第一章
天が怒りに狂ったかのような夜だった。ピレネー山脈の断崖から、牙のように突き出したカスティリオーネ城を、凄まじい稲妻が白銀の光で無慈悲に炙り出す。そのたびに、漆黒の岩肌にへばりつく古城は、まるで獲物を待ち構える伝説の怪物が、その巨大な顎を開いているかのように見えた。
ベアトリスは、叩きつける雨の中に立ち尽くしていた。奔流のような雨は、彼女が纏う使い古されたウールのコートをたちまち鉛のように重く変え、凍てつく指先から体温を容赦なく奪い去っていく。
「……行かなければ。ロザリーのために」
震える唇から漏れた呟きは、雷鳴にかき消された。彼女に残されたのは、この「呪われた城」での職という名の細い糸と、泥に汚れた小さな鞄、そして没落してもなお捨てきれぬ貴婦人の誇りだけだった。
重厚な鉄格子の門が、断末魔のような悲鳴を上げて開く。出迎えた老執事は、消え入りそうなランタンの光の中で、古びた墓石のように無表情だった。
「……旦那様は、奥の『影の間』でお待ちです」
歩みを進めるたびに、濡れた靴が冷徹な大理石の床を汚していく。その足跡は、かつて夜会の主役であった彼女が辿った、華やかな過去からの墜落を象徴しているかのようだった。
「お連れいたしました」
扉が開いた瞬間、熟成した琥珀色の酒と、使い古された革、そしてかすかな煙の匂いがベアトリスの鼻を突いた。
「……また一人、命知らずの小鳥が現れたか」
部屋の奥、火影の揺れる椅子から放たれたのは、冷たい刃物のように滑らかで、驚くほど美しい声だった。影がゆっくりと立ち上がる。逆光の中で、ダミアン・カスティリオーネ公爵の長身が、逃れられぬ運命そのものとなってベアトリスの前に立ちはだかった。
ダミアンは右側の顔を、深い闇の帳に沈めていた。しかし、左側の横顔が暖炉の炎に照らされた瞬間、ベアトリスは危うく吐息を漏らすところだった。それは、大理石を彫り上げたギリシャの神像ですら嫉妬するほど、残酷なまでに完璧な美貌だった。
だが、彼が至近距離まで歩み寄ったとき、ベアトリスはその美貌を切り裂く「闇」の正体を知った。
右眉の上から頬にかけて、獣の爪が魂まで引き裂こうとしたかのような、凄惨な三筋の傷跡が刻まれていた。それは、彼の気高い双眸を、獲物を狙う野獣のそれへと変貌させている。
「ほう……。今まで来た中で、最も美しい。そして、最も金に飢えた瞳だ」
ダミアンの細く、力強い指先が、ベアトリスの濡れた頬をなぞる。その指先は驚くほど熱く、同時に残酷なまでの威圧感を放っていた。
「私の顔を見て、悲鳴を上げなかったのは褒めてやろう。だが、その瞳の奥にあるのは慈悲ではない。没落した家門を再興するための、卑俗な欲望だ。違うか?」
「……私は、生きるためにここへ参りました、閣下」
ベアトリスは震えを抑え、彼の射抜くような漆黒の視線を見つめ返した。
「どんな過酷な労働も、あなたの蔑みも、甘んじて受け入れます」
ダミアンは喉の奥で、低く愉悦に満ちた笑い声を漏らした。
「いいだろう。ならば契約だ。この城の図書室にある数万冊の書物を、一ヶ月以内にすべて分類・整理し、目録を作成しろ。……もし一日でも遅れれば、報酬は一銭も支払わず、即座にこの断崖から放り出す。お前のその美しい顔が、雨に濡れた石畳に砕けるのを楽しみにしているぞ」
「お引き受けします」
ベアトリスの毅然とした答えに、ダミアンの瞳が一瞬だけ、獲物を見つけた猛禽のような光を宿した。
「よかろう。……美しい顔だ。だが、その瞳もすぐに、後悔と絶望で濁るだろう。この城は、お前のような光を持つ存在を、もっとも残酷に喰らい尽くすのだからな」
窓の外で、一際大きな雷鳴が轟いた。その光が、ダミアンの背中に刻まれた逃れられぬ孤独の影を、ベアトリスの網膜に深く焼き付けた。




