終わりました」


ベアトリスは高鳴る鼓動を隠すように、努めて穏やかな声をかけた。ベアトリスが声をかけると、デスクで書類に目を通していたダミアンがゆっくりと顔を上げた……。


図書室は、もはや埃を被った墓場ではなかった。ベアトリスが丹念に磨き上げた書架には、秩序正しく背表紙が並び、午後になると磨き抜かれた窓から差し込む陽光が、床に美しい格子模様を描き出している。


「……閣下、この『古のピレネーの叙事詩』、修復が終わりました」


ベアトリスが声をかけると、デスクで書類に目を通していたダミアンが顔を上げた。


「見せてくれ」


ダミアンが促し、ベアトリスは彼の隣に立った。二人の距離が近づくと、彼女の体温と、かすかなハーブの香りがダミアンの理性を乱した。ダミアンは本を受け取るふりをして、そっと彼女の指先に触れた。以前の氷のような冷たさはなく、今の彼の指先には、熱い血の通った衝動が宿っている。


「ベアトリス……お前の手は、働く者の手だな。だが、私にはどの貴婦人の宝石よりも美しく見える」


彼は彼女の荒れた指先に、吸い付くような口づけを落とした。ベアトリスの頬が、薔薇色に染まる。


「閣下……私は、ただ……」


「ダミアンと呼べと言ったはずだ。ここでは、私をただの男として見てくれるのは、お前だけなのだから」


ダミアンの熱い視線がベアトリスの唇に注がれ、逃げ場を失った彼女の鼓動が激しく高鳴る。彼は彼女の腰を引き寄せ、もう一方の手で愛おしそうに彼女の頬をなぞった。彼の唇が触れようとした、その刹那。


「……旦那様、失礼いたします」


老執事の硬い声が、室内の琥珀色の魔法を無残に打ち砕いた。ダミアンは不機嫌そうに身を引き、執事が銀のトレイに載せて持ってきた一通の手紙を、忌々しげに睨んだ。


「親族会からの招待状です。……それと、ロレンツォ男爵が門前まで見えております。男爵は『ベアトリス嬢の妹君、ロザリー様の薬の件で折り入って話がある』と」


ベアトリスの全身から、血の気が引いた。


「……!なぜ、ロザリーの名を……」


彼女が必死に隠し続けてきた、唯一の、そして最大の弱点。ロレンツォの手が、すでに実家の妹にまで伸びている。その事実に、胃の底が冷たく凍りつくような戦慄を覚えた。


「通せ……。ベアトリス、私のそばを離れるな。あやつの毒に当てられる必要はない」


ダミアンは彼女の細い肩を抱き寄せたが、ベアトリスの足取りは重かった。彼女は図書室の整理に使っていた大きな革の鞄を、命綱のように胸元で強く握りしめた。その中には、妹への送金記録や、ダミアンへの募る想いを綴った日記が入っている。


応接室へと向かう廊下。その曲がり角で、男爵の従者が慇懃無礼に頭を下げて待ち構えていた。


「失礼、お嬢様。道をお譲りしましょう」


男が身を翻した瞬間、わざとらしくベアトリスに肩をぶつけた。


「きゃっ……!」


鞄が手から滑り落ちそうになるのを、男の手が素早く支える。


「おっと、失礼。……さあ、どうぞお進みください」


男の指先が鞄の隙間に滑り込み、重みのある羊皮紙を静かに落とし込んだ。その鮮やかな手並みに、動揺しきっていたベアトリスは気づく由もなかった。



応接室。


ロレンツォは暖炉の前に立ち、蛇のような冷笑を浮かべて二人を値踏みした。


「やあ、ダミアン。相変わらず幽霊のような暮らしをしているな。……そして、こちらが噂の『献身的な』家政婦殿か。没落した家門を再興するために、その傷跡に媚びを売る気分はどうだい?」


「言葉を慎め、ロレンツォ。ベアトリスは、私の誇りそのものだ」


ダミアンの低い声が響く。だが、ロレンツォはさらに深く、毒を含んだ笑みを浮かべた。


「誇り、か。ならばその誇りが『いくら』で売られたか、教えてやろう。ベアトリス嬢、君の妹に届けられている高価な特効薬の費用を、本当は誰が支払っているか……この男に正直に話したらどうだ?」


ロレンツォが、一枚の受領書をダミアンの前に突きつけた。そこには、ベアトリスの署名と並んで、『支払人:ロレンツォ男爵』という偽りの名が記されていた。


「な……!何をおっしゃるのですか!私は……私は閣下から頂くはずの報酬を前借りし、信頼できる商人に託して妹へ送っております!この受領書にあるお名前は、偽りです!」


ベアトリスは必死に訴えた。彼女は自分の誇りを守るため、どんなに苦しくてもロレンツォのような男に縋るつもりなど毛頭なかったのだ。


「ククク、往生際が悪いな。その商人は私の遠縁でね。君が『前借りした金』だけでは足りなかった分を、私が補填してやっていたのだよ。……その代わりに、君が私に手渡してくれる約束だった『手土産』が、その鞄に入っているはずだ」


「違います!私はそんな約束、一度も……!」


「しらを切るな。君の鞄の中身を見れば、どちらが真実を言っているか一目瞭然だ」


ロレンツォが、ベアトリスが抱えていた鞄を無理やりひったくり、床へ叩きつけた。中身が無残にぶちまけられる。散らばった日記や筆記用具の中に、場違いなほど鮮明な、城の内部構造を記した図面が混じっていた。


ダミアンの視線が、床の図面を射抜く。


「……ベアトリス。お前は……足りなかった分をロレンツォに補わせ、その代償として、私の城を売ったのか?」


「ダミアン様、違います!その紙は、私のものでは……!」


「お前は、私から前借りした金だけでは飽き足らず、私を売ることで、さらなる金を得ようとしたのか!私の傷を愛おしむ振りをして、私の心臓をロレンツォに差し出す機会を窺っていたのか!」


ダミアンの咆哮が、ベアトリスの言葉を無残にかき消した。最も信じ、愛し始めた女性から、自らの最大の宿敵へと「売られた」という事実が、彼の正気を奪い去った。


「ダミアン様、信じてください!私は……!」


「黙れ!!」


ダミアンの咆哮が城を震わせた。


「連れて行け。……二度と、私の視界に、その汚らわしい女を入れさせるな」


「ダミアン様!!」


ベアトリスは叫んだが、執事たちの手によって冷酷に引き離された。土砂降りの雨の中、彼女は城門の外へと突き出された。背後で重い鉄の扉が閉まる音。それは、彼女の唯一の希望が、深い闇に閉ざされた音だった。

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