第二章
翌朝、カスティリオーネ城を包んだのは、天界と下界を分かつような、重く湿った銀鼠色の霧だった。ベアトリスに与えられた部屋は、北向きの、寒々しい小部屋だった。しかし、彼女は夜明けとともに起き出し、冷たい水で顔を洗うと、支給された漆黒の家政婦の制服に身を包んだ。鏡に映る自分は、かつて夜会で絹のドレスを纏っていた令嬢とは別人だったが、その瞳には逆境という火に鍛えられた、気高い輝きが宿っていた。
「……まずは図書室ですね」
老執事に案内された図書室は、壮大にして凄惨な、知識の墓標だった。三階まで届く壁一面の書架には、革装の古書が溢れんばかりに詰め込まれ、床には時が降り積もったかのような厚い埃が層を成している。ベアトリスは、迷わず窓のそばへ歩み寄り、重いビロードのカーテンを力いっぱい引き開けた。
「……!」
差し込んだ朝の光が、舞い上がる埃を黄金の微粒子に変える。彼女は袖をまくり上げ、最初の一冊を手にした。それは、彼女の細い指先が、ダミアンの凍てついた世界の扉を、静かに、けれど決定的に叩いた瞬間でもあった。
数日が過ぎた。
ベアトリスの手は、重い書物と清掃により、赤く荒れ始めていた。しかし、彼女が通った後の部屋には、聖域のような清廉さが戻り、どこかから運ばれてきた野生の野菊が、死んでいた城に微かな、けれど確かな生命の鼓動を吹き込んでいた。
ダミアンは、そんな彼女を影から監視していた。廊下の闇に佇み、図書室の梯子に登って必死に目録を作成するベアトリスの、露わになったうなじの白さを、彼は苦い想いで見つめる。彼は、彼女が音を上げて泣きつき、金だけを求めて逃げ出すのを待っていた。そうすれば、「愛や献身など、この世には存在しない」という、彼の歪んだ安息が守られるからだ。
しかし、その夜、彼の平穏は内側から崩れ去った。
ダミアンの寝室。
彼は激しい寝汗をかき、シーツを指が白くなるほど握りしめていた。夢の中ではいつも、あの惨劇が繰り返される。深い森、襲いかかる獣の咆哮、そして傷を負った自分を見て悲鳴を上げ、愛の誓いを踏みにじって逃げ出した女の冷笑――。
「……やめろ……来るな……!」
己の叫び声で、彼は現実へと引き戻された。だが、パニックは収まらない。右顔の傷が、今まさに引き裂かれたかのように熱く脈打ち、喉が塞がれたように呼吸ができない。彼は暗闇の中で、サイドテーブルの上のものを狂ったようになぎ払った。
その時だった。
「閣下……!ダミアン様!」
扉が開き、薄いシュミーズの上にローブを羽織っただけのベアトリスが駆け込んできた。彼女が掲げるランプの光が、彼の絶望を無防備に照らし出す。
「寄るな……!私を見るな!」
ダミアンは右顔を隠し、獣のように唸った。月光の下で、彼の三筋の傷跡が鮮血のようにどす黒く浮かび上がる。
「今の私は怪物だ……お前も、あの女と同じように吐き気を催すのだろう!消えろ、今すぐ!」
しかし、ベアトリスは退かなかった。それどころか、彼女は震えるダミアンの大きな身体を、魂ごと救い上げるように力強く抱きしめたのだ。
「……いいえ、ダミアン様。私が見ているのは、傷跡ではありません」
彼女の声は、夜の静寂に溶け込むほど優しく、そして熱い情熱を孕んでいた。
「私は、ただ、あまりにも長く暗闇にいた、一人の傷ついた魂を見ているだけです。……怖がらないで。私はここにいます。あなたの影を、独りにはさせない」
ダミアンの身体が、一瞬で硬直した。自分を拒絶しない、柔らかく芳醇な女の温もり。彼の目から、熱いものが溢れ出した。それは誇り高き公爵としてではなく、孤独に凍えていた独りの男として流した、数年ぶりの涙だった。
彼は、彼女の細い肩に顔を埋め、溺れる者が唯一の浮木に縋るように、その背中に手を回した。ベアトリスの髪からは、微かに図書室の古紙と、石鹸の、そして彼女という生命そのものが放つ清廉な香りがした。
「……ベアトリス……」
「はい、ダミアン様。ここに……おりますわ」
嵐の夜に始まった二人の契約は、この瞬間に変質した。それは主従の関係でも、金銭の取引でもない。暗闇の中で互いの体温だけを真実として、孤独な二つの魂が一つに共鳴した夜だった。




