なんて恋は理不尽だろう
『ねえ、どうしよう』
もはやスマホの必須アプリともいえる連絡ツール。連絡を取る相手が両手の指で足りてしまうほど交友関係の狭い僕はそのメッセージを見るなり新手のスパムか何かかと思った。
しかし、それに続く言葉なりURLなりは存在しない。さらにはポップアップされた差出人の名には覚えがあった。
由美。僕の幼馴染の女の子。
就職二年目を迎える今日この頃。彼女から連絡が来ることなどなかったこともあって僕はメッセージと差出人を二度見三度見する。そうしてからようやくそれが彼女のものであると理解した僕は、急かされるように返事を打った。
嫌な予感がした。由美が僕にメッセージをよこすときは決まってその話題だったから。
『どうしたの?』
『電話したい』
五秒と経たずに返事が来て、いよいよそういう話題だろうと理解した。
『いいよ』
『今大丈夫?』
『平気』
そんなやり取りを半ば断ち切る様に液晶にコール画面が表示される。僕は息を落ち着けてから通話ボタンを押した。
「もしもし?」
「……もしもし」
その声は、由美のものじゃないみたいだった。普段は吐息交じりの優しい声なのに、今は心を無くしてしまったかのような声をしていた。
とても低く、まるでカラオケで喉を潰したような、居酒屋でやけ酒の海におぼれたのかと思うような、そんな声。
「……どうかしたの?」
「…………ッ」
鼻をすする音がノイズと重なる。僕は目を見開いて反射で尋ねた。
「泣いてるの?」
「そうじゃない、けど。ごめん、今ちょっと、自己嫌悪で……」
「……自己嫌悪?」
思いもよらない言葉に首を傾げた。彼女が僕に電話してくる用事なんていつも決まっていて、それは決して自己嫌悪なんて言う言葉が混じるものではなかった。
「彼氏と、なんかあったんじゃないの?」
珍しく僕から尋ねた。いつもそれを切り出すのは由美の方だったけれど、今日ばかりは待っている場合ではないと思った。
「…………」
返事はない。吐息の音どころかノイズすら聞こえてこない。ミュートにでもされたのかと思って口を開こうとするが、それにかぶせるように由美の声が聞こえた。
「それと、関係あるけど、ちょっと、複雑……」
「……複雑って?」
「…………」
またしても無言。けれど今度は吐息が聞こえた。
深く吐き、浅く吸う。そんな呼吸を耳にしながら、僕は時計を確認する。
仕事から帰ってきて三十分と経っていない。それでも短針は十時近くを指し示し、今なおその先を刻み続けている。
僕はそれを横目で見ながら、なるべく音がしないようにゆっくりとベッドに腰かけた。
「……あのさ。こんなこと、歩に言うの、どうかと思うんだけどね。もう、どうすればいいのかわからなくて」
「落ち着いて、話してよ」
言うと由美は数度深呼吸をした後、言った。
「今日、職場の人と二人で遊園地に行ったの……」
「…………」
すぐさま考えた。また彼氏と喧嘩でもしたのだろうと。うまくいかなくて、数年来の付き合いのくせに喧嘩の絶えない二人の話をされるんだろうと。だから二人で遊園地に行ったという単語を聞いて、そこで喧嘩になったのだろうと簡単に想像がつく、はずだった。
けれど、その言い方は、僕の耳にはこう聞こえた。
「彼氏じゃない人と、デートした……?」
「……………………うん」
そんなことはあり得ない、と思いながらも確認すれば由美は唸り声のような声で答えた。
僕は、息をするのを忘れてしまった。由美が、そんなことをするはずがないと思ったから。
けれど由美は、呻く。
「やっぱり、浮気だよね、これ」
「…………」
僕は何も言えない。代わりに脳内で何故どうしてと僕が頭を抱えた。
「…………男の人?」
「うん」
わかっていた。けれど尋ねないわけにはいかなかった。
わずかでも時間が欲しかった。それでも沈黙で答えてしまう事だけは避けたくて、呟くように言った。
「そっ、か」
「………最低、だよね」
どんどん落ちて行くトーンに釣られそうになりながらも、僕は深呼吸をした。僕まで落ちてしまわないように。マイナスを増やしてしまわないように。
「なんで、そうなったの?」
「……遊びに行こうって、誘われて」
「………それだけ?」
絶対に違うという確信があった。だって彼女の口癖は「彼氏以外の人とそういうことはしない」だったから。
だから、何か事情があったはずだ。そう思いながら言葉を待つ。
「前から誘われてて、しつこいくらい、誘われてて。ずっと断ってきたんだけど、今日はちょっと、嫌じゃなくて」
「…………」
「瞬とうまくいっていなかったって言うのもあって、仕事のストレスもあって、それでその遊園地も、私の好きなところだったから…………」
期待は裏切られた。仕事の延長線上、接待のようなものだと言われれば苦笑交じりに気にし過ぎだと返すこともできたというのに、これでは、何も言えなくなってしまう。
瞬――彼氏とうまくいっていなくて、仕事も大変で、それで好きなところへ行こうと言われたから、応じてしまった。
スマホの画面を見る。そこには幼馴染の名前がある。
目を擦って、もう一度見る。やはりそこには、幼馴染の名があった。
「でも、なんで受けちゃったんだろうって、そう思って。何で、そんなことしちゃったんだろうって、思って……」
「……遊園地に、行っただけ?」
「…………」
その無言は、情欲の肯定だった。
僕は、自分の太ももをつねった。痛みは、あった。
「ちがうっ、カラオケに行っただけ! それだけ!」
僕が黙ったからか、焦ったように声を上げる由美。けれどそれはますます疑念を増幅させるだけで、それはすでに確証に近いものに変わっていた。
「本当にカラオケに行っただけなの! 何もしてない! してない!!」
「うん、わかったよ。大丈夫誤解してないから」
泣き叫ぶような声だったから、僕は反射でそう答えた。いや、純粋にも信じたのかもしれない。純潔を保つほうが彼女らしくて、そうあってほしくもあったから。
「……本当に、信じてる?」
僕の声に、疑念が混ざっていたのか、由美は蚊の鳴くような声で問いかけてくる。僕はそれに「信じてるよ」と返して息を吸った。
「……それで、何があったの? 複雑って言うことは、まだ先があるんだよね?」
その先には、彼氏にそのことがばれた。とか。またはその職場の人とやらに言い寄られてしまったとか、そういうことが続いていくのだろうと思った。
「……わかんなくなったの」
今日の僕の予想は、外れっぱなしだ。
由美の悔やむような声は僕の想定からひどく外れていて、生唾を飲み込んでしまう。
「どうしよう。私、こんな最低な女だったのかな。瞬と結婚するって、そう思ってたのに」
「…………」
「どうしよう。私、どうしよう。た、楽しかったの……。その人と一緒に居るの、楽しいって、思っちゃった……!」
「…………」
予想外ではあった。けれど、想定内でもあった。
彼女がほかの男になびくはずがないと、そう思ってはいたけれど、それでも由美は彼氏との関係を円滑に育むことが出来てはいなかったから。
由美の彼氏は、いわゆるDV男だった。口下手で、感情をうまく伝えられずに、プライドが高く、人の上に立ちたがる。見下されることをひどく嫌うそんな男だった。
だから、由美の指摘や提案をまともに受けることは無く、いつも由美は委縮していたように思う。言うなれば、奴隷と主人のような関係だった。
それでも、暴力を振るわれたことは無いと、由美は言っていた。彼女の肘にあざが出来ているのを、僕は見ていたけれど。
だから、彼女がほかの男性を知り、優しくされ、それを幸せに思うことは想定の範囲内。それどころかそうなればいいと、そうなってほしいとずっと願っていたほどだった。
「私、ひどい女だ。どうしよう」
彼女の声から、罪悪感がにじみ出てくる。その感情は――誰かに対するその思いは、本来何も間違っていない、正しいものであるはずなのに、それを彼女は悪だと思ってしまっている。
僕は、息を吸った。電話口から音が伝わらないようにスマホを少し離して浅く、空気が極力震えないように。
「……ねえ、歩。私、どうすれば――」
「別れな」
「…………えっ?」
はっきりとした声を出したはずなのに、由美は呆けた声を上げた。
僕は息を吸って、さっきと同じ音を出せるように意識してもう一度言う。
「別れな。彼氏と」
「……な、に言ってるの……?」
「別れな」
「できるわけないよ! だって、そんなこと言ったらまたいろいろ言われて……」
「……だからだよ、由美。別れた方がいい」
「だって、別れられないよ。もう何年も、一緒に居るんだよ? 無理に決まってる」
「別れたくない理由じゃなくて、別れられない理由を口にするくらいなら、別れた方がいいよ。由美も、わかってるでしょ?」
「だ、って…………」
口にしようとした言葉が、別れたくない理由でないことに気付いたのだろう。由美の言葉は、そこから続かなかった。
「由美、恋したんだね」
「……今までも、してたよ」
「そうだね」
同調したけれど心の内では頷かない。由美が彼氏に恋慕を抱いていないことは、ずっと前から気付いていた。由美が彼氏と別れないのは、付き合っているのは、付き合い続けている理由は。義務感以外の何物でもなかったから。
いくらそれを恋慕にすり替えようとも、本物の恋心はそれをいともたやすくかき消すような、理不尽なものだから。
「辛いし、難しいかもしれない。それにこれから先が幸せである保証もない。だから、怖いよね。でも、今のままじゃ由美は、苦しいままだよ。少なくとも、幸せにはなれない」
「…………」
由美もずっと気づいてはいたはずだ。DV男の隣にいても幸せにはなれない。そこに立っている彼女自身が、一番よくわかっていたはずだ。
「由美、別れな。僕は、ずっと由美に言いたかった。別れた方がいい」
「そんなこと言っても――」
「タイミングは、今だと思う。卑怯かもしれないけど、自分を受け止めてくれるかもしれない相手がいる今しかないと思う。由美、別れな。じゃないと、由美は幸せになれない」
繰り返し何度も、何度も言う。今がどれだけ苦しい状況なのか。どれだけ由美が損をしていたのか。彼女の人生から、幸がなくなっていたのか。
「由美は、どうしたい? 決まってるでしょ? なら、そうしなよ」
「……決まってないよ」
決まっている。まがりなりにも僕は由美の幼馴染だ。この相談の本質を見抜けないほど、僕は盲目的ではない。
「由美、怖いなら、そのままでもいい。僕はどっちになっても今まで通り愚痴を聞くから。守るなんて僕は言えないけれど、今まで通りは変わらないから。だから、自分で決めな。どうしたいかで、決めな」
「わかんないもん、アドバイスし――」
「僕は、結論を決めてる人にアドバイスはしないよ」
「…………」
「僕のアドバイスなんて、いらないでしょ?」
彼女はどうするのかをもう決めている。これまでの応答でそれが如実に表れている。
ならば僕の出る幕ではない。気のすむまで話を聞こう。頷き分かったふりをしよう。けれど僕は、アドバイスなんてしない。これ以上は、もう何も必要ない。
「……私、最低だよね」
「でも、好きになっちゃったなら、しょうがないよ」
「………………いつも、ごめんね。歩とは、明るい話できなくて」
「気にしなくていいよ。それに今回のは、今までに比べれば、前向きな話だと思うよ」
今までは、彼氏を怒らせてしまった、けれどどうして怒ったのかわからないし教えてもくれない、なんていう相談がほとんどだった。その解決方法として、ちゃんと話し合った方がいい、なんていうアドバイスもしたことがあるけれど、それもすべて逆効果。彼氏に逆上された由美はさらに強い束縛を受けてしまうだけ。改善されたことは一度もない。
今までの相談は、向かうべき道が定まっていなかった。けれど今回は違う。今回は、僕が何かを言うまでもなく由美がどうしたいかを語っている。
今日のは、どうすればいいかわからないからアドバイスが欲しいという相談ではなかった。
今日の相談事は、ただ一つ。
話を聞いてほしいというその一点に尽きていた。
どうしたらいいかわからないと口では言っているけれど、どうするかはもう決まっているから。こうしたほうがいいという言葉をかけるのももはや蛇足にすら感じられる。多分、僕がここでいきなり素っ気なくして「あとは自分で決めなよ」なんてぶっきらぼうに電話を切ったとしても、結果は変わらないだろう。
由美は自分がこれからする行いが、正しくないことを理解しているし、今日のことも咎められるべき行為であると承知している。それでもなお、由美はそちらを選ぼうとしているのだから。
「本当に、ごめんね」
「ううん、大丈夫。…………………少しは落ち着いた?」
「うん」
声の調子はまだ戻っていなかったけれど、数刻前よりははっきりとした声になった。そんな彼女を後押しできるように、僕は大きく息を吸ってから言う。
「別れ話をするのは大変かもしれないし、うまくいかないかもしれないけど、何かあったらまた電話してきて。相談事も、愚痴も、今まで通り聞くから」
「……ありがとう」
少しだけ声が揺れたけれど、僕は気付かないふりをする。
それから数分間お互いの近況を話したりした。仕事はどんな感じなのか、という話から始まり上司の愚痴、新入社員との関係と続く。学生に戻りたい、なんていう言葉がお互いの口から出て、少し笑ったりもした。
そうして、何度か笑った後、短い沈黙が出来た。それは、課題がなくなったというサイン。だから、僕が言うまでもなく由美が言った。
「じゃあ、また、何かあったら話聞いてね」
「そうならないほうが本当はいいんだけどね」
「そうだね」
最後に小さく笑ってから、二人で「じゃあね」と言い合う。何度か確かめるように、「じゃあ」とお互い繰り返す。不思議なことに、電話をしている間でその時が最も長く感じて、それがどこか気持ち悪くてお互いの声が小さくなるのに従って耳からスマホを離した。
お互いの声が聞き取れないほどに離れたところで、通話が切断されたことを知らせる音声が流れる。不協和音のその音が僕は苦手だったけれど、今はその音に安堵を感じていた。
「……………………」
無言のままベッドに倒れ込む。その拍子に手からスマホが逃げ出したがそんなことを気にしている余裕もなかった。
大きく息を吸って、あからさまに大きなため息を吐いて見せる。誰かに向けてではなく、自分に。
心の内は、滅茶苦茶だった。
由美が浮気をしたという事実が信じられなかったし、別れると決断するのも予想外。どちらかと言えば受け身な彼女のことだから、相手の方から振ってくるのを待っているものだと思っていたのに。
息をするのが、辛くなった。
望んでいた。由美が今の彼氏と別れることを。それは他でもない由美を思ってのことで、半泣きで僕に電話をしてくる彼女を見続けるのが辛いという利己的な理由でもあった。
わかっていた。いつかダメになってしまうであろうと。由美はいつか、彼氏と別れるだろうと。うまくいくはずの無い二人だから、何らかの形で別れるのだろうと。
容易に想像できたし、それを祝福すらできると思っていた。彼氏と別れて自由を得た由美に、明るい言葉を向けられると思っていた。
それなのに、僕は泣き叫びたくなった。
それでも、違うのかと。
由美が、僕を選ぶことは無いのかと。
由美の隣のその席に、僕が座ることはできないのかと。
なんで、浮気なんてした由美のことを、僕はまだ好きでいれるんだ。
なんでこんなにも、心というのは理不尽なんだ。
本当に泣き叫んでしまいたかった。けれど、いくら待っても涙はやってこない。
なんでこうも、理不尽なんだろう。