エレヴェーター
随分古い型のエレヴェーターだった。
永見崇は溜め息を吐き、右手で顔を撫でる。そのまま、胸ポケットへ手を遣って、苦笑いで手を下ろした。ぱたんと太腿を叩く。たばこはもう辞めた。お守りがわりに一本、ひしゃげた箱にいれて持ってはいるが、ライターは捨てたから火のつけようがない。それに、こんなところで火を扱うばかは居ない。
「時間、わかる?」
「十時をまわったところだ」
崇は腕時計を見てそう答え、斜め後ろを振り向いた。そこには、座り込んだ葛城ゆかりが居る。俯いているゆかりのつむじが見えて、崇の胃はぎゅっと痛んだ。はやいところ、こんな場所から抜け出さないといけない。
ゆかりが顔を上げる。黒髪を耳にかける、ふっくらした指の動きが、やけに気になる。
ゆかりの左耳には、青緑の小さな石がぶら下がったピアスが刺さっている。それが、崇には、どうにも彼女に似合わなく思える。
ゆかりは崇の視線に気付いたか、困ったように微笑んだ。「これ、似合わないかしら」
崇はゆっくり頭を振る。それから、上を見る。エレヴェーターはもう、二時間、動いていない。
崇とゆかりは、高校時代、同級生だった。
中学が違い、部活や委員会でも一緒にはならず、二年生になるまではほとんど接触がなかった。だが、二年の始業式の日に、ゆかりのほうから崇に話しかけてきた。
去年も同じクラスだったね、とかなんとか、他愛ない話だ。崇はほとんど友達をつくらず、いつも一緒に居るグループというものもなかった。上級生に因縁をつけられて一度、喧嘩をし、たまたま勝った所為で、不良と思われていたようだ。だから、女子から近寄られることはほぼなかった。
崇は別に不良ではなかったし、女子を嫌っていた訳でもない。ゆかりがどうして話しかけてきたのかは今もわからないが、それがきっかけでゆかりとたまに話すようになった。
ゆかりはおとなしくて、クラスの雑用などを黙々とこなすようなタイプだ。それでいて偉そうなところも、卑屈なところもなく、だから男女問わず友達は多い。そのゆかりが崇と話していたから、ゆかりの友達も崇と話すようになった。それから、数人で集まって一緒に遊びに行ったり、同じ短期のバイトをしたり、それなりに楽しい高校生活を送った。
ゆかりと距離ができてしまったのは、高三の二学期だ。
ゆかりは成績がよく、仲間達は当然、彼女が大学へすすむと思っていた。だが、ゆかりは進学しなかった。
崇はどうしてだか、それが重大な裏切りのように感じられた。
ゆかりは成績がよかった。テストの前には、わからないところがあるんだけど教えてくれないかしら、と、少しだけはずかしそうに訊きに来ることもあったのだ。
進学しない、と聴いた時に、そういうやりとりがうすっぺらくて価値のないものになったような気がした。
崇はそのことで彼女を責めた。責める資格などなかったのだと、後から悔やんだ。だがとにかく、その時は彼女の言動が理解できず、どうして進学しないのか、しつこく訊いて、彼女を困らせた。
彼女ははっきりしたことを云わなかった。進学せずに働くのかと思ったが、そうでもない。かといって、学費が足りない、ということでもないように思えた。大体、ゆかりの成績なら、奨学金をもらえる。
崇はゆかりの言動が理解できなかった。
尚更、理解できなかったのは、ゆかりが当時付き合っていた桑崎という男子生徒にも、進学する・しないについてなにも喋っていなかったことだ。ゆかりと桑崎は、付き合っているから当然と云えば当然だが、とても仲がよかった。
だから諦めたのだ。
結局、崇は自分の怒りをどうにもできず、彼女が進学しないことをまるでなにか重大な罪であるかのように責め、彼女はそれになにも云い返さずに目を伏せていた。
具体的になにを云ったかは、怒りで我を忘れていたから覚えていない。だが、崇はそれ以降、ゆかりを避けた。自分がはずかしかったし、まだゆかりに裏切られたような気分が続いていたからだ。それに、そういう時にどうやって修復するものなのか、崇は知らない。
ゆかりは本当に進学せず、崇は志望の大学にうかって地元を離れた。
大学では特に何事もなく過ごした。彼女をつくり、遊びに行き、勉学にはげみ、バイトに精を出した。
成人式には出なかった。ゆかりに会いたくなかったからだ。その時には彼女を責めたことを酷く後悔していて、顔を合わせるのがこわかった。
二十一になって、親戚の葬式で帰郷した時、ゆかりと偶然会った。
本当に偶然だ。親に云われて、和菓子を買いに行った時だった。ゆかりが和菓子屋に居て、綺麗なラッピングの箱を買い求めていた。
偶然の再会で、崇はきまずかったが、ゆかりは高校の時と同じように崇に接した。久し振りね、と云って、にっこり笑っていた。
そこで、少しだけ話した。ゆかりは家の手伝いをしていて、父親がどこかへ持っていく手土産を買いに来たと云っていた。崇は大学の話をする気はなかったが、ゆかりがなんでもないように、永見くんはもう三年生? と訊いてきて、少しだけ話した。
店先でクラクションが鳴って、ゆかりが慌てたように出て行った。出て行く時に、今度の同窓会には来てね、と云われたのを覚えている。
ゆかりが桑崎を酷い方法で振ったと聴いたのは、その次の日だった。
崇が和菓子屋でゆかりと話していたのを親戚に見られていた。それで、ゆかりと桑崎のことをしらされた。
その前年、桑崎はゆかりにプロポーズしたらしい。ふたりはずっと付き合っていたのだ。
ゆかりは一旦保留にし、翌日プロポーズを断った。桑崎は拒まれた理由を訊いたが、ゆかりは答えず、それからは桑崎からの連絡をすべて無視していた。メッセージには返信がないし、電話はゆかりの母親が出て、ゆかりは体調が悪いとか寝込んでいるとか云う。
三日ほどして、ゆかりから、別れてほしいとメッセージが来た。
桑崎の年の離れた姉がそれを聴いて怒り、ゆかりに会いに家まで行った。ゆかりは出てきたが、別れてほしいと云うばかりだった。のらくらした態度に激昂した桑崎の姉が、土下座で謝れ、と云うと、ゆかりはその場に土下座したらしい。
感情を見せず淡々としたゆかりに気味の悪さを感じて、桑崎の姉は逃げ帰った。その桑崎の姉が、崇の親戚と結婚していて、だから崇にその話が伝わったのだ。
また、胸ポケットを触ってしまいそうになる。「たばこ、辞めたの?」
ゆかりがやわらかい声で云った。崇は壁に凭れ、ずるずると座り込む。コートに皺が寄るなと考える。
「俺がたばこを吸っていること、知ってたのか」
「話してくれたじゃない」
そうだったか。崇は記憶を引きずり出そうとする。そう……和菓子屋で、そんな話をしたかもしれない。ゆかりはなんにでもよく気が付くから、崇の胸ポケットのたばこを見て、吸うの? とでも訊いてきたのだろう。もう思い出せない。
崇は壁を背凭れにして、両膝を曲げた。ゆかりの脚は、ふんわりした長いスカートとコートの裾で、全部隠れている。
崇はケータイをとりだし、仕舞いこんだ。こんな時に限って充電が切れている。仕事を辞めてから、ケータイを毎日充電することもなくなった。
地元へ帰ったのは、仕事を続けていられなくなったからだ。
崇は大学を卒業して、数年間、雑誌社で記者をしていた。特にやりたくて選んだ仕事ではない。内定をもらえたのがそこだけだった。だから、そこに就職した。それだけだ。
記者の仕事は心の安まるひまがない。どうしてだか、崇は事件や事故を取材する部署に配属され、毎日のように血の流れた現場へ赴くことになった。
交通事故や転落事故などでも、現場へ行く度に胃がじくじくと痛むのに、死亡事故が起こった工場や道路、線路などは、そこに居る間中、体のなかで剣山がはねまわっているような痛みがあった。傷害事件、殺人事件になるとそれは更に酷くて、崇はおおよその取材を終えて記事を書いた後、血を吐くことが何度もあった。
取材は当然、亡くなったり怪我をしたひとの、家族や友人、加害者の家族や友人にする。哀しみや怒りを抑え込もうとしているひとを見るのはつらいし、取材対象に殴られたり、塩や水をかけられたりしたこともある。カメラなど、機材を壊されることも多々あった。
そもそも、納得して、報道というものに誇りを持ってやっていた訳ではない。だから、余計に居たたまれなくて、つらい。
数年はごまかせた。就職してから覚えたたばこは年々、崇の財布を圧迫していたが、辞めるつもりはなかった。喫むと落ち着いたからだ。
ごまかしごまかし記者を続けていたが、七年目にどうしようもなくなった。若い女性が自殺した現場を写真に収め、社へ戻ると、崇は血を吐いて倒れ、吐いた血が咽に詰まって危うく死ぬところだった。病院で検査を受けると、消化器がずたずたになっていると云われた。
それでこうして、地元へ戻った。
崇が――そしてゆかりも――のっているエレヴェーターは、古いビルのなかにある。
崇はビルの六階にある、フラワーアレンジメントの教室へ行こうとしていた。崇がそこに用事がある、ということではない。崇の母がそこで講師をしているのだが、今日の授業の後にルーペを置き忘れてきた。
母は夕食の材料を買った後にそのことに気付いて、出先から家に電話をしてきた。冷凍のものも買ったから、教室へまわってから戻ると大変なことになる、だからとりに行ってきて、夜間の部の先生に頼めばわかるから、と。崇は承知して、自転車で家を出た。
ビルの出入り口付近には、テナント名が書いてあるホワイトボードがかけてあって、崇はそれで教室が六階にあるのを確認した。ほかの階には、アクセサリーショップや、歯医者、書道教室、画廊などがはいっているようだった。
家からそれなりに距離があるビルで、自転車で疲れていたのもあり、崇は階段ではなくエレヴェーターを選んだ。ふたつあるうちのひとつだ。六階でおりて、教室のドアをノックし、事情を説明すると母のルーペを渡してもらえた。夜間の部の講師に礼を云ってエレヴェーターへ戻り、下へ向かった。
五階でゆかりがのりこんできて、お互い思いがけない再会に口をきけないでいるうちに、ドアが閉まった。
ゆかりが口を開いた時に、がたんと音がして箱が不気味に揺れ、停まった。それからもう二時間たっている。
ゆかりは右耳には別のピアスをつけていた。崇はそれを見て、やはり、彼女らしくないと思う。別に、ピアスをつける女性に偏見があるのではない。単純に、彼女らしくないと云うだけだ。
ゆかりは崇のそんな気持ちには気付かないようで、パーマもカラーも縁がないらしい髪を耳にかけ、スカートの上から脚をさする。
「永見くん、痩せたね」
「……少し」
「かなり」
咎めるような調子だった。崇は目を逸らし、脚を伸ばす。
エレヴェーターは、迷惑なことに、緊急連絡用のボタンが作動しない状態だ。崇はケータイの充電を切らし、ゆかりはケータイを持っていない。だから、ここからはどこにも、誰にも、連絡をとれない。救いは、照明が切れないことだけだ。
崇はゆかりから目を逸らしたまま、云った。
「葛城は……」
「なあに?」
「いや」
ピアスなんてらしくないな、と云いそうになって、だが崇は口を噤む。そういったことを云えるような仲ではない。こちらが勝手に、好きだっただけだ。
ゆかりはたしか、結婚した筈だ。お見合いで決まったことらしい。結婚してここを離れ、しかし、三年程度で離婚し、ゆかりは地元に戻ったと、高校時代の同級生から聴いている。
ゆかりが結婚した相手の名字は覚えていない。
がたんと箱が揺れる。ゆかりが小さく震えた。「心配ないさ」
「……永見くんが云うと、本当に心配がないみたいに思えるわ」
崇は肩をすくめ、息を吐く。本当なら、そろそろ薬を服まないといけないが、水がない。シートはあるけれど、錠剤が咽にはりつく感覚は嫌いだ。
ゆかりは転がっていた小さな鞄をひきよせ、口を開いた。
「永見くん、これ、食べる?」
ゆかりが鞄からとりだしたのは、大粒の飴だった。そう、彼女はいつでも、こういうものを持っていたっけ……。
壁から背を離して、右手をさしだした。ゆかりは微笑んで、崇の掌に個包装の飴をのせる。崇は礼を云って、包装を解き、飴を口へ含んだ。人工らしいいちごの香りがする。
ゆかりも飴をひとつ、口へいれた。飴の所為で頬がふくらみ、子どもっぽい顔に見える。化粧気はない。高校の時もそうだった。女子がゆかりもメイクくらいしなよと云っても、困ったように小さく頭を振るだけだった。
崇は再び、壁に凭れる。
この二時間、ふたりはほとんど会話をしていなかった。エレヴェーターが停まった直後も、緊急連絡用ボタンが反応しないことがわかった時も、ゆかりは悲鳴をあげたり騒いだりせず、そう、とか、困ったわね、と、淡々と云うだけだった。彼女は恐怖や心配という感情を持っていないように思えた。
だが、先程箱の揺れに反応したところを見るに、こわがってはいるらしい。騒いでほしいとは思わないが、動揺をあまりにも表に出さないのは、不自然に思える。
ゆかりは鞄の口をゆっくりと閉じる。
「永見くん、体調がよくないって、聴いたけど」
「たいしたことじゃない」
肩をすくめる。「仕事を辞めて、こっちに戻ってからは、本当に。なんともないよ」
「お医者さんに通ってるんでしょ?」
ゆかりとは家も近いし、共通の友人が多い。知られているのはおかしくない。だが、崇は苦笑いした。
「ちょっと、不摂生がたたっただけだ」
「そう?」
「ああ」
ゆかりは疑わしそうに崇を見ていた。崇は云う。
「葛城は?」
「え?」
「五階には、歯医者がはいってたろ」
ゆかりは一瞬、きょとんとしてから、答えた。
「ううん。歯医者さんに行ってたんじゃないの。そのお向かい」
「向かい」
「うん」ゆかりは耳へ手を遣った。ピアスが揺れる。ゆかりらしくないピアスが。「これ、買ったの」
ゆかりはピアスを指ではじく。いたずらっぽく云う。
「永見くんこそ、フラワーアレンジメント、ならってるの?」
「母が講師をしていて」笑いそうになって崇はこらえた。「忘れものをした。俺はとりに行ったんだ。これだよ」
コートの内ポケットからルーペを出し、ゆかりに見せて、戻した。ゆかりは微笑んでいる。
崇は飴を嚙み砕く。
それから、しばらく他愛ないことを喋った。おもに、崇が地元を離れていた期間のことだ。母校が校舎を建て替えたとか、駅が新しくなったとか、そういうことだ。高校の、それも崇が一方的にゆかりを責めて離れていったあの出来事よりも前のような、ぎこちなさのない滑らかな会話だった。
崇はだから、つい、訊いてしまった。
「桑崎のことは、訊いてるか」
ゆかりはひと呼吸置いて、小さく頷いた。桑崎は就職して地元を離れ、結婚している。この間、長男が生まれたと連絡があった。
ゆかりはやわらかく云う。
「よかったわ。桑崎くん、いいひとが見付かって」
「……よかったのか」
「ええ」
その言葉には嘘を感じない。崇は、ゆかりが桑崎の結婚を哀しまないことに、ほっとした。
ほっとしている自分に嫌気がさした。ゆかりが桑崎をもう好きではないのは、わかっていたことだ。ゆかりが桑崎を振って、ふたりは別れたのだから。
ゆかりが桑崎をなんとも思っていないからって、自分を好きになる訳ではない。いつまでも引きずって、みっともない。
「桑崎くんは優しいから、きっといいお父さんになるわ」
ゆかりの声は、優しいが、ひとごとのような調子だった。
「それを、間近で見たいとは思わなかったのか?」
崇はそう云ってから、後悔する。ゆかりの気持ちに自分が踏み込むべきではないと思っている。
実際、俺と彼女は、限りなく他人だ。
ゆかりは捉えどころのない表情で、崇を見詰めた。
「わたしが? ……どうして?」
どうして。
崇は口を噤む。ゆかりの言葉には違和感があった。なんとも云えない奇妙さだ。
「……桑崎を、いい父親になると、君は云った」
「ええ」
「桑崎は、君と結婚したいと思っていた筈だ。昔は」
「そうね」
そうね?
ゆかりは飴を嚙み砕く。ばりっと音が響く。崇はいらだちを感じて口走った。
「前から気になっていた。どうして桑崎のプロポーズを断ったんだ」口に出してしまうと、停まらない。「君らは相当、親しかった。だから俺は邪魔をしないように……」
悔やんでも言葉は戻ってこない。それでもゆかりは目を伏せて、聴かないような顔をしてくれた。崇は黙る。
「父がね」
五分もしただろうか。
ゆかりは静かに、喋る。
「わたしには、桑崎くんは合わないって云うの」
「……合わない?」
ゆかりは子どものような仕種で頷いた。表情は微笑みで固定されている。
「桑崎くんは、釣り合わないって。父がそう云って、母も賛成したから」
理解するのにしばらくかかった。理解してから、崇は云う。
「それで? それで桑崎を振ったのか? そんな理由で」
「そんな理由?」
「葛城は桑崎が好きだったんだろう」
ゆかりはぼんやりと崇を見る。
「ええ……そうね。多分……そうだと思う」
「多分?」
ゆかりは自信なげに頷いた。「わからないけど……」
「わからないって、好きだから付き合ってたんだろう」
「そうなのかしら。桑崎くんに付き合ってほしいって云われたって云ったら、母がそうしなさいって」
崇は言葉を失った。
ゆかりはぼんやりした表情だ。
「そう……ね。好きだったと思う。母にそう云われた時に、いやだなと思わなかったから」
「葛城」崇の声は掠れた。「いやだと思わないのと、好きとは、違うと思う」
「そうなの?」
本当にわからない、とでもいいたげに、ゆかりはうっすら眉をひそめる。崇はその反応に、眩暈を覚えている。ゆかりの気持ちがわからない。云っていることも、理解の範疇ではない。
ゆかりは崇の言葉を考えているみたいで、ちょっとの間項垂れた。顔を上げて、小さく云う。
「そうなのね……わたし、そういうの、わからない」
「わからないって……」
はっと、崇は息をのむ。「待て」
「……なあに?」
「進学しなかったのも、親に云われたからか? 結婚も……」
ゆかりは数回、瞬いて、目を逸らした。否定も肯定もなかったけれど、答えはわかった。崇は尚更、混乱した。
「わたしね」ゆかりは低声で云う。「最近、いやになってるみたい」
「みたい?」
「母に反抗してるの」
ゆかりの指がピアスを弾く。ピアスが揺れる。
「ピアス穴なんて、不良だって云われたわ」
崇ははっと笑った。なんの話をしているのだろう。成人した娘がピアス穴を開けたくらいで、不良だと云う親? どうかしてる。
崇は笑いながら云う。
「それで不良なら、世のなかは不良だらけだな」
「そう云うわ。母は」
一瞬言葉が出てこない。
だが、不意に怒りがわいた。
「反論しないのか」
「反論? なにに?」
「桑崎が釣り合わないだの、なんだの……それを決めるのは葛城だろ」
「でも、父も母も、わたしのことを考えてくれてて……」
それは、ゆかりも自信がないようだ。歯切れが悪い。実際のところ、彼女は窮屈さを感じて、ピアスをつけるという消極的な反抗をしている。
「干渉されたくなかったら、家を出たほうがいい」
これこそ余計な干渉だ、と思いながらも、崇は喋るのを停められない。「葛城ならいい大学にはいれたし、桑崎とだってうまくいった。それで葛城がしあわせなら、親であっても口出しする権利はない。だろう?」
「それは……」
「葛城がそれでいいなら俺は関係ないけど」
崇はなおもいいつのろうとして、気付いた。ゆかりは高卒で、これまで働いたこともない。突然、家を出るというのは、ハードルが高いことかもしれない。
もしかしたらそれを見越して大学に行かせなかったのだろうか、と考えてぞっとした。
がたんと音がして、ふたりは揃って上を見る。遠くから、大丈夫か、と声がした。ようやく、ふたりが閉じこめられていることに、誰かが気付いてくれたらしい。
遠くからの声は、ふたりがのった箱が四階と三階の丁度中間で停まってしまっていて、救出にはまだ時間がかかると伝えてきた。崇は礼を云ってから、女性がひとり居ることを伝えた。
なにか作業をしているらしい。断続的に、音が響いてくるようになった。崇はかすかに揺れ続ける箱のなかで、あしをふんばって立っている。ゆかりも、箱の隅にひっそりと、壁に手をついて立っていた。閉じこめられているから逃げられないのに、なんとなく立っていたいのだ。
「永見くん」
崇は息をひそめている。ゆかりに対して、ああいったきついものいいはするべきではなかった、と思いながら。
「わたし、前も、反抗したことあるの、思い出したわ」
反抗……。
振り返ると、ゆかりはぎこちなく微笑んでいた。今までにない表情だ。「葛城?」
「永見くんとは話しちゃいけないって云われてたの」
崇は口を開き、閉じる。
ゆかりは、どうやら苦笑いをうかべているらしかった。
「小学校の頃から、クラスが決まるとね、名簿を見て、両親が決めるの。喋ったり、近付いたりしたらいけない子を」
「……俺がそれだったのか」
ゆかりは頷く。「ごめんね。こんなこと、聴きたくないわよね」
「いや」崇は頭を振った。「それに逆らって、話しかけてくれたんだろ?」
「ええ」
しばらく間があった。
「逆らったのはそれが初めてで、最後」
その後は会話がなかった。どうして親に逆らって自分に話しかけたのか、それを訊きたかったが、声が出なかった。
ゆかりは飴をもうひとつ食べていた。飴が嚙み砕かれる音が消えて、がたんと箱が揺れ、停まっていたエレヴェーターが動き始める。
一階ロビーに出た。そこには救急救命士や、警察官、エレヴェーターの修理をしていたらしい作業着のひとが数名、居た。
エレヴェーターの故障は老朽化が原因だそうだ。ゆかりが救急救命士に付き添われて手洗いへ行った間に、崇は警察官をつかまえてそれを聴き出した。それから話をきかれ、事情を説明した。
「ゆかり」
小柄な女性が飛び込んできた。喪服のような黒い服を着ているのが目についた。髪を結い上げ、その所為か目尻がつり上がっている。
ゆかりの母親だ。高校の時、一度だけ見たことがある。
葛城夫人はゆかりをさがしているらしかったが、崇を見て顔をしかめた。顔をわずかに赤くしてやってくる。「どうしてあなたがここに――」
「お母さん」
ゆかりが戻ってきた。口許をハンカチで拭っている。目が充血していた。もしかしたら、吐いたのかもしれない。
葛城夫人は娘を見て、ほっと息を吐いた。「ゆかり。まあ、なんなのその下品なものは」
娘につかつかと近寄っていって、葛城夫人はいとわしげにピアスへ触れた。ゆかりは困ったような表情になる。
崇は呆れてしまった。娘が目をまっかにして、ハンカチで口をおさえながらやってきたのに、まっさきにピアスの批判か。
ゆかりはハンカチを下ろす。下唇が一ヶ所裂けていた。ハンカチに血がついている。葛城夫人はそれを見ているだろうに、そのことは云わない。
「こういうものはあなたに相応しくないわ」
ゆかりは黙っている。
「もっときちんとした身なりをなさい。それがあなたの為なんですからね。わたしもお父さんも、あなたの為を思ってるのよ」猫なで声だ。「出戻りがはしたないって云われたいの? いやでしょう? これ以上葛城の家に迷惑をかけないで。はずかしい行動は控えなさい」
ゆかりは一瞬、傷付いたような顔をしたが、その表情はすぐに消えた。「はい」
その力のない声に腹がたって、崇は思わず笑った。「なんだ、娘の為じゃなく、家の為に云っていたのか」
ロビーが静まりかえった。
崇は葛城夫人を見ている。あちらも崇を見ている。ゆかりは戸惑ったようだ。「永見くん」
「なんです、失礼な」葛城夫人がかみつくように云った。「娘に近寄らないで頂戴」
「お母さん、永見くんは」
崇はふんと鼻を鳴らして、ゆかりへ近付いていった。それはつまり、葛城夫人へ近寄ると云うことでもある。葛城夫人は目に見えて怯んだ。
葛城夫人はちょっと後退り、崇はたちどまってまた笑った。
「娘をまもろうとはしないんですね」
葛城夫人は口を開くが、反論はない。実際、彼女は娘から離れていた。娘の為だの、近寄るなだの云っておいて、崇が近付いていったら娘を置いて自分だけ逃げたのだ。
崇はゆかりを見る。「葛城、こういうことらしい」
「え……?」
「お前の為だっていうのは、信用ならないと俺は思う」
ゆかりは口を噤み、目を瞠って崇を見ている。
崇はそれ以上なにも云わず、踵を返した。外へ出ても誰も追ってはこない。自転車をおしてコンビニまで行き、ライターを買った。たばこの最後の一本を灰にする為だ。
翌日、警察に行った。エレヴェーターの事故は、老朽化が原因だが、点検がきちんとなされていなかったとかで、もっとくわしい事情を聴かせてほしいとのことだった。だから崇は、心配する母に車で警察署まで送ってもらった。帰りは歩くと云うと、母は不満げだったが、フラワーアレンジメントの教室へ行った。
聴取の後、ビルの所有者が謝罪したがっていると云われたが、体のなかがちくちくと痛み始めたので、体調がよくないのでと、外へ出た。
「永見くん」
警察署の前にはゆかりが居た。
崇は短いスロープを下っていって、ゆかりの前に立った。ゆかりは、今日は、小さなピアスをつけていた。黒髪が風で揺れると、きらきらした石が覗く。それはなんとなく、彼女らしいように思う。
ゆかりの左目尻辺りは、緑と紫のまだらになっていた。
「今から、聴取?」
「ううん。もう終わったわ」
崇が顔をまじまじと見たからか、ゆかりは左手でそこを示し、苦笑いになる。
「お父さんに」
「……大丈夫なのか」
「うん。黙って見返したら、それでお仕舞」
ゆかりはぎこちなく、微笑む。「あのね、永見くん」
「ああ」
「少し、永見くんの云っていることが、わかったかも。ほんの少しだけ」
崇は頷く。ゆかりは目を伏せる。
「わたし、永見くんと一緒に居ると、楽しい。だから、お母さんに怒られても、永見くんと一緒に居たの」
「……俺も、葛城と居るの、楽しいよ」
「ありがとう」ゆかりは顔を上げて、にこっと笑った。「わたし、家を出ることにしたの」
崇は口を半開きにする。ゆかりは笑顔のままだ。
「永見くんの所為じゃないからね。永見くんの所為にはしない……ほんとは、きっと、もっとはやくそうするべきだったんだと思う。さっき、就職先も見付けたから、心配しないで」
「え?」
「あすこ。住み込みで雇ってくれるって」
ゆかりが指さしたのは、古びた建物だった。高校の時に、何度も行った喫茶店だ。ゆかりや、桑崎や、ほかの友人達と。
崇がそちらを見ていると、ゆかりに袖を軽く引かれた。「ちょっと不安だけど、やりたいことをやることにしたの。自分で考えて、自分で行動する」
「ああ」息を吐く。いつになく、呼吸が楽だ。「葛城なら、大丈夫だよ」
「……永見くんが云うと本当みたい」
ゆかりは微笑む。
「ご飯、食べに来てね。離婚したけど、お料理だけはずっと誉められてたから」
「君と離婚したやつはばかだな」
つい本音が出た。ゆかりは意味がわからなかったようで、小首を傾げる。
体のなかが痛いのは、少しだけよくなった。何日かしたら彼女の料理を食べに行こう、と、崇は思った。