#1転移
~PM10:08~
街灯が無い場所では月明かりだけが頼りである。しかし、そんな月さえ現れない日が、28日に1回ある。
下石山。その中で里津峠と名付けられたルートは舗装こそされているものの、細く、街灯ひとつ無かった。連続したカーブと高低差がある上、特筆すべき施設も景色もあるわけでもないので交通量は少ない。市街地から程遠く、民家が点在するだけのそこは喧騒とはかけ離れ、木々は、ただ、風が撫でる音だけを聞いている。
しかし、その状況をぶち壊すかのように飛び込んで来たものがある。白い光を撒き散らし、爆音を轟かせたのはグレーのスカイラインGT-R33だった。
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ハンドルを握る三雲彩にとっては見慣れた光景であったが、この日は気分が違った。
好きなだけ、とばせる…!!
今日でこのタイヤとはお別れだ。次のタイヤは買ってある。
最後のグリップ力を使い果たすつもりで道を駆け抜けていく。右手はハンドル、左手はシフトレバー、左足はクラッチに貼り付け、右足はアクセルとブレーキをせわしなく行き来する。
どうせ対向車など来はしないのだ。道幅を目一杯使い、減速を減らし、狭いカーブでは立ち上がりのエンジン音と加速度を楽しむ。ただの帰宅でも意識ひとつでこんなにも楽しめる。
2速で左、3速まで上げて緩やかな右、すぐブレーキで左…
足でリズムを作り、手で世界を回す。このときだけは、世界が自分のものだと思える。
下石山の南側をなぞりながら登ってきた道が、その中腹で西に回り、下りを交え始める。ここまで来れば後少しだ。
最後の難所とも言えるヘアピンにたどり着いた。下りのストレートの先にある左のヘアピンは事故が多く、カーブの入口までに注意看板が車を迎えてくれる。
ここが今日の最大の楽しみである。
カーブミラーで対向車が来ていないことを確認すると、3速のままカーブへ進入、する直前にサイドブレーキを一瞬はさみ、ハンドルを左に倒す。するとフロントの左側がコーナー内側へと肉迫し、慣性に負けたテールがほんの少し流れ出す。即座に舵角を元に戻し、ほぼ0に等しいカウンターをあてる。アクセルは離さない。
今までスピンだった挙動が修正され、フロントがコーナーを舐めるようにスライドする。
ドリフトだ。
彩は左足をクラッチの左側へ絡ませ、右足のかかとで踏ん張ることで慣性を消そうとするが、それでも上半身が右側のドアに押し付けられる。
「くっ…!!」
コーナーの出口が見えた瞬間、緩まった右足にありったけの力を込めると、4WD特有の軌道で1500kgの車体が引っ張られる。
抜けた。
と思った時
「ーーー!?」
全身が衝撃を受けた。それも全方向から。
締め付けるような痛みは一瞬では消えない。単なる衝撃だったら脳震盪を起こし、意識が飛んでいただろう。しかし、それが許されない。
頭蓋骨が軋み、堪らず声が出る。
「…カハッ」
それは果たされなかった。喉を潰され、息をすることさえできないのだ。
このままだと窒息する!!
そんな中、唯一動く器官があった。目だ。フロントガラスから見える景色は、ヘアピンの外側、数少ない人工物であるガードレールへと吸い込まれていく。
もう、ハンドルにもアクセルにもブレーキにも届くものは無く、慣性に運ばれていく視界が暗転していくのを見守るだけだった。
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彩はハンドルにもたれたまま目を開けた。自分の目を覚ませたものを見上げる。
太陽だ。
あの高さなら、もう12時近くだろう。
身体を起こして、記憶を整理する。
確か、帰宅途中で…おかしいわ。
何事もない。あれだけの事がありながら、身体から血が出るどころか、痛みひとつ感じない。身体を触れて確認するが問題がない。
疑問を抱いたまま、周囲を見渡す。
ここは道路上じゃない!?
まばらな針葉樹に囲まれたここは、平坦ではあるが、遠くは見通せない。視界にあのヘアピンは写らない。
あのままガードレールをぶち破り、勢いそのままに針葉樹林に放り出されたと考えるのが妥当だ。
だとすると、右フロントにガードレールにぶつかった痕があるはず。
ドアを開け、外に出る。少しぬかるんだ土を踏む足は、ローファーを履いており、帰宅途中だったことを証明している。
パッと見で痕が見つからず、反対側も車体の底も覗いた。
その結果、気づいた事が2つある。1つ目は、車が新品同様であることだ。車体に傷が無いだけでなく、エンジンルームもタイヤも完璧な状態だった。
2つ目は、無音だという事。動物が作る音は勿論、風の音がしない。自分が作る音だけが聞こえる。不気味にも感じるが望んでいた環境でもある。
これらのことから、彩は1つの結論を出した。
夢ね。
昨日のことが夢なのか、これが夢なのかはわからない。だが、これが現実であると考えるのが最善である。
取り敢えず、
「帰りましょう。」
家に。