Prologue
「はぁはぁはぁ……」
茶色のコートに身を包み、泥の付いたズボンで薄暗い路地を走る少年がいた。
――激しく心臓が鼓動を打つため息は上がり、体も酸素不足で鉛のように重たい。うまく足を動かすことができないが、今この足を止めてしまったらあの大男に追い付かれてしまう……そう考えただけで、自然に前へ前へと足が進んだ。
昼間のロンドンならば、水売りや靴磨き屋など様々な職種の店が立ち並び、賑やかにしているが、今は午前3時をまたいでいる。
そんな草木も眠る時間にハーレイ・ストリートを走っても、うろついているのは餌を探す野良犬か、居心地の悪そうな場所で寝ているホームレスくらいなものだった。
月の代わりにガス灯が照らす大通りに出たのが吉と出たのか、ギィギィと音を立てながらランタンの明かりを揺らす警官が巡回のため前方から歩いてきた。
――市民の安全を守る警官の存在に俺は安堵したのか、凹凸のない平らな道で足を絡ませ、派手に転んでしまった。
――警官のところまであと少し……転んだ際に擦りむいた手の平から泥交じりの血が流れるが、そんなことは気にしていられない。俺は蝋で固められたように重く動かない足を引きずりながら、前へ前へ……と這いずった。
しかし、小さな少年のその、大きな努力は背後から聞こえる、何かを切り裂く小さな音によって虚しく壊されてしまう。
――ズシャ。
――ズシャ。
――ズシャ。
何度も何度も聞こえ、耳から離れないその音は次第に少年の痛覚までも刺激し始めることとなった。
「……あ……あぁぁぁぁぁぁぁあああ!!」
少年を追っていた大男は、先までの雨で濡れた石畳の上に這いつくばる少年に追い付くと、刃渡り10センチはあると思われる鏡面なナイフで何度も少年の背中を刺したのだ。
金属同士がすり合わされた様な音の断末魔と、それに不揃不揃いで不安定な笑い声はハーレイ・ストリートを巡回していた警官の耳にも届き、急いで悲鳴の元へ走って向かった。
しかし、警官が駆けたときには遅く、そこに残っていたのは血まみれの少年『ただ1人』だった。
「大丈夫か!! 何があった?!」
微かに息をする少年に警官はそう問いかけるも、意識が朦朧としている少年には何も届かないでいる。
ただ、少年の耳に残るのは……自分の背中を何度も刺される音だけがいつまでも響いていた――。