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場が凍りつく。
力ある魔族に与えられる階位。序列第二位、公爵。
同じ貴族であっても、男爵位の奴隷商の男とは天と地の差がある。
トリスの目には、長椅子に優雅に座る女性、アステルが途端に計り知れない化け物に見えてきた。
「で、用件はなんだったかな?」
周りの凍りついた雰囲気など気にした様子もなく、アステルは言う。
「ええっと、商品を返せと言っていたかな?」
アステルはようやく長椅子から立ち上がり、トリスの傍らに歩み寄る。
「返すのはかまわないが、弁償はきっちりとしてもらうぞ。衣服代と、この坊やに償わせようと思っていた額を合わせてな」
「ご、ご冗談を……」
「冗談なものか。ほら、さっさと払って帰れ」
アステルは賠償額を提示する。すると、奴隷商の男だけではなく部屋に居た全員が青ざめた。
横暴だ、手下のなかから悲鳴があがる。奴隷商の男は、天文学的な金額に呆然としてしまっていた。
アステルが適当に提示した金額は、常軌を逸した額だった。奴隷商の男どころか、並の貴族でさえ払えるような金額ではなかったのだ。
愕然とする奴隷商の男たちを見て、アステルはくつくつと愉快そうに笑う。
「力尽くで奪いに来たのだろうが、そうはいかない」
アステルは明らかに、困惑する者たちを見て楽しんでいた。
トリスを助けてやろうという慈悲は、アステルのなかには存在しない。服の弁償も、実はどうでもいい。彼女は、大勢の手下を引き連れてやってきた男爵をからかって遊んでいるとしか思えない。
トリスには理解できない世界だ。
「どうした。力尽くでかかってこないのか」
腹に手を当て、くくくっと可笑しそうに笑うアステル。
酔っている。
トリスはそこで、ようやく気づいた。
向かいの長椅子の下に転がる、大量の酒瓶。
あれだけ飲んで、しらふでいるなんてあり得なかったのだ。
トリスの視線に気づき、奴隷商の男も床に転がる大量の酒瓶に気づく。
「……酔っていらっしゃるのか」
「酔っていない」
喉を転がすように、アステルは愉快そうに笑う。
しかし、トリスの目には酔っているようにしか見えない。
奴隷商の男も、同じ結論を出したようだ。
「もしや、これは千載一遇の機会かもしれないねぇ」
奴隷商の男の表情からは、先ほどまでの怯えた気配は消えていた。
「野郎ども、武器を構えな!」
奴隷商の男の指示に、手下から悲鳴があがる。
「ご、ご冗談を!?」
巨躯の鬼が、信じられない、と主人を見た。しかし、どうやら奴隷商の男は本気のようだ。
「どうやら、アステル様は酔っていらっしゃるようだ」
「酔っていないぞ?」
アステルの陽気な合いの手は黙殺される。
「上位階級の魔族を倒せば、俺様の地位も上がる。公爵位の始祖族を倒せば、魔王位も夢じゃないよ!」
ですが、と手下が顔を引きつらせた。
「こんな機会はないぜ。配下の者を連れず、アステル様も酔いつぶれている」
それに、と奴隷商の男は続ける。
「アステル様の能力は有名だ。能力さえ使わせなければ、いけるってもんよ」
奴隷商の男は自信ありげに、にやりと笑みを浮かべた。
「公爵の上は魔王位。俺様が魔王になれば、お前等は魔将軍だよっ」
魔将軍、という言葉に手下もようやく色めき立つ。
アステルは酔っている。
そもそも、公爵という地位に怯えていたが、改めて見るとアステルはまったく強そうには見えない。
「公爵位なんて、始祖族なら無条件で与えられる地位だ。実力はたいしたことがないとみたね」
奴隷商の男は、手下を鼓舞するように叫んだ。
アステルの特殊能力とは何だろう。始祖族とはなんだろう。トリスにはわからなかったが、魔族の間ではどうやら有名らしい。
主人の号令に、手下たちが次々に武器を構えだす。
全身負傷で長椅子に横たわるトリスは逃げることもできず、ただ成り行きに身を任せるしかない。
悲鳴をあげて、たったひとりだけ部屋から逃げ出した者がいた。誰も気づかなかったが、部屋へ乱入した者たちの片隅で震えていた、宿の従者だった。
「やっとやる気になったのか」
アステルは杯を放り投げる。
それが合図になった。
一斉に、奴隷商の男の手下たちがアステルへと襲いかかる。
アステルは杯を投げた動作の続きで、腕を振り下ろした。
トリスには、それだけにしか見えなかった。
しかし、世界は一変していた。
襲いかかってきた手下は、全員が氷漬けになっていた。手下だけではなく、部屋全体が氷の世界へと変わっていた。
唯一、トリスの横たわる長椅子の周りだけが変わらない。
そして、アステルの手には、一振りの剣が握られていた。
いつの間に武器を手にしたのか。
いや、それよりも。
アステルは帯剣しておらず、身近には武器を置いていなかったはずだ。
「予備動作も、何もなしですかい」
どうやら、氷漬けになった手下とは違い、奴隷商の男は無事だったらしい。全身を炎で包み、氷の世界へと変貌した部屋に仁王立つ。
「手下を駒にして、自分はのんきに戦闘準備か」
「氷の魔剣とは、あっしの炎の魔力とは対極ですな」
「ふん、炎の魔法か」
アステルは、手にした魔剣と奴隷商を見比べる。
「そんなに炎を出されては、宿が燃えてしまうではないか」
言って、アステルは魔剣を振るった。
氷色の魔剣の刃から、氷塊が出現する。一抱えほどありそうな氷塊を奴隷商に向かって放つアステル。
しかし、氷塊は奴隷商の男に到達することなく、蒸発してしまう。
蒸発したのは、氷塊だけではなかった。
奴隷商の男が纏う炎の熱気で、部屋の氷が溶けだす。
溶けるだけではなく、壁や天井や床のすべてが燃えだした。
氷漬けになっていた手下たちも溶け始めていた。
「火事になる。この宿屋は気に入っているんだ。燃やされてはかなわない」
アステルは言って、さらにひと振り。それだけで、部屋はまた氷の世界へと戻る。
「ふざけた性能の魔剣ですね」
苦笑いする奴隷商の男。
今回も、奴隷商の男は凍っていなかった。
「それなら、これはどうですかい!」
奴隷商の男がかざした手の先から、巨大な火の玉が生まれる。火球は勢いよく、アステルに向かって放たれた。
高速で迫り、逃げる暇もなく着弾する。大爆発が起きた。
部屋だけでなく、宿全体が吹き飛んでいた。
激しい爆発と火煙で、トリスの視界が真っ赤に染まる。
「ああ、宿屋が……。宿主に怒られてしまう」
真っ赤な視界、火煙の中から、変わらない口調のアステルの声がした。
「むむう」
火球の魔法も防がれてしまうのか。奴隷商の男は唸る。
奴隷商の男はさらに濃い炎を纏い、荒れ狂う炎の中に突進した。
鈍い激突音が響き、衝撃で火煙が霧散する。
「ぐぬぬっ」
再度、奴隷商の男が唸った。
奴隷商の男が突進と同時に放った拳は、アステルの構えた大盾に防がれていた。
アステルは全身を赤い鎧で包み、左手に大盾、右手に氷の魔剣を握っていた。
「得意な魔法が火属性とわかってしまえば、耐火装備を整えればいいだけだ」
にやりと笑うアステル。
炎と煙が晴れて、トリスもようやく自分の置かれた状況の全貌が見えてきた。
トリスが横たわる長椅子とその周辺は、何事もなかったかのように無事。しかし、それ以外は爆散してしまい、なにも残っていなかった。
壁も天井も、なにもかも。
どうやらアステルとトリスは、宿屋の奥まった場所に宿泊していたようだ。
トリスが長椅子の上から恐る恐る周囲を見渡すと、焼け焦げた遺体が幾つも転がっていた。
「うわああっっ!」
周りは吹き飛び、氷漬けだった奴隷商の手下たちは全員焼死している。この場で生き残ったのは自分とアステルと奴隷商の男だけ。だが、どうやら宿屋の全員が燃えて死んだわけではなかったようだ。トリスたちの部屋から離れた場所では瓦礫が散乱し、従業員らしき人影が何人も倒れていた。しかし、彼らはなにかに護られているかのように、倒れ気絶はしているが負傷はしていないように見える。
「手下もろとも吹き飛ばしたのか」
アステルの言葉に、トリスは愕然とする。
下僕の命など配慮もされない。家来だろうと、足かせになるようなら容赦なく切り捨てる。魔族の、なによりも非道な奴隷商の男の行動原理に、恐怖しか覚えない。
トリスにとって、目の前の勝負は非現実すぎて、別世界の出来事のように見えていた。
奴隷商の男の、手下の命を命とも思わない無慈悲な戦い方もそうだが、アステルの動きも理解に苦しむ。絶対に死んだと思った大爆発でも自分の周囲だけは無事で、気付はアステルは装備を変えている。
「もう、わけわかんねぇよ」
トリスは投げやりな気分で、爆散した風景の中で唯一無事だった長椅子に全身を預けた。
状況についていけず、まともに身動きさえもとれない自分には、なにもできない。
もう、なるようになれ、だ。トリスは、おそらく自分を保護してくれているのだろうアステルにすべてを任せるしかない。
アステルと奴隷商の男は、動きを止めて対峙する。
奴隷商の男は全身を紅蓮の炎で覆い、拳を突き出した状態で。
アステルは大盾を構えたまま。
「少し遊ぼうかと思っただけなんだがな。宿屋を破壊されるとは思わなかった」
アステルは大盾の裏で深くため息をつく。
絵画に描かれた貴婦人のような美しい横顔に憂いが浮かぶ。周囲の惨状とはあまりにもかけ離れた美しい情景に、トリスは魔族同士の戦闘中だということを忘れて見とれる。
「まったく、やりすぎだ。これ以上暴れられて被害が拡大したら、魔都への出入りが禁止されてしまう」
それでも戦闘を続けるというのなら容赦はしないぞ、とアステルは目だけを大盾から覗かせると、奴隷商の男に言う。
それで、終わりだった。
奴隷商の男からは覇気と炎が消え、その場で萎縮する。
アステルが泥酔していると思って襲った奴隷商の男だったが、遠距離も近距離攻撃も通用せず、あっさりと防がれてしまった。
アステルは最初の立ち位置から一歩も動いていない。それどころか、傍らの長椅子に横たわるトリスも無事だ。
奴隷商の男は、力の出し惜しみはしなかった。それでも男爵の自分と公爵のアステルでは、これほどまでに力の差があるのか。
奴隷商の男はうなだれる。
魔族同士が争い、負けた方が無事なわけがない。
奴隷商の男は、己の運命を覚悟していた。このままアステルに殺されるのか、自分も奴隷の身に落ちるのか。もとより、公爵のアステルを襲うと決めたときから覚悟はしていた。ただ、そのときは負けるとは微塵も思っていなかったが。
圧倒的な力の差を見せつけられた今、奴隷商の男は自身の運命をアステルに委ねる。仮にも貴族。男爵位の魔族として、無様な態度は見せられない。命を奪うと言われたとしても、命乞いをしてまで生きながらえようとは思っていなかった。
なので、アステルが次に発した言葉に奴隷商の男は意表を突かれ、唖然としてしまう。
「遊びは終わりだ。さっさと帰ってしまえ」
一瞬、アステルが何を言ったのか理解できない奴隷商の男とトリス。
奴隷商の男は間抜けた表情でアステルを見返した。
「なんだ。それとも、今から賠償金を払ってくれるのか」
意地悪そうににやけるアステルに、奴隷商の男は気づいた。
トリスも理解した。
奴隷商の男は本気で襲ったのだが、アステルは最初から遊びだったのだ。
勝負ではないから。遊びだから、片方が手を止めれば、それで終わり。飽きたら終わり。奴隷商の男が負けを認めた時点で、アステルの戯れは終了したのだ。
助かったのだ、と奴隷商の男は胸をなで下ろす。
「このまま、お暇しても良いので?」
爆散した宿屋と自分の所業。本当に帰ってもいいのかと奴隷商の男はアステルに確認する。アステルはひらひらと魔剣を持つ手を振り、帰るように促した。
「仕方ないから、後始末くらいはしてやろう。ああ、ただし。弁償の件を忘れるなよ?」
奴隷商の男を助けたり、現場の処理を引き受けたり。アステルという女性は、随分と変わった性格の魔族だ。奴隷商の男とトリスは、同じように感じていた。
「それでは、お言葉に甘えてお暇させていただきやすよ。ば、賠償金は、後日……」
そう言って、奴隷商の男はそそくさと逃げ帰っていった。
「さて」
随分と派手に吹き飛ばしてくれたものだな。アステルは周りを見渡し、苦笑する。
「もちろん、元通りにしていただけるのでしような、猫公爵様」
不意の言葉に、アステルとトリスは瓦礫の山へと視線を移す。
「オルボの爺様か」
瓦礫が散乱した中に、ひとりの老人が立っていた。
トリスが誰だと聞くと、この宿屋の主人だ、とアステルは教えてくれた。
「爺様を怒らせると、後々が面倒だ」
苦笑いを浮かべながらアステルは指を鳴らす。すると、瞬時に空間が再生された。
木目の美しい天井が頭上を覆い、夜空が見えなくなる。立派な彫りのある柱、美しい壁掛けのさがった壁面で寒風が遮られる。遠目に見えていた宿屋の主人であるオルボは、一瞬で再生された部屋の景色によって、見えなくなった。
瞬く間に再生された空間に、トリスはめまいを覚える。
もう、なにがなんだかわからない。
魔族同士が戦いだしたと思ったら、部屋が凍ったり燃えたり。爆散したかと思えば、瞬きをするくらいの一瞬で、何事もなかったかのような部屋へと元通り。
自分は悪い夢でも見ているのではないか。思って頬をつねろうと腕を動かすが、身体中に激痛が走り、それで頬をつねらずとも現実なのだと認識する。
状況についていけずに目を白黒させたり、激痛で顔を引きつらせたりするトリスを見て、アステルは可笑しそうに笑っていた。
トリスは相変わらず、長椅子に横たわったまま。
アステルは笑いながら、再生した向かいの長椅子に座る。その手には、いつの間に準備したのか、酒瓶と杯があった。そして、何事もなかったかのように酒を飲み始める。
すると程なくして、部屋の扉が叩かれた。
「どうぞ」
前回とは違い、アステルは返事をする。
許可を得て部屋へと入ってきたのは、宿屋の主人であるオルボだ。
オルボは入室すると、部屋の至るところ、調度品の隅々を見て回る。その間、アステルは気にした様子もなく、酒を飲んでいた。
オルボは、一見すると普通の老人に見える。しかしよく観察してみれば、長い眉や白髪の間からは赤い瞳が二つ以上見える。
やはり、あの爺さんも魔族なのだ。美しい容姿のアステルを見ていると、ついつい忘れてしまうが、自分がいる場所は魔族が支配する世界。荒事が収まり、少しだけ冷静に物事を考えられるようになって、トリスは今更ながらに自分がいる世界に恐怖を覚える。
自分はこれからどうなるのだろうか。
アステルの奴隷として、死ぬまでこき使われるのか。
気まぐれで助けられたが、自分を出汁に遊んで、あとは不要で捨てられるのか。
捨てられるならまだ良い。もしかして、奴隷商に売り飛ばされるのではないか。そうしたら、死ぬよりも過酷な未来しかない。
想像しただけで気を失いそうな絶望に取り憑かれる。
「この小僧。人族の分際で魔族様を凝視しているかと思えば、苦痛に顔を歪めたり顔面蒼白になってみたり。変な奴だ」
いつの間にか、オルボはトリスの傍らに来ていた。
トリスは驚き、目を見開く。
「おおう、今度は目をまん丸にしおった」
オルボが呆れたように言う。
「面白い生き物だろう。だが、やらんぞ?」
アステルの言葉に、オルボは「残念」と本気か冗談かわからない口調で応える。
「それで、宿の出来映えはどうだろう?」
「それは申し分ないですな。むしろ従業員どもの部屋まで豪華になって、皆が喜んでおります」
オルボは満足そうに笑みを浮かべる。
「それは良かった」
アステルも微笑む。
和やかな二人を見ていると、つい先ほどまで心を支配していた不安や恐怖が薄れていくのを感じるトリスだった。
次は夕方の十八時?




