三 化身祭官
「存在意義……」
神妙な口調で、祭官はナヤクの言葉を繰り返すと、初めて頬を弛めた。微笑んだ顔は、驚くほど美人だ。
(祭官は、基本的に男のはずだけれど……)
一瞬気を呑まれたナヤクに、麗しい祭官は頷いた。
「分かりました。しかし、あなたの素性がパタールの兵達に知れたことは、危険です。わたしがあなたの護衛に付きましょう」
「そんな必要はない。他人を面倒に巻き込んだら、この名を下さった母上に顔向けできない」
断ったナヤクに、祭官は胸を張って見せた。
「わたしは天才で最強ですから、問題ありません。パタールの兵達には、あなたに指一本触れさせないと約束しましょう」
自信満々に請け負った祭官の顔が今度は可愛らしくて、ナヤクはふっと笑った。どこから来る自信なのか知れないが、道々話し相手になる連れがいるというのは、それだけで嬉しいものだ。先ほど突風を起こした呪力を考えても、あながち虚勢とは言い切れないだろう。
「分かった。ところで、あんたのことは何と呼べばいい?」
基本的なことを尋ねたナヤクに、祭官は大きな目を瞬いた。
「ああ、名、ですか……」
まるで、名乗ることを全く考えていなかったようだ。或いは、ナヤク同様、素性を明かしにくい身の上なのかもしれない。
「本名でなくても、通称で構わない」
ナヤクが言い足すと、祭官はもう一度目を瞬いてから答えた。
「それなら……、ニラシャとでも呼んで下さい」
ニラシャとは、絶望という意味だ。
「それはよくない」
ナヤクは言下に否定した。名とは、例え通称であろうと、その者を表す神聖なものである。一瞬考えてから、ナヤクは提案した。
「それより、アアシャがいい。おれは今から、あんたをアアシャと呼ぶ」
アアシャとは、希望という意味である。死地に赴く遠征軍の中にあって、この年若い祭官はまさしく希望となるかもしれない。
「――随分と、強引なんですね……。まあ、いいでしょう」
祭官は呟くと、おもむろに両の掌を胸の前で合わせた。
「ではナヤク、これから宜しくお願いします」
丁寧な挨拶だ。ナヤクは微かに目を細め、同じく合掌して応じた。
「こちらこそ、宜しく、アアシャ」
(アアシャ――希望などと……)
シャイタンは、似付かわしくない通称を受け入れてしまった自分に、溜め息をついた。化身を作って魔王討伐軍に紛れ込ませることは、毎度していることだが、ここまで一人の人間と親しくなったことはない。名乗り合うなど、完全に想定外だ。
(ヴァーユも戸惑っていたな……)
先ほど、突風を起こすために呼んだ風神は、シャイタンの命令を忠実に実行しながらも、片眉を上げて驚いていた。
(まあ、この人間も、幾ら予が約束を守ってパタールの兵達より守ろうと、いずれ、予の配下の誰かに殺されて、また輪廻転生だ)
けれど、何度人生をやり直させても、人間達は成長しない。同じ過ちを繰り返すだけだ――。
「よくぞ集まってくれた、勇士達よ!」
突如、大音声が響き渡った。煉瓦造りの検問所の屋上に立った人間が、広場に立つシャイタン達を見下ろしている。
【あれは誰だ?】
シャイタンの思念による問いには、司法神ヴァルナが答えた。
【パタール王サイニクですね。そこのナヤクの父親ですよ】
【そうか……】
シャイタンは、傍らの長身痩躯の青年を見上げた。全身を黒い円套ですっぽりと覆い、頭にも黒布を巻いて、その金髪も白い肌も隠した青年は、僅かに開けたその隙間から、父王を見上げている。シャイタンは、人間が戦争を起こすことで初めて自動的に目覚めるので、休眠中のことは、配下の神魔達と情報共有しなければ、知らないことばかりである。風神ヴァーユも司法神ヴァルナも、このナヤクの父と疑われている太陽神スーリヤも、人間達から最も崇拝されている雷霆神インドラも火神アグニも皆、神魔で、シャイタンの配下だ。ゆえに、この世界において、シャイタンは「天才で最強」なのである――。