クズ王子の婚約破棄を受け入れたら、呪いが発動しましたわ
「侯爵令嬢エリス・モリーナ! 本日をもって、私との婚約を破棄する!」
王宮主催の舞踏会。煌びやかなシャンデリアの下、貴族たちが見守る中、第一王子ジェファード・レイモンドが高らかに宣言した。誇らしげに胸を張る彼の隣には、公爵令嬢キャサリン・オルンシアがぴたりと寄り添っている。
「キャサリンこそ、私が真に愛する女性だ。お前のような冷たい女とは違う」
その言葉に、会場は息を呑むような沈黙に包まれた。
だがエリス・モリーナは、動揺も怒りも見せず、ただ静かに一礼して、穏やかに口を開いた。
「……左様でございますか。では、どうぞお幸せに」
その声は、すでに心の整理を終えた者のように、凛としていた。
◇
ジェファード・レイモンドは「完璧な後継者」として讃えられてきた。幼い頃から帝王学に親しみ、軍略・外交・統治のすべてにおいて才を示し、容姿までも非の打ちどころがなかった。
だが一方で、王子という立場を盾に、侍女や貴族令嬢に手を出しては、飽きると冷酷に切り捨てる──その悪癖はもはや城内の周知の事実であり、忠告する側近を「黙れ。俺は王になる男だ」と一蹴する傲慢さを持ち合わせていた。
ある令嬢に無理を強いた際には、抗議文が王宮に届けられる騒動に発展。しかし、ジェファードは反省どころか逆上し、「王子を拒むとは」と相手の家の爵位剥奪すら企てた。
エリスへの態度も、年月と共に冷ややかさを増していく。面会の約束は一方的に破られ、誕生日の贈り物も「忙しい」の一言で済まされた。
一方、キャサリンには自作の詩を贈り、舞踏会では何度もエスコートを申し出ていたという。
誰の目にも、エリスへの冷遇は明白だった。
それでもエリスは、祖国とこの国の未来のために耐え続けた。王子への愛情はなかったが、「王妃として彼を支えることが国益に繋がる」と信じていた。
だが、その健気な思いも踏みにじられる。
「モリーナ侯爵家など、王妃の家系にはふさわしくない。なぜ、隣国の侯爵令嬢が第一王子の婚約者なのだ? エリス、お前は退屈極まりない」
ある時、ジェファードは、そう発言した。
「我が国に、お前の家の穢れた血は不要だ。これからの時代を支えるのは、より清らかで相応しい血筋であるべきだろう」
それは、モリーナ家の名誉を真っ向から否定する言葉だった。
さらに、王宮主催の式典からモリーナ侯爵家が突然招待から外されるという前代未聞の出来事が起きる。理由すら明かされぬまま──。
その瞬間、エリスはすべてを諦めた。
──王子の隣に立つことは、もはや「義務」としてさえ果たすに値しない。
◇
「ふん。その澄ました顔も、今日で終わりだ。後悔しても遅いぞ」
「後悔……ですか?」
エリスはふっと微笑んだ。
「わたくしに後悔があるとすれば、殿下と婚約後の十数年間を、王妃教育という無駄な時間に費やしたことです」
「な、なんだと……?」
その時、大広間の扉が重々しく開いた。
「やめなさい、ジェファード」
威厳ある声が響き渡り、場に緊張が走る。
現れたのは国王レイモンド。ジェファードの父にして、この国の最高権力者だった。
レイモンド王は病のため政務を離れており、実権はジェファードが握っていた。普段は公の場に姿を見せることはなかった。
「父上!? な、なぜここに……!」
王は重い足取りで壇上へ進み、王子をじっと見据えた。
「愚か者……お前は、自分が何を捨てたのか、理解していないようだな」
「私はただ、愛する人を選んだだけです!」
「ならば教えてやろう。お前は幼き日に王家に伝わる禁忌に触れた。その代償として、呪いを受けたのだ」
ジェファードの顔が青ざめる。
「ま、まさか……」
「幼き頃、決して開けてはならぬ先王の墓所の扉に手をかけた。その瞬間から、お前の肉体には呪いが宿った。年を経るごとに、その姿は醜く変わり果て、やがて人前に出られなくなるだろう」
「う……うそだ……!」
「呪いを断つ唯一の手段は、モリーナ家に伝わる『聖女の涙』を傍に置くこと。そして、それが真に力を発揮するには、モリーナの血を持つ者が傍らに必要だった」
王の視線が、エリスの首元に揺れる「聖女の涙」へと向けられた。
「つまり、エリス嬢との婚約、そして結婚こそが、お前の身を守る唯一の手段だったのだ」
ジェファードは膝から崩れ落ち、大理石の床にへたり込む。キャサリンは狼狽しながらも、言葉を失っていた。
「その宝石は、モリーナの血を持たぬ者には、ただの飾りにすぎぬ」
「……そんな……どうして……!」
「呪いの存在は王家における最深の秘事。結婚が正式に成立した際に伝えるつもりだった。だが……もはや、隠す必要もあるまい」
王は深く頭を垂れる。
「エリス・モリーナ嬢。王子の軽率な行いにより、そなたに多大な侮辱と損害を与えた。王として、心より詫びる」
静寂が広がる中、エリスはゆっくりと口を開いた。
「……王命をもってしても、過去をなかったことにはできません。ですから──」
その唇に、淡い笑みが浮かぶ。
「──もう遅うございます、陛下。もちろん、殿下にも」
そう言い残し、エリスはくるりと背を向け、大広間を堂々と歩み去っていった。
その背に、誰ひとりとして言葉をかける者はいなかった。
◇
数日後、ジェファードは王太子の地位を剥奪され、王都近郊の離宮に幽閉されると発表された。「呪いによって正気を保てなくなった」として、表舞台から姿を消したのだ。
世間では「モリーナ侯爵令嬢を手放した報いだ」と囁かれ、エリスの冷静さと賢明さが称賛された。
一方、公爵令嬢キャサリン・オルンシアも社交界での信用を完全に失い、「王家を混乱させた魔性の女」として噂の的となる。その後、彼女に持ち上がっていた他の縁談もすべて立ち消えとなった。
追い打ちをかけるように、オルンシア家には汚職と不正会計の疑惑が持ち上がり、国王命令により財産の半分を没収される。父は爵位を返上して隠居、キャサリンは母とともに僻地へと引き下がり、その姿が再び社交の場に現れることはなかった。
そして、長らく離れていた故郷へ戻ったエリスは、懐かしい空気と人々に迎えられた。両親や弟たちとともに穏やかな日々を過ごす中で、少しずつ心の安らぎを取り戻していった。
そんなある日、幼い頃を共に過ごしたユリウスと再会する。月日を経て成長した彼は、変わらぬ優しさと新たな強さを備えていた。再会の温かさに触れ、エリスの胸には忘れていたぬくもりと、新たな希望が静かに芽生え始める──。
◇
エリスが故郷に戻って数か月が過ぎた。
幼馴染のユリウスとは再会後も何度か言葉を交わし、その穏やかな人柄と頼もしさに、エリスの心も少しずつ解けていった。
弟たち──とりわけ末弟のブランも、ようやく笑顔を見せるようになっていた。幼いブランとは、エリスが戻ってから初めて会った。そのため、懐くまでに時間はかかったが、今では弟たちの中で最も可愛がっている。
だが───
そんな穏やかな日々は、あまりに突然に終わりを告げた。
その日、エリスが不在の間に、弟ブランが姿を消した。
「ブランが……いない?」
血の気が引くような感覚が、エリスの背筋を走った。使用人たちは一様に慌てふためき、近隣の森や村にまで捜索の手が伸びたが、その姿はどこにも見当たらなかった。
さらに、混乱に紛れ、屋敷で保管していた「聖女の涙」までもが失われていた。
「まさか……ジェファード」
その名を呟いたエリスの唇は、わずかに震えていた。
今や幽閉されたはずの元王太子。だが、モリーナの血を持つ自分の代わりに、ブランを狙ったのかもしれない……。モリーナ家の血を継ぐ者として──呪いの解除に必要な存在として……。
「ブランを使って……呪いを解こうとしている……」
声を震わせながらも、エリスの瞳は冷静に状況を見据えていた。
エリスは、弟の捜索に協力していたユリウスに自らの推理を打ち明けた。ユリウスはその言葉を信じ、ブランの奪還に力を貸すと言ってくれた。
とはいえ、ジェファードは隣国の王族であり、元王太子という立場にある。もし推理が誤っていれば、大きな外交問題に発展しかねない。
そのため、エリスはユリウスと二人だけで慎重に行動することにした。
◇
ユリウスの推察により、ジェファードが国境近くの古城に潜んでいる可能性が浮かび上がった。エリスと彼は夜明け前に馬車を走らせ、静かにその地へ向かった。
国境付近の古城──かつての領主が居を構えていたというその場所は、断崖の上に静かに佇んでいた。朽ちた石造りの壁、苔むした床、そして玉座の間には今も重々しい気配が残っていた。
ジェファードはその玉座に腰かけていた。
荒れ果てた城でも、彼にとっては「王」の証だったのだ。
玉座の間に踏み込んだエリスとユリウスを見て、ジェファードの目が見開かれた。
「……なぜ、ここが……」
その声には、明らかな動揺が混じっていた。彼は立ち上がり、虚勢を張るように背筋を伸ばした。
彼の背後には、小さな影──ブランの姿があった。怯えながらも、姉を見つめる目はしっかりとしていた。その手には、「聖女の涙」が握りしめられていた。
「コイツと『聖女の涙』が揃えば、私は真の王として甦る! あの国の王は、私しかいない…… 誰にも譲らない!!」
ジェファードは高らかに宣言する。だがその姿は、王者ではなく、王位に執着した哀れな男に見えた。
「返して…… ブランも、『聖女の涙』も!」
エリスの声は静かだった。だが、その目は鋼のように冷たい。
ユリウスが一歩前に出て、ジェファードの前に立つ。
「王族たる者が罪を犯すな! モリーナの血も、秘宝も、おまえのものではない!」
「ふん、呪いを解くために必要なものだ。正統な王位継承者であるこの私が使わずして、誰が使うというのだ!」
「そのために幼い子どもを囚えるとは──貴様が口にする言葉など、聞くに値しない」
ユリウスの声が冷たく響いた。
エリスは二人が話をしている隙に、ブランに目で合図を送った。ブランは小さくうなずき、「聖女の涙」をエリスに向かって放る。宝石は弧を描いて転がり、エリスの足元で止まった。
「なっ……何をするつもりだ……?」
ジェファードが身を乗り出す。だが遅かった。
エリスは、「聖女の涙」を拾い上げ、窓際に駆け寄った。窓から外を見下ろすと、眼下には、深く切り立った崖と、荒れ狂う渓流。
迷いはなかった。
「ブランを守れるなら、こんな宝石──いらない!」
「聖女の涙」は、彼女の手から放たれ、弧を描いて──深い谷底へと消えていった。
「──うわああああああっ!!」
その瞬間、ジェファードの体がぴくりと跳ねた。呻き声が漏れ、額に浮かんだ汗が脂のように光る。
「やめろ……やめろ……!」
苦悶の声をあげながら、ジェファードの肌がただれ、艶やかな髪がごそりと抜け落ちていく。背中が曲がり、指は異様に長く伸び、まるで人の形をした獣のように変わっていく。
「見るな! 見るなあああああッ!」
両手で顔を覆い、嗚咽混じりに叫びながら、彼は玉座から転げ落ちるようにして逃げ出した。重たく開いた扉の奥へ、走り去っていく。
もう王族としての威厳など一片も残っていない彼の後ろ姿を、エリスとユリウスは呆然と見送った。
玉座の間に再び静寂が戻る。
エリスはブランへと駆け寄り、抱きしめた。
「エリス姉さま……」
「もう大丈夫よ、ブラン。もう、終わったわ」
ユリウスがそっと二人に近づき、微笑んだ。
ブランはふと、二人を見比べてにっこりと笑った。
「お姉さまたち、お似合いだね」
その一言に、エリスとユリウスは互いに顔を見合わせ、少しだけ恥ずかしそうに微笑んだ。
朝の光が、古城の崩れかけた天窓から差し込み、三人をやわらかく包み込んでいた。
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