7
時間はかかったが、トリスとエリザは何事もなく無事にアステルの屋敷に帰り着くことができた。
道中、二人の間には、とうとう会話が一度もなかった。
屋敷の前では、アステルが憮然とした様子で出迎えていた。足下には、シェリアーがやれやれ、と疲れ切った感じで並んでいる。
「お久しぶりです、エリザ様」
「お久しぶりですわ、猫公爵」
アステルの声は、明らかに不機嫌だ。それでもわざわざ出迎え、ぎこちなくではあるが丁寧な対応を取る。
公爵位のアステルにそうさせる。
公爵よりも高い身分。トリスにはひとつしか思い浮かばない。
アステルに促され、エリザは屋敷に入る。アステルが後に続く。
トリスも中に入ろうとしたとき、足下からシェリアーに声をかけられた。
「戻ってくる道中、何もなかったか」
「どういうことですか」
意図がわからず、聞き返すトリス。
「エリザ様が誰かと会ったりはしていないか」
「いいえ、誰とも会っていないですよ」
「ふうむ。単独行動とは珍しい」
シェリアーはひとり、納得したように屋敷へと入る。
どういうことなのかさっぱりわからないが、トリスも屋敷に入る。
玄関の扉をくぐると、すでにアステルとエリザの姿は見えなくなっていた。
「誰かと会う予定だったんですか」
「いや、エリザ様おひとりだったのなら、それで別に問題はない」
シェリアーは足を止め、トリスを仰ぎ見た。
「ただ、あのお方が単独で出歩かれるのが珍しいことだから、もしかしてと思っただけだ」
「いつもは誰かと一緒なんですか。というか、あの少女は何者なんですか」
本人には聞けなかったので、シェリアーに質問してみる。
「あの方の名前を口にしないとは、意外と賢い。今後も、気安く上位魔族の名前を呼ばない方が良い。私やアステルは気にしないが、人族に言われると気に障る者もいる」
返答の代わりに、警告が飛んできた。そして、質問への答えはなかった。
再び歩き始めたシェリアーのあとを追って、トリスも歩きだす。考えなしについて行ったが、数ある部屋なかでもひと際立派な扉の前まで来たときに、トリスはシェリアーから釘を刺された。
「まさかと思うが、部屋の中までついてくるなよ」
足下から睨まれ、トリスは苦笑する。
「そういえば、そうですね」
上位魔族同士の会談に、人族の自分が加われるわけがない。それくらいはトリスにもわかる。
「いや、トリスも入ってこい。わたしが許可する」
しかし、突然扉を開いて顔を出したアステルが口を挟んだ。
シェリアーが何か言おうとするのを遮り、アステルはトリスを部屋へと強引に誘い込む。トリスは押し込まれるようにして部屋へ入った。
扉から想像できてはいたが、やはり豪華な部屋だ。
トリスが昨夜に泊まった部屋や、夕方の応接室など足下にも及ばないほど。絨毯は毛足が長く、歩けばくるぶし辺りまで沈む。暖炉周りや柱の一本一本には緻密な彫りが施され、金や銀で縁取られている。天井は高く、鮮やかな絵が描かれていた。
部屋の奥には応接一式の家具が配置され、そこにエリザが居た。
人族のトリスが入室してきたことを、エリザが気にした様子はない。アステルはもちろん、気にしていない。シェリアーとトリスだけが戸惑っていた。
アステルに背中を小突かれ、エリザの対面の長椅子へと座らされるトリス。両脇に、アステルとシェリアーが腰掛ける。
トリスが恐る恐るエリザを見ると、相変わらず可愛らしい笑顔で、こちらを見ていた。
「トリスと一緒に話を聞かせていただきます」
「かまわないですわ」
アステルは不機嫌そうだ。
張り詰めた空気が、部屋を満たしていた。
いったい、どういったの話が始まるのだろう。なぜ、アステルは自分を同席させたのか。トリスは困惑したまま、魔族たちの動向をうかがう。
口を開いたのは、エリザだった。
「さて、主様より預かった物がございますの」
大事に抱えていた長物を黒布から取り出して、アステルに差し出すエリザ。
長大で、異形の剣。歪に曲がった刀身。柄から剣先まで漆黒。無数に埋め込まれた宝玉も黒。異様な漆黒の剣は不気味な気配を放つ。
トリスには、とてつもなく不気味な物に感じられた。
漆黒の歪な大剣を見て、アステルの不機嫌さが増す。
「主様は、これをアステル公が受け取られることを望んでおられますわ」
「いらない。絶対に受け取らない」
激しく首を振り、拒絶するアステル。
「ああ、困りましたわ」
言葉とは裏腹に、エリザは笑みを崩していない。
「人族の坊やは、現在の魔族の世界がどのような状況かご存じでしょうか」
エリザから突然に話を振られ、トリスは戸惑う。
考えてみるが、もちろん何も知らなかった。なにせ、ほんの少し前までは情報などほとんど入ってこないような隠れ村でひっそりと生活していたのだ。魔族の情勢どころか、自分の住んでいた隠れ村が魔族の国々のどの位置に在ったのかさえ詳しくは知らない。
首を捻るトリス。アステルとシェリアーも、なぜそんな質問を、と訝しむ。
「十日ほど前に、西の一画を担う魔王が人族の王、巫女王に伐たれてしまったのです」
相変わらずエリザは笑顔だったが、アステルとシェリアーは表情を引きつらせた。
信じられない、とシェリアーが呟く。
「魔王ユベリオラが人族の神殿都市に侵攻していたのは知っていましたが。まさか、人族ごときに魔王が敗れたとおっしゃるのですか」
シェリアーの問いに、エリザは頷く。
人族ごとき、というシェリアーの言葉にトリスは心を痛める。
「正確には、相打ちなのですけれど」
それでも、アステルとシェリアーには衝撃的なことだった。
「今回、魔王ユベリオラが伐たれたことによって、本来十人居るはずの魔王が半数にまで減ってしまいました。五百年で半数まで減るとは、情けないことですわ」
エリザは残念そうに話すが、やはり笑みを浮かべたまま。本当に残念そうには、とうてい見えない。
「魔王ユベリオラが巫女王と相打ちになったとしても、あれには優秀な腹心がいたはずです。その者に剣を渡されれば良いのではないですか」
「魔将軍ゼリオスですか。あの方は、聖女に倒されてしまったのです」
そんな、まさか。とアステルとシェリアーは驚きを露わにする。衝撃を隠せないふたりの魔族。その一方で、トリスは高揚していた。
人族が魔族の、それも支配階級に君臨する魔王やその腹心を倒した。これほど誇らしいことははない。
遙か西方には、人族が治める国が幾つもあるという。
そして、人族の治める国々の象徴となり、魔族や神族からの侵攻を防ぐための要となる都市。創造の女神を崇め、人々のよりどころとなる宗教の最高指導者、巫女王が治める場所。それが神殿都市と呼ばれる都だ。
魔族が支配する世界の隠れ村に住んでいたトリスでも知っている。
その神殿都市の巫女王様が、相打ちとはいえ魔王を倒した。さらに、聖女様がその腹心である魔将軍までをも倒したという。これほど嬉しく、興奮することはない。
しかし、表情に出してしまっては、周りは魔族ばかりなので危険だ。躍る気持ちを必死に押さえるトリス。
「そうそう、魔将軍ゼリオスを倒した聖女なのですが」
エリザは、シェリアーを意味深に見つめながら続けた。
「あの、ルアーダ家に連なる者ですわ」
ぐるる、とシェリアーが低く喉を鳴らした。
「なんだ、そのルアーダとやらと知り合いなのか」
アステルも知らないことのようで、シェリアーに訪ねる。
「恨みのある一族だ」
それ以上は、シェリアーは語らなかった。
「どうでしょう。シェリアーが魔王位に就きますか。わたくしや主様は、それでも問題はないのですが」
「お断りします」
間髪入れずに拒否されて、エリザは苦笑する。
「困りましたわ。主様より、これを必ず渡してくるように仰せつかっていますのに」
エリザはアステルとシェリアーを交互に見つめるが、二人は目を合わせようとしない。
魔王になることが、それほど嫌なことなのだろうか。トリスには理解できない。魔王になれば富や権力、その他の欲しいものを全て手に入れられると思うのだが。
「では、こういたしましょう。一度こちらをお渡ししますので、断られる場合はご自身で主様へお返しくださいませ」
名案だ、とエリザは嬉しそうに手を叩くが、アステルは慌てる。
「朱山宮には、先日行ったばかりです。そもそも、いまお断りをしているのですから、このまま持って帰ってください」
「それは無理ですわ。だって、わたくしは必ず渡すように言われましたもの。それに、このあと東方へと用事がありますの。西ではユベリオラが。東ではクシャリラとローザが問題ばかり起こして困りますわ」
エリザは立ち上がる。
「そういうわけでして、よろしくお願いしますね」
言うと、エリザは異形の大剣をアステルへと強引に渡す。困惑するアステルを尻目に、エリザは用事は済んだと部屋の出口へ向かう。
「それでは皆様、ごきげんよう」
可愛らしい笑顔を残し、エリザは退室した。
部屋に残ったアステルとシェリアーは、大きくため息をつく。
「ああ、大変な面倒を押しつけられたぞ」
嘆くアステル。
「魔王って、そんなになるのが嫌な地位なんですか」
「興味がないからなりたくない」
同じく、とシェリアーが弱々しく同意する。
「でもほら、魔王になればたくさんの家来や召使いができますよ。欲しい物はなんでも手に入るだろうし」
なぜ自分はアステルに魔王位を勧めているのだろう。訳がわからない。トリスは自分の言葉に呆れてしまう。
そもそも、魔族間のやりとりなど、人族の自分には関係がないというのに。
アステルは憂鬱そうな顔でトリスを見やると、さらにため息をつく。
「家来なんて、欲しかったら幾らでも金貨を生み出して奴隷を買ってくるさ。欲しい物は生み出せば幾らでも手に入る」
そうか。アステルの能力は物質創造。大抵のものなら、欲しいときに欲しいだけ手に入る。それに、大勢の家来など求めていないからこそ、近隣の村人を使用人として日中だけ雇っているのだ。
「魔王位になっても、良くなることなんてひとつもない。逆に困りごとが多くなるだけだ」
「アステルの場合だと、そうなるな」
「じゃあ、シェリアー様はどうなんですか」
シェリアーは物を生み出す能力を持っていないし、客分としてアステルの屋敷に居候しているので、家来などもいない。
「そうだ、シェリアーが就けば良いじゃないか。なれるだけの力はあるのだろう」
アステルは、シェリアーに向かって異形の大剣を放る。
シェリアーの姿は猫なので、もちろん受け取ることなどできず、異形の大剣は毛足の長い絨毯の上に落ちた。
「あああ、魂霊の座を粗末に扱うな。それだけでも不敬の罪に問われるぞ」
シェリアーはアステルに、きちんと拾うように注意する。
渋々と、アステルは拾い直す。
「魂霊の座?」
トリスの疑問に、シェリアーが答える。
「この漆黒の大剣の名前だ。この魔剣を授かることは即ち、魔王位に就くということを意味する物だ」
魂霊の座は真作は、全魔族の上に君臨する「真の支配者」が所有する。これとは別に複製が十二振り存在し、その内の十本を強大な力を持つ魔族へと配し、魔王へと任命する。
アステルのような爵位の上に魔王が存在し、それらの者が魔族の国々を支配する。だが、本当に魔族を支配しているのは、エリザが「主様」と慕う者なのだ。
お前は知識が足らないようだから、とシェリアーは親切丁寧に説明する。
シェリアーとしてはこの程度の魔族の知識もないのか、とトリスを馬鹿にするものだったが、トリス本人は、隠れ村に住んでいるときには知るすべもなかった魔族の社会の仕組みに聞き入っていた。
しかし、これまでの話の流れからなんとなくは感づいていたが、魔王位を任命するさらに上位の存在が居ることをシェリアーの口から聞くと、さすがに戦慄を覚えるトリスだった。
「富や名声だけでも、力だけでも魔王にはなれない。魔族を支配する『あのお方』に認められ、魔剣魂霊の座を与えられた者だけが魔王になれる」
ではなおさら、名誉ある地位を与えられたのだから、素直に拝命しても良さそうだが。
「それでも、なりたくないんだよ」
「アステルと同じく、地位も名誉も私は何もいらないから、魔王にはならない」
シェリアーの言葉には、それ以上の何かが感じられたが、トリスには聞くことができなかった。
「さて、嫌ではあるが、また魔都へと出向いて魂霊の座をあのお方に返却しないといけないだろうな」
アステルは魂霊の座をしみじみと見る。
「そもそも前回は、何をしになんとか宮へ行っていたんですか」
「朱山宮だ。あの方が住む宮殿で、魔都ルベリアの近くにある」
あの方とは、魔族の真の支配者のこと。
そして、アステルが用事で朱山宮を訪れ、帰りに寄った魔都で出会っていなければ、トリスは今ごろ運が良くて奴隷生活、悪ければ逃亡の見せしめとして、拷問の果てに死んでいたに違いないだろう。
「公爵位の魔族は、定期的にあの方のもとへと赴き、暇つぶしに付き合わないといけないのだ」
面倒だが、これは断れないんだよ、とアステルは苦笑する。
「でも、面倒なら公爵位も返上してしまえば良いのでは?」
トリスは思ったことを口にしただけなのだが、アステルとシェリアーに呆れられた。
「侯爵より下位の地位ならば、力、名声、富、なにか特筆するものがあればなれる。しかし、公爵位と魔王位は、なろうと思ってなれる地位ではない」
「公爵位は真祖のみが就ける」
魔族にも、基本は人族や神族のように親がいて、子が産まれる。しかし、なかには特殊な誕生をする者がいる。
凄惨を極めた大戦や疫病の蔓延により多くの死者が出た場所などでは、ときとして恨み憎しみ、妬み悲しみといった負の残滓が渦を巻き、濃い瘴気を生むことがある。瘴気が長い年月の間に溜まり、濃縮され、形を持った存在。それが真祖族、もしくは始祖族と呼ばれる魔族だ。
真祖族は総じて、強大な力を生まれながらに持っている。そのため、魔族の支配者はこれを公爵位へ封じ、無闇に暴れまわらぬのように監視下へ置くのだという。
真祖族は命の保証の代わりに広大な領土と贅沢な生活を約束される。しかし、万が一公爵位を拒否したり魔族の支配者に刃向かった場合は、容赦なく殺される。
先ほどまで来訪していたエリザには、真祖族を容易く殺すだけの力があるという。
アステルは、五百年前の魔族神族人族入り乱れての大戦で生じた瘴気により、約四百年前に誕生した真祖族だ。
トリスには昔話に聞こえたが、魔族にとっては一世代前ほどの出来事らしい。
「公爵位の魔族は、自分から退位することはできない。公爵位から外れるときは、魔王位に昇格したときか、死んだときだ」
ならば、アステルは公爵位でいるしかないのだ。
トリスはアステルの立場を理解するとともに、彼女が魔族のなかでも特別な存在なのだと認識させられた。
「ところで、あのお方ってどんなお方なんですか」
アステルとシェリアーが名前さえ口にしない存在。エリザが主様と呼ぶ、魔族の真の支配者。ほんの、興味本位だった。
「私らでさえ御名を口にするのははばかられる。お前ごときが口にすれば、地の果てにいようとも一瞬で魂ごと滅ぼされるだろう」
「この先、御名を知ったときも、けっして口にするなよ」
シェリアーとアステルから口々に脅され、トリスは肝を冷やす。
上位魔族にも畏怖を与える存在。余程に恐ろしいお方なのだろう。
「さて、今度の宮参りは面倒になりそうだ」
アステルは魂霊の座を持ち、立ち上がる。
「次は私も魔都へ同行しよう。まあ、準備は明日だな」
言ってシェリアーは部屋から出て行った。アステルも部屋から出ると、トリスだけが取り残された。
「どうしよう。晩ご飯食べてないし、昨夜に泊まった部屋もどこかわからないぞ」
トリスはひとり、豪華な部屋で絶望に暮れた。