一時的に離人感を得る方法
一時的に離人感を得る方法
特にこれが出来るからって何も起こらないし、何も出来ない。何の役に立つかも分からないが、これを出来るうちに、出来るだけ詳細に書き残そうと思い立ったので、とりあえず思いつくままに文章化することにした。少なくともネットで調べた限りでは同じようなことを出来る人はいないようだ。また、この方法について実際に離人感を得ているという証明は全く出来ない。あくまで自分で勝手にその感覚を味わうというだけである。
これは当然だが、日常生活において普通の人ならば、当たり前のことについて確認するまでもないと思い、そうであることに疑問を持たずに信じ込んでいる。
当たり前のことというと、例えば目をつぶって眠れるとか、唾液を飲み込んでいるとか、二足歩行出来るとかといったレベルのことだ。
ここでは、自分が自分である事について話していく。
タイトルに離人感を得る方法と書いてはあるが、これが離人感かどうなのかは確信が無い。あくまでネットで検索して、おそらく離人感というものがそれに最も近いと思っただけだ。
さて、これを読んでいる人は自分が何であるかについて、考えたことはあるだろうか。
おそらく自分が"何者"であるかについて考えたことがある人は割といるだろう。
例えば、自分の人生の意味とか、自分の価値、自分がすべきことについてなど。
この問いに関しては答えを得ることが出来る。難しくても、少なくとも何かしらの答えは自分で見つけ出すことが出来る。答えが見つからない、または探している途中といったような答えを得ることも出来る。
ところで、自分が"何"であるかについて考えたことはないだろうか。
先程の違いは"者"という字があるかないかということだが、この問いでは自分が生物であるかということをも疑っている。
早速その方法を記す。
まずやるにあたって条件がある。
まず、心が疲れていてはいけない。不安や怒り、恐怖だけでなく、興奮や嬉しいといったような感情も全くあってはならない。感情は全く無いのが望ましい。肉体的疲労も全く無い方がいい。が、精神面よりは必須ではない。
とはいえ、心身ともに疲れ果てていても、一応は可能である。
つまるところ、かなりの集中力を少しの間、持続させられればいい。大体20~30秒ぐらいか。
また、眠気は障害になる。
次に具体的なやり方を記す。
とは言っても、具体的に言葉で綴るのは難しい。例えば、右手の動かし方について具体的に説明するのが難しいように。
辞書でもそうだが、根本的な、当たり前のことと思っていることの説明は難しい。
まず、体勢はなんでもいいが、特に違和感のない状態が望ましい。これは、心の無、中立な心を作り出すために必要。
ベスポジは風呂上がりに洗面台の鏡に映った自分を見ながらがベスト。
体勢が決まったらそこからは動かない。動くという行為をしてしまうと、それに意識を持っていかれて集中が途切れる。全く動かしてはいけないことも無いが、殆ど動かしてはいけない。とはいえこれも個人差がある。ようは集中が保たれればよい。
先程述べたベスポジだが、鏡で自分を見るという部分が重要。鏡無しは慣れないと難しい。というか慣れても難しい。一段階上。
鏡を使う場合は、まず、自分の顔をじっと見つめる。普段自分をあまり見ないという人には効果てきめん。自分の目、鼻、口、顔のもろもろのパーツ、その配置などをしっかりと認識する事で、少し微妙な感じというか、違和感を覚える。
あれ?自分の顔ってこんなんだったかな?いや、確かに変化した訳ではないけど、改めて見るとなんか違和感があるな…
みたいな感じで、自分の顔を客観的に見る。
例えば、歌を歌っている時に聞いている自分の歌声と、それを録画して聞く時の自分の歌声が割と違うのに近い。
そしてその違和感を保ったまま、自分の存在、ここでは自我の存在について疑問を見出す。
ここからが本番、難しい。
言葉で忠実に再現するのは不可能…
とにかく自我の存在について疑う。この肉体が実際に存在しているのは自明。しかし、この意識は、いつも無意識に利用している主観的な自我とは無縁…全く別物。
いまこの文章を脳内で思考しているというこの意識、主体は何処にいるのか。今の私は先程までの私の主体とは違う。とはいえ同一人物であるのは理解している。
こんな思考に至るともうめちゃくちゃ。
自分の存在が不確かでしかない。この肉体はただの物質にしか見えない。これには今の思考する主体は宿っていない。別のところにいる。こうなるともう違和感だらけ。
ここは自分の家、右手には自分の右手がある。光がある。鏡がある。色々なものが存在している。それは分かる。しかし、現実味がない。何か、生命という紙芝居を見ているのだろうか。この世界は一体…宇宙という映画か?時間が感じられない。未来が感じられない。この世界はこれから続くのか。
ここまでくると思考する主体が完全に別の世界にあることを認識する。
で、成功すると少し恐怖を感じる。漠然としているが、しっかりとある恐怖。
上記のような思考そのものが多分、離人感なんだろう。
そしてその恐怖は、この状態が長く続くと現実味を取り戻せなくなるという恐怖を含む。
というか、成功したら絶対に分かる。確信できる。その状態になった時の特有の感覚がある。日常生活で経験するあらゆる感覚とは全くの別物。絶対的に別物。
そして成功し、その感覚になった後は手を動かしたり、歩いたり、何かしらの動作をする事で現実へと復帰する。
集中が大きいときは、恐らくはしばらくその状態を保てるのだが、あまり続けすぎると帰って来れなくなるという直感的恐怖により、帰還する。やったことはないが、それを無視して続けると、多分頭がどうにかなる。日常生活に響くかもしれない。
なので毎回、状態になってから10秒もすれば止める。現実味の復帰は急に全部取り戻す訳ではなく数秒かけて取り戻される。
例えば、暗闇に目をならしてから明るい空間に急に出ると周りがよく分からないが、数秒も経てば十分に認識出来るようになる感じ。
ところで、鏡を使わない場合だが、その有無に違いはほとんど無い。
鏡が無い場合、自分を客観的に見るという行為を自分の顔を見ずにすることになるので、難しい。よりいっそうの自我への疑問を持たねばならなくなる。違和感の獲得を普段見ている景色で行うので、それが難しい。視覚に頼らないので、意識の集中がより必要とされる。鏡ありで慣れても、こちらが毎回スムーズに出来るとは限らない。
事実、私は最近、鏡無しで出来なくなっている。スランプとも言えるのか。
ところで、これを出来るメリットは全く無いわけではなく、現実を俯瞰し、気持ちをリフレッシュ出来るということはある。
また、全くの思い込みだろうが、これによって何か、宇宙の真理に近づくような感じもある。いやこれは、思い込みだろう。
改めて文章にしてみると、意外と詳細に書けた。将来思い返すようなことがあって、この文章を見れば、何か得られるかもしれない。
そういえば、これが出来るようになったのは、7歳か8歳ぐらいからか?
何故こうなったのかは知らないが、多分、風呂上がりに鏡を見ていたら、違和感に気づき、それを深めたら、そうなったのかもしれない。
ネットで自分が自分でないような感覚について漁ると、離人症、解離性障害など、ストレス、うつ、不安など、やはり悪い要素が原因となっている。
しかし、今回記した方法は、良くも悪くもなく、中立な状態であることが、大きな違いと言えるのだろうか。
また、これにより得られる離人感は、非常に大きいものと思われる。感覚を共有できず、比較対象が無いので何とも言えないが、前回この状態になったとき、もし丸一日これが続くなら、恐らく死ぬだろう、という感想を持った。
前回、とわざわざいったのは、条件があるために、やろうと思って毎回出来るわけでは無い、ということだ。
しかしまあ、あまりやり過ぎないでおきたいものだ。