1.完璧令嬢は羽化する
『フレイヤ、完璧になれ。でないと女のお前は、爵位を継ぐのに不利になる』
フレイヤは幼い頃からそう、父親に言われ続けてきた。
フレイヤは、イフェスティオ家唯一の子どもだ。
それと同時に、父であるイフェスティオ公爵が唯一愛した女性との子どもである。
そんな母が死に、しかし後妻を取りたくなかった父は継承権自体はあるものの、立場的には男児よりも弱い娘を後継者にするべく、今まで厳しく育ててきた。
そしてフレイヤ自身も、そんな父の要望に応えようと今まで文句一つ言わず、陰で涙を流し歯を食いしばりながらも、厳しい教育に耐えてきたのだ。
その結果、彼女は『完璧令嬢』と呼ばれるようになった。
美しくウェーブを描く金髪に、イフェスティオ公爵家の証である真紅の瞳を宿した非の打ち所がない才女だと。
そしてそれは、フレイヤにとって何よりの自信であり誇りだったのだ。
――今日までは。
しかし馬車の事故で一命こそ取り留めたものの、首筋から背中のラインに消えない傷が残ってしまったことに絶望した。
(完璧に、ならなければいけなかったのに)
――パキッ。
貴族女性が体に傷を作るなど、御法度。
それは昔から変わらない。
『どうしてこの時期に外出したのだ! この愚か者がッッッ!』
『ああ、お前が女でなければここまで苦労することもなかっただろうに……!』
ちょうど入り婿を探しているタイミングでの惨事に父は怒り狂い、フレイヤを理不尽に罵倒した。
特に『男だったらよかったのに』というのは事あるごとに言われ、そして彼女の心を傷つけてきた言葉だったため、余計に心を抉った。
そして周囲も、フレイヤを『傷物令嬢』として嘲笑うようになったのだ。
あんなにも、みんなして誉めそやしていたのに。
(完璧でなくなってしまった……私が悪いんだわ)
――パキッ。
だからか、今までパタリと止んでいた伯爵家次男・ジェイムスとの縁談に父は飛びつき、フレイヤの心など知らずトントン拍子で婚約し、その上早く公爵家に慣れてもらうために、と屋敷に住むことも許したのだ。
(今までは、格下の伯爵令息などお前には相応しくないと仰っていたのに……)
しかしフレイヤも自分が悪いと思ってしまったがために、それを受け入れたのだ。
――パキッ。
だがそれが間違いだったと気づいたのは、婚約者であるジェイムスが魔導具越しにしていた会話を聞いてしまったときだった。
『お前たちが事故を起こしてくれたおかげで、無事にイフェスティオ公爵令嬢の婚約者になれたぞ』
――パキンッ。
今まで無視していた自分の心に大きなヒビが入るのを、フレイヤは感じた。
(優しい人だと、思っていたのに)
少なくとも、こんな傷物の自分を受け入れてくれるだけの広い心を持った人だと思っていた。
『少しおだてただけで心を許したし、これなら簡単に公爵家を乗っ取れそうだ』
――バキッ!
しかしそれはどうやら、フレイヤの勘違いだったらしい。
いや、心が弱って、目が曇ってしまったというべきだろうか。
『それに、公爵の方も案外簡単そうだ。なんて言ったって、特に確認することなく僕を受け入れたんだから!』
「……ふふ、あは、あははっ」
婚約者の部屋の前から私室に戻ってきたフレイヤは、狂ったように笑い出す。
今までこんなにも大声をあげて笑ったことなどない。なんせ淑女は慎み深いものだから。
だがそれも今日でおしまいだ。
(だって……もう父親の言うことを聞いているだけの『完璧令嬢』はどこにもいないもの)
どうして今まで、そんな単純なことに気づけなかったのだろう。
自身の父親がこの世で一番、完璧とは程遠い存在だったのに。
それは、今回婚約者選びを急ぎ、彼の本性に気づけなかったことからも分かる。
父はとてもではないが、公爵家を統べるのに相応しい人格と頭脳を持ち合わせてはいなかった。
そんな彼が厳しくフレイヤを教育したのは、今思えば自身の立場を分家の者たちに脅かされるかもしれないことを恐れてであったのだろう。
何より、本当にフレイヤを次期当主にしたかったのであれば、淑女に求められていることばかりを強要するのは間違いだった。
だって淑女は、当主とは真逆の生き物なのだから。
(あんな品性のない男に気付かされたことに関しては癪だけれど……けど、今回だけは感謝するわ)
おかげで目が覚めた。
そのお礼に、ジェイムスにはきっちりと報復をしなければならない。
「あんな男、こちらから願い下げだわ」
無能の父と詐欺師の婚約者。
そのどちらもを排除してからイフェスティオ公爵家の正式な当主となり、自分らしく生きる。
そう、周りからの意見になど左右されることなく、それでいて絶対なる公爵家の女主人として、君臨してやるのだ。
それが、フレイヤが考える最高の報復であり復讐である。
そうこれからの目標を確認してから、フレイヤは今まで隠していた姿見にかかった布を引っ張った。
あまりの衝撃で鏡という鏡が見られなくなり、この三ヶ月間まともに自分の顔を見ることすらなかったのだ。
「……ほんと、ひどい顔だわ」
鏡の前には、ひどく憔悴した様子の女がいる。
艶やかだった髪はパサつき、目の下には隈がある。唇もカサカサで肌の調子も悪い。
手入れを怠ったわけではないが、明らかに疲れ切った自分がそこにはいた。
「だけれど、目は死んでない」
むしろ、今までと比べてより輝いて見えた。それはきっと、フレイヤ自身が決意を固めたからだろう。
そして首元までおおう形のドレスを脱ぎ捨てる。
下着姿になって初めて見た自身の体には、首筋から背中にかけて裂けるような、大きな傷痕が残っていた。
放置されていた時間が長かったために、治癒魔術による治療を施しても治しきれなかったのだ。
おそるおそる背後を向いて鏡を見てみたが、確かにひどい傷痕が首筋から背中にかけて走っている。
だが、想像していたよりもずっと忌まわしくは思えなかった。
(だってこれは、私を目覚めさせてくれた傷だもの)
たとえるならば、今までのフレイヤは蛹のまま死にかけようとしていた。
しかし傷痕が走ったことでようやく蝶として目覚め、この狭苦しい場所から飛び立つことができるようになったのだ。
人は命に関わるほど大きな怪我をしたときに人格が変わるなどという話を聞いたことがあったが、今回のそれも似たようなものだろう。
(この傷痕にかけて……私は必ず女当主になる)
――パリーンッ!
そう決意を固めたとき、今まで心を縛っていた何かが、ガラスのように音を立てて砕け散っていくのを感じたのだ。