The Beginning
「おーい! エド、物書きはその辺にして、早く仕事にいこーぜ?」
「あぁ、もうちょい待ってくれ……いま、この辺まで出かかってるんだ」
「それはいいけどよ……それで三度目だぜ? 早く、喉まで出かかってるの出しちゃえよ」
僕はいま、インクの乾いたペンを左手に、机の上に敷いた紙と睨みあっている。
どうしてだって? それは物語――小説を書くためさ。しかし、実際はまだ何も書くことが浮かばないで、二時間近くが経過していた。
「……よし、いこうか」
「やっと行く気になったのか……それでつっかえ物は取れたのか?」
「残念ながら、何も書けちゃいないさ」
「そうか。ま、取り合えず早くいこーぜ」
片手に鞄を持ったリックが先に僕の部屋から出て行った。窓と扉が向かい合うようになっている僕の部屋は、彼が扉を開けたと同時に外の風が入り込み、『まだ』白紙の紙が舞い上がった。
なにも案がなくて書けていなかった訳ではない。もちろん書きたい物語はきちんとあるのだが、今の僕では書けないのだ。
でも、今日は何だかいつもと違うことが起きそうな気がした。
「じゃあ、ケイトおばさん行ってくるよ」
一階の台所で掃除をしていたおばさんに声をかけ、僕たち二人は、霧が覆うロンドンへと出かけた。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
「さすが、産業革命の国だよな……どこもかしこもお盛んだぜ」
ロンドン市街に向かう途中、建設中と思われる建物が幾つもあり、リックは少し意味ありげな言葉を含んでそういった。
「まあ、そのおかげで仕事ができるんだけどね」
「違いねえわ」
産業革命で工業が発達し、ロンドン郊外には幾つもの工場が新しく建設されていた。その一方、イギリスの首都であるロンドンではお偉いさん方が開発や会議にと、たくさんの人が仕事に向かうのだ。
そこで必要になるのは何だと思う……?
足になる馬車? 上品な服を仕立てる服屋? 同じく帽子屋か? どれも正解だが、一番重要なのは違う。
それは――靴磨き屋だ。
人の性格、気品の高さ、行動……その人に関するほぼ全てのことが足元を見ればわかる。いくら高級な靴を履いていたとしても、それが汚れていては意味がない。
確かに、持っているもので資産力をアピールするには効果を発揮するかもしれないが、汚れていたり、傷がついているのは、その人の性格が大雑把で面倒くさがり屋だ。という自分にとってマイナスなことを自ら相手に。
そこで必要になるのは優しい市民の味方、靴磨き屋というわけだ。まあ、もっとも、本当にお金を持っているのなら、汚れたら買い替えればいい話なのだが、それも飽き性で金使いの荒い性分だということを自身から言っているようなモノなのだけれどね……。
「なあ、エドは何を書こうとしていたんだ?」
「僕のことさ」
「エドのこと……?」
「ああ、過去にちょっとした経験があってさ。それを物語にして出したら面白いのかなって思ったんだ」
「そうか、ま! がんばれよ、磨き屋を続けながらよ!」
「もちろん、そのつもりだよ」
ハーレイ・ストリートからいつも仕事をしている中央公園まで三十分近くで着くことできる。辻馬車を使えばその半分くらいで行くことができるのだが、辻馬車に使うほどの金銭がないのと、それに乗ることをリックは毛嫌いした。
隣を抜ける馬車を目で追っていると、
「辻馬車は乗らないからな?」
「ああ……もちろんさ。そんなお金は持ち合わせていないからね」
彼から見たら乗りたそうに見えたのか、そんなことを言ってきた。
「エド、吸うか?」
「いや、僕はどちらかっていうとお酒派だからね」
「そうだったな……」
僕たちはいつもの様にそんな会話を交わし、リックはコートの内ポケットに入れていたパイプを取り出して、マッチで火をつけた。火付きをよくするために何度かふかし、そのあとで肺にニコチンを送り込む。
「ふぅ……やっぱり、アメリカ産のはうまいな」
「そんなに違うの?」
「ああ、コレは葉っぱ百パーセントなんだよ、国産のは他のも混ぜてるから、吸い終わるのが早いのさ」
僕には全く分からないが、吸う人にはわかる話みたいだ。前、仕事終わりに呑んでいたとき。リックは「酒なんてどれも同じだろう」と言っていたのを思い出す。ビールは本場、ベルギーの方がおいしいし、ウィスキーも外国産の方がおいしい。葉っぱもそんな感じなのだろう……。
「……あっつ」
どうやら勢いよく熱い空気を吸い込んだみたいで、ふらっと道の真ん中らへんまで出てしまった。
「おい! 坊主、邪魔だよ!」
辻馬車の御者が、よろけたリックに声を上げた。
「うっせえ! 安全運転しとけ!」
今のは完全に道路へ出た彼が悪いのだが、すぐ頭に来てしまう彼は口を悪く、言い返した。しかし、悪く思わないでほしい、彼は口が悪いのと目つきと態度がでかいだけで、いいやつなのだ。自分の中で善と悪の区別はきちんとついているし、悪いと思っていることは基本、やらない。そんな性分だから僕を含めて友人はあまり多い方ではなかった。
「気をつけなよ」
「ああ、でも、ほら」
リックの指さす方に目をやると、バッシャーン!! と大きな音を立てながらも運転をする先ほどの辻馬車が写った。
「あの親父、酔ってたぜ?」
「そうだったのか」
「ああ、赤くなった頰は寒さでなる色じゃなかったし、何より右手に酒を持ってたからな」
「すごいな、あの一瞬でよくそこまで見れたね」
「まあ? 俺だからな! あははは!」
リックのすごいところは、こういうところなのだ。いつも周りを観察していて、冷静に判断をする。しかし、あまり褒めすぎると調子に乗ってしまうところは少し、危なっかしい。
「ん……終わった」
そういうと、吸い終わった葉っぱを路地の隅に捨て、まだ熱を持つパイプを少し冷ましてから内ポケットに戻した。
「ちょうどついたね」
「そうだな、な? 辻馬車なんて乗らなくてよかったろ?」
「ああ、全く君の言うとおりだよ」
「さ! 仕事、仕事!」
真ん中に馬の銅像がある中央公園に着くと、僕たちはいつもの場所に腰を下ろして仕事道具を広げる。通りかかった人に磨き屋とすぐわかるように簡易的な看板を出だしておいた。
いつもと同じくらいの人通りに工場からの煙で薄暗い空、テムズ川はいつものように大量の水を運び、ビック・ベンがみんなに時刻を伝える。
――うん、いつも通りだった。
「今日は何かが起きるような気がしたんだけどなぁ」
心の中で思っていた言葉が思わず口から漏れ、リックが少し驚いていた。
「いきなり声を出すなよ」
「ごめんごめん」
彼は人の流れを読むのが好きで、いつもお客さんが来ないときは、顎に右手を当てて猛禽類のような目つきで観察しているのだ。それに集中しすぎてたまに声をかけると全身で驚くことがある。さっきみたいにね。
「……エド、今日は面白いことが起こるぞ」
「本当かい!」
「ああ、そこにいるブロンドの髪をした女がさっきからちらちらと何回かこっちを見てんだよ、それに周りにも目をやって……きっと、人通りが少なくなったらこっちに来るぞ」
確かに、先ほどからあの女性はいたが、僕は待ち合わせをしているものだと、ばかり思っていた。
「なんでわかるんだい?」
「そのうち、わかるさ」
「――あの……少しお話を聞いてもらえませんか?」
「ほらきた……ええ、大丈夫ですよ、その下ろしたての靴は磨きます?」
リックが言っていたブロンドの女性は見事、周りに人がいなくなるのと同時に近寄り、話を聞くように言ってきた。それを聞くと彼は小さな声で呟いては、下ろしたての靴ということは分かっているとでも言うように聞き返した。
「いえ、大丈夫です……変装しているのはもう、バレているみたいですわね」
「ええ、あそこにいたときから。ようこそバーバー御婦人」
――リックがそう言うとサングラスを外し、顔が公となった。
化粧をしていないのかソバカスが目立つ頰、高い鼻、透き通るような碧眼、そしてブロンドの髪の毛は有名洋服ブランド『バーバー・ウェア』の現社長、アリアナ・バーバーさんだった。
「それで、お話というのは……?」
「少々失礼かと思いますが、これからお話しすることは内密にお願いできます?」
「それはもちろん、なあ?」
「ええ、心得ています」
それなりの有名人が目の前に現れ、緊張と動揺を隠せていなかった僕にリックは少しでもそれが和らぐようにと声をかけてくれた。そのおかげで激しく胸を打っていた鼓動は収まると、先のことを思い出せるようになり、冷静になった僕は彼がどうやってバーバー婦人を見抜いたのかがやっとわかった。
先ほど、婦人は『内密にしてほしい』と言っていた。つまり……。
「それにしても、どうして見ただけで私だとお気づきに?」
「簡単なことの組み合わせですよ、ちょうど、彼にも分かったようなので、答え合わせと同時にお話ししますよ。エド……君の出番だ」
僕が見抜いたことはリックに見抜かれていた。
「ではまず、先ほどまでかけていたサングラスですが、外国では効果を発揮するかもしれませんが、曇り空や雨が多いいイギリスではまず、かける必要がありません。そのことから、本来の目的以外でかけている。つまり、顔がばれるのを恐れたと考えます。次に、帽子、コート、それと靴はきっと、今日のために新しく買ってきたのでは、ないでしょうか? サングラス同様、それらを使って変装をするために……。そして、バーバー婦人と決定打にしてのは歩き方です。ふだん、ヒールのような高い靴を履いている方は底が平らな靴を履いて歩くと少しだけ不自然になるんです。この話をまとめると、顔が少なくともロンドンには知れていて、お金持ちの女性ということになります」
自分の考えをリックに求められた通り、バーバー婦人に伝えると少しだけ驚いた表情をしてから、抱いた疑問を言葉にした。
「見ただけでそこまで見抜くとは……素晴らしい! ですが、それだけでは私とまでは断定できないのでは、ありませんか?」
「きっと、彼も遠くから見ていただけでは断定するまでとは、いかなかったでしょうが、身に着けているものを近くで見ればわかりますよ。未発売の腕時計、ネックレス、イヤリング……と、今日身に着けていらっしゃるアクセサリーはすべてと言ってもいいほど、御社製の未発売でまだ、公表されていない物ばかりです。それと先ほどの考えをくっつけると、バーバー・ウェアの上層部か現社長のバーバー婦人に絞られるわけです。そして、話
しかけられたときの声色を聞いて確信へと変わりました」
「まあ! し、しかし、どうしてこれらが新品であると?」
「酸性雨が降るこの街でそんなに鮮やかな色を保ったままのコートがあるとは思えませんし、何より……」
言っていいものなのか、言わないでこそっと気づかせた方がいいのか……と悩んでいると、
「バーバーさん、今日買った服にタグが付いたままなんですよ」
リックが考えを察し、何を躊躇することなく、言ってのけた。彼の言葉を聞いて始めて気が付いた婦人は赤くした顔を見られまいと、手早くタグを外し始めた。そして、すべてが外し終えると……一度、咳ばらいをして顔を上げた。
「お、お見事です……本題から脱線してしまいましたね……ここでは話しにくいので、用意してあるお店でどうです?」
「ええ、もちろん」
「あ、はい! 大丈夫ですよ!」
リックが口を出さなかった。ということは僕の考え、推理が当たっていたということだ! と心の中で喜び、その余韻に浸っていたところ、婦人が「あなたは?」と僕を待っていたので、思っていた以上に元気な声で返事をしてしまった。
――バーバー婦人に導かれること、数分。
ビック・ベンに向かって少し歩くと、婦人行きつけだというレトロな雰囲気の喫茶店が僕たちを迎えた。行きつけと言っていただけのことはあり、サングラスを少し下げただけでウェイターは婦人だと気が付き、奥の個室へと僕たちは通される。
「おしゃれですね……」
思わず口に出してしまった僕はすぐに無駄口だと気が付き、すみませんと謝罪した。
「いいのよ、すみませんだなんて、気に入ってもらえてよかったわ」
後で知ったことなのだが、ここのお店はバーバー婦人が趣味で経営をしている喫茶店だそうだ。ウェイターがコーヒーを三つ運んで、去るのを待つと、リックが口を開いた。
「すみません、パイプは大丈夫ですか?」
「ええ、問題ないわよ」
「申し訳ないです」
と、だけいい一息つくと本題に乗り出す。
「それで、どのようなご用件で?」
「実は……夫の浮気を疑っているのよ」
女性らしい内容に、ほう……と関心を示してから彼は白い煙を吐いた。
「詳しく聞いても?」
「ええ、もちろん。疑い始めたのはまだ、暖かった頃だったわ。そのころから頻繁に夜、出かけるようになったのが始まりね。それからしばらく経つと未発売や非売品がよく家から、なくなるようになったの、そこで初めは従業員の仕業かと思ったのだけれども、みんな口をそろえて『有り得ません』と言ったのよ。そうなった以上、夫に聞くしかなくなって聞いてみたわけ、そうしたら私でもわかるくらいの嘘をついてごまかしたわ。それから、ウチの商品はなくならなくなったのだけれど、次から次にお金が減っていったのよ、どこでそんなに使っているのかと問い詰めても、嘘ばっか……前は時計なんて興味なかったくせに集めるようになったって。もう、浮気だわ。と思った私はロンドンで腕の立つ探偵を雇ったのよ、でも、それだけでは決定的な証拠までは掴めないでいたのよ……」
最後まで話は終えたものの、ところどころで涙と怒りをあらわにしていた。それもそのはずだろう。愛する人がほかの女性を愛してしまったのだから。
「……なるほど。わかりました、それで僕たち、靴磨き屋にどこまでしろと?」
そうなのだ。僕らはロンドンで探偵を営んでいるわけでもなければ、それらの仕事を生業にしているわけでもなく、ただ、暇なときに人間観察をしているだけの靴磨き屋なのだ。そんな僕たちが探偵よりも良い働きができるはずもない。ましてや、ロンドンで腕が立つと言われていた探偵でさえも、証拠がつかめなかったこの案件を……。
「そうね……夫の浮気調査をお願いしたいと思っているわ。成功報酬は言い値で構わないわよ」
「分かりました。では、靴磨き屋として精いっぱい、がんばります」
「ええ、期待しているわ。七日後の今日と同じ時刻に中央公園でいいかしら?」
「構いませんとも」
「では、頼みましたわ、靴磨き屋さん」
二人だけで事が運び、この本来とは異なる仕事を僕たちは引き受けることとなった。期限は七日後……それまでに浮気の証拠を押さえなければ、いけないのだ。
先に失礼と、退出していったバーバー婦人を見送った僕たちは互いに少し考える時間を設けた。
僕は最後の一つまみをパイプに詰め、火をつけるリックを見ながらコーヒーを口に運び、彼はニコチンや有害物質を含んだ煙を肺に入れては出しを繰り返していた……。
――約束の七日後、バーバー婦人に報告をするため待ち合わせの中央公園で僕とリックは待っていた。時々、『今日はやっていないのか?』とたずねてくるお客さんがいたが『今日だけ特別なんです』と答えると、悪態をつかれるときもあったが、大体は『そう、いつもありがとうね』と感謝の言葉を言ってくれる人もいた。
「何か、新鮮だね」
「ああ、本当だ。長いことやっていると、いいこともあるな」
僕たちは幾つか言葉を交わし、バーバー婦人を待っている間、いつものように人間観察をして時間を潰していると、向かいの方から見覚えのある御婦人がやってきた。
「お待ちしておりました、バーバーさん」
「この間の喫茶店に移動したいのだけれど、いいかしら?」
「ええ、もちろん」
バーバー婦人のおしゃれな喫茶店へと向かう間、結果がどうだったのか気になっている様子だったが僕とリックはわざと気にかけないようにして、奥の個室へと入っていった。
バーバー婦人は運ばれてきたコーヒーを一口飲むと唇を湿らせてから話を切り出してきた。
「それで、どうだったのかしら?」
「どうでしょうね……?」
「質問を質問で返すべきではないと思うのだけれど?」
「それはバーバーさんも同じことが言えるのでは……?」
「あなたね……! もう、いいわ。時間の無駄だったわよ。そうよ、元々こんな子供にむべきではなかったのよ。コーヒーのお代はいいから早く私の店から出て行って!」
いつもはもっと下からものをいうリックなのだが今回は、失礼に値するほどの言い方に態度でバーバー婦人を怒らせようとしていた。彼は出て行けと言われたにも関わらず、優雅にコーヒーを一口。そしてパイプをゆっくりと風味を味わうかのようにひと吸いして、鬼の形相をした女性に焦点を合わせるべく睨みつけるようにして目を上に向けた。
「何よ……もう、いいわ。私が出ていけばその睨めっ面も見なくて済むのよね。それじゃあ」
倒した椅子を直すことなく立ち去ろうとするバーバー婦人を止めたのは、個室の扉を勢いよく開け、満面の笑みで登場した夫のブラウン氏だった。彼女の怒りを包み込むようなその笑みで彼は、
「あぁ、愛しのアリアナよ。今すぐ馬車に乗って正教会までいこう! さあ!!」
先まで彼自身の浮気を疑い、十字架に縛り上げ、串刺しにでもしそうだったバーバー婦人もブラウン氏の笑みには勝てないらしく、満面の笑みで
「……はい!」
とだけ答えた。そしてブラウン氏に導かれるがままのバーバー婦人は足取りを軽くして聖教会まで一緒に向かったのだった……。
――後日、バーバー婦人が中央公園で仕事をしている僕たちの元までやってきた。
「この間はごめんなさい、私カッとなっちゃうのがすぐで……」
「いえいえ、大丈夫ですよ。あまりお気にされないでください。それで報酬のお話なのですが」
「ええ! もちろん、言い値で出す予定よ!」
「それでは、磨き一回分を七つとちょっとした噂を流していただけると、こちらとしては大変、助かります」
リックの言い値にバーバー婦人は一度、驚いた顔をしたが彼の表情から冗談ではなく本心からそういっているのだと分かり、二つ返事で承諾した。金銭の報酬はその場で支払い終え、あとは『ちょっとした噂』を流してもらうだけとなった。
「噂というのは……?」
「私たちがそこらの探偵よりも優れていると流してほしいのです。ただし、何でも受けるわけでもない。ということを強調してください」
「分かったわ」
彼の意図が伝わったらしく質問をせずに踵を返した。
「じゃあ、僕もさっそく今回のことを文字にして書き起こすことにするよ」
「あぁ。気を付けて帰れよ」
「それじゃあ」
と僕たちは言葉を交わして別れた。
自宅に帰る途中、酔っ払いか薬中の男が路地で不気味な歌を歌っていたがそんなことを気にすることもなく、僕は早く書き起こしたい一心で走り出し、帰宅を急いだ。
「――僕たちはある婦人から浮気調査を受けることになった・・・・・・っと」
自室の机に向かい白紙だった紙にインクをしみこませ、文字でいっぱいにしたが、ここからどうやって作中に今回の出来事を入れようかと迷った僕は左ポケットに入れていた手帳を手に取り、一連の動きを思い出した。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
――バーバー婦人から依頼を受けた僕たちはまず、彼女の近辺から情報収集を始めた。普通は浮気を疑われている夫を調査するべきなのだろうが、リックの考えは違った。
「相手の情報も大切だけど、もっと大切なのはバーバーさん本人だろう?」
まず、依頼者がどんな人柄でふだん、何をしているのか、自分たちに危害を加えないような人なのか……有名な人物とだけあって、表側は知っていても裏側は全く知らないわけなのだ。だから、まずはそこから僕たちの浮気調査は始まった。
調査一日目は彼女の自宅近辺で聞き込みを始めたのだが、皆口をそろえて言うのは公表してある表向きの顔ばかりで肝心な裏の顔は全くといっても過言ではないほど、手に入らない状態で一日目が終了した。この日は始める時間が遅かったのと、聞き込み調査に慣れておらず、予想以上に時間がかかってしまった。と※印で書き足してあった。
そして、昨日の改善点を一掃すべく調査二日目に突入した。期限が限られている以上、無駄な時間は過ごせない。とリックは夫の尾行を、僕は引き続きバーバー婦人の身元調査を。と二手に分かれて駒を進めることになったのだ。それが功を奏し、三日目、四日目と、うまい具合に情報が手に入ってきた。そこで分かったのがバーバー婦人は現法律において犯罪には手を染めておらず、嘘でさえもついたことが、ないほどで表も裏もなく、自分にも人にも厳しい頼れる立派な女性だということ。そして、彼女の夫であるブラウン氏については毎日通うお店があり、そこで三十分から一時間ほど物色をすると、また、違うお店に入り……を幾つかのお店で繰り替えし、彼が訪れていたのは全て『バーバー・ウェア』の支部店であることもリックの尾行から分かっていた。
残りの三日で浮気相手と、その証拠をバーバー婦人に提出しなければならなく、なっていた。彼女のことが分かった以上、僕が付いて回ることは意味をなさないからとリックと二人でブラウン氏を調べ上げようと、していたのだったが、リックのいういつも通りの行動をするだけで、これまでのような新しい発見はないまま、最後の日。六日目を迎えた。
僕は悠然としているリックが分からなくなり、彼に
「これからも同じ行動を続け、そのまま明日になってしまえば、僕たちは七日の間、ただ働きをする羽目になるというのに、どうして君はそんなに余裕を持ってパイプを吸っていられるんだい……」
と少し感情交じりに聞くと、彼は自信に満ちた顔でこういってみせた。
「今日、必ず違う行動を見せる。そして明日には自らバーバーさんに何をしていたのか告げることになるさ」
このときの僕には彼の言っていることが全く理解できないでいた。でも、彼がそう自信満々に言ってみせるのだからそうなのだろう、という信頼からなる安心感を胸に抱いてもいたのだ。そして彼のいった通り、ブラウン氏はいつも行くはずのお店には寄らず、ビック・ベンより南にある聖教会に足を運んだのだった。神父と何やら話を付けてから外に出てくるのを見計らい、彼は初めてブラウン氏に接触した。
「初めまして、ブラウン氏。ここで一つ、お願いを聞いてもらえませんか……?」
「どうしたんだね?」
「ご存知かもしれませんが、あなたの奥様――アリアナさんはブラウン氏の浮気を疑っております。そこで浮気調査を頼まれたのが我々なのですが、明後日、ここで結婚式を挙げる予定ですよね?」
「なぜ、そのことを?」
「それは先ほども申し上げた通り、私どもが調査をしたからでございます。そこで提案なのですが式を挙げるのは明後日ではなく、明日になさっては如何でしょうか?」
「ほう……その理由は? 探偵君」
「奥様は私どもが浮気の証拠をつかめなかったら最後。離婚を提示すると、おっしゃっておりました」
「……ほう」
「そこで我々が一役買ってみせるのです」
「詳しく」
「はい。明日の正午に『いつもの場所』にて奥様と待ち合わせる約束になっております、そこで私どもが奥様を何らかの理由でお店の外まで導きます。しかし、出た外には殺風景ないつもの街道があるのではなく、ブラウン氏が正装に身を包んだ姿で待っていたらどうでしょう? そして、そのままこの聖教会で式を挙げられれば……」
「なるほど……WinーWinの関係になる。というわけか」
「ご理解がお早くて助かります」
「わかったそうしよう」
こうして最後の六日目は幕を閉じたのだった。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
「よ、こんなもんか……」
一連の出来事を実際とは少し違う感じに書き換え、白紙だった紙にインクをしみこませて、黒一色へと変えた。ガス灯に灯が灯り、霧がかったロンドンの街を薄暗く照らし始めた頃、僕は机の引き出しの奥から一番高いウィスキーを取り出し、コルクを開け氷の入ったグラスに少し入れ、執筆後の時間を楽しんだ。
「エドー! 部屋にいるのかー?」
「ああー、いるよ」
コートを羽織ったままのジョセフがドアをノックしないで入ってきた。
「どうしたんだい?」
「お前の好きな猟奇殺人が起きたぞ」




