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「名前は?」
聞かれて、少年は素直に答える。
「トリス。助けてくれて、ありがとうございます」
「助けたわけじゃない。この服の弁償をさせようと思っただけだ」
女性の服は、少年トリスの血で汚れてしまっていた。
冷たい言葉に、トリスは助けられたのか、さらなる窮地に立たされたのかわからない思いに囚われる。
命拾いをした、ということだけを見れば、助かったと言えるのだが。
助けてくれた相手が魔族で、弁償をさせると言うのなら、これから奴隷として働かされるということを意味している。その現実に目を向けるならば、奴隷商から逃げ出した当初となにも問題は変わっていない。
「結局、奴隷になるのか……」
奴隷商から決死の覚悟で逃げ出し、命辛々逃げついたトリスの運命の行き先は、奴隷の道だった。
トリスが目覚めると、豪華な部屋の長椅子の上でうつぶせに寝かされていた。
傷も手当てされていて、全身に包帯が巻かれていた。
身動きをとろうとすると全身に激痛が走り、それが少年の意識を呼び戻す。
「奴隷がそんなに嫌か」
「嫌に決まっている」
「命拾いしただけでもありがたいだろう?」
命の恩人にそう言われてしまうと、トリスには返す言葉がない。
女性は、長椅子に横たわるトリスのそばに立ち、物珍しそうに見下ろしていた。しかしトリスの意識がはっきりと戻ったことを確認すると、向かいの長椅子に腰を下ろす。
トリスは頭だけを動かし、女性を目で追う。
優雅に腰を下ろした女性は、とても美しい容姿をしていた。
奴隷商が放った追っ手から逃げていたときは強く意識することはなかったが、改めて見ると、人族ではあり得ぬほどの美しさだ。
トリスは、つい魅入ってしまう。
美しい顔立ち。均整のとれた肢体。しかし、なによりもトリスを釘付けにしたのは、猫のような丸く大きな瞳孔の瞳だった。
ふわりと柔らかそうな長い金髪。絹のような滑らかな白い肌。豪奢な衣装に身を包んだ姿は、まるで貴婦人の人形のよう。しかし、自分たち人族にはありえない猫のような瞳が、彼女は冷酷無比な魔族であるということを如実に語っていた。
トリスは言葉なく女性を見つめた。
女性もトリスの視線は感じているのだろうが、別段気にした様子もなく、手にした杯を傾ける。
会話はなく、女性が杯を傾けるときに出る衣擦れの音だけが部屋に流れていた。
その衣装は、未だにトリスの血が付き汚れているものだ。
実は、トリスは巨躯の鬼に担がれて間もなく意識を失ったので、どういう経緯で助けられたのかということを知らない。
この女性は、なぜ着替えないのだろう。
質問したいことは山ほどあるが、一度口を噤んでしまうと自分からは話しかけられないような雰囲気が女性にはあった。
部屋の豪華さから見ても、どうやらこの女性は、貴族かそれに類する高位の魔族らしいことは確かだ。
本来なら、人族のトリスが気安く話しかけても良いような相手ではない。
世界には多種多様な種族が存在する。なかでも、魔族と神族は絶対的な力を背景に、他種族を支配してきた。
世界の西側には人族が治める国や街も存在するらしいが、絶えず魔族や神族からの侵略に晒されているらしい。
学のないトリスには詳しいことはわからなかったが、生まれ育った村の大人からそう伝え聞いていた。
トリスは、魔王ヴァストラーデが支配する国の片隅の、小さな隠れ村で育った。
魔族や神族が支配する国々では、深い森のなか、険しい山脈の奥深くといった人の寄りつかないような場所に人族は隠れ、ひっそりと暮らしている。
しかし、その村が魔族の奴隷狩りに遭い、トリスは捕まってしまったのだった。
人族を奴隷や家畜、下手をすると消耗品程度にしか思っていない種族。残虐な魔族にとって、人族は暇つぶしに殺してしまうくらい下等な存在にしか思われていない。
そんな種族に助けてもらったのだから、やはり奇跡だと思ってもいいのかもしれない。トリスはようやくそう思い始めていた。
そもそも、魔族に捕らわれて奴隷になれば、毎日のように鞭で叩かれ、まともな食事も貰えずに死ぬまでこき使われるのだと思っていた。それが、突然体当たりをしてきた自分を保護し、傷の手当てまでしてくれるなんて。もしかして、魔族にもいい人はいるのだろうか。
いや、もしかすると、気まぐれで助けただけで、これから先に過酷な生活が待っているのかもしれない。
美しい容姿していても、魔族は魔族。それも高位の者だ。
心優しい魔族なんて、そもそも聞いたことがない。
服の弁償をさせると言っていたから、やはり過酷な労働が待っているに違いない。
服を着替えないのは、お前は服を台無しにしてしまったのだ、という罪の意識を自分に与えるためで、わざと見せつけているのかもしれない。
考えているうちに、今度は段々と憂鬱になっていくトリスを気にした様子もなく、女性は杯を傾けた。
どれくらいの時間がたったのだろうか。
トリスが憂鬱な思考に沈み込んでいるうちに、気づくと女性の足下には高級そうな酒の瓶が何本も転がっていた。
肴もなく酒を飲み続ける女性に、ふとトリスは疑問を浮かべる。
女性は一度も長椅子から立ち上がらず、ずっと飲み続けていた。
色々と考え事をしていたトリスだが、女性の動きくらいは把握している。
では、足下にたくさん転がっている酒瓶は、いったいどこにあったのだろうか。空瓶以外、女性の前には今飲んでいる酒の瓶しかない。
改めて部屋を見渡してみる。
とても豪華な部屋は、ひとり二人の少人数で滞在するには無駄に広く、調度品なども数多く並んでいたが、酒を入れている棚は見当たらない。
もしかして、あれが最後の酒なのだろうか。
最初に大量に持ってきておいて、いま最後の酒を飲み干しかけているのかもしれない。
それにしても、かなりの酒豪だ。見たところ、これだけ飲んでいるにもかかわらず、魔族の女性には酔った様子がない。
トリスが足下の酒瓶と自分を見比べていることに気づいたのか、女性が何かを言おうとした。しかし、美しい唇が言葉を紡ぐ前に、部屋の外がなにやら騒がしくなってきた。
会話もなく静かだったので、外の騒動に気づくトリスと魔族の女性。
何だろう、と耳を澄ませていると、野太い声が聞こえてきた。
「まったく、どんな奴だろうね。俺様の商品を勝手に持ち帰るような不届き者はよう」
「も、申し訳ございません。どうかお引き取りを。ご宿泊の方に不敬があっては、私どもが罰を受けてしまいます」
商品を無断で持ち帰られた商人が、取り返しに乗り込んできたのだろう。それを宿の従業員が必死に止めているような感じに聞こえる。
「おうおう、なんだい。それじゃあ、俺様への不敬はどうだっていいと言うのかい。ただの商人だと思ってんのかい。これでも俺様は爵位持ちなんだぞ」
「も、申し訳ございません。ひぇぇぇっ」
野太い声と悲鳴が、徐々に二人の滞在している部屋へと近づいてくる。
「男爵の俺様に喧嘩を売るとは、いい度胸だね!」
野太い声の主は、部屋の前で止まった。
トリスは、恐怖に震えていた。
知っている、聞いたことのある声だった。
あれは、奴隷商の男の声だ。
奴隷という商品である自分を取り戻しに来たのだ。
奴隷商の男が貴族だったとは、トリスも知らなかった。
魔族は、特に強力な力を持つ者に爵位を与える。階位を与え、それに見合う特権を授けることで、力ある者が無差別に暴れないように制御しているのだという。
奴隷商はすなわち、人族の隠れ村を見つけた場合の奴隷狩りの許可が特権なのだろう。
トリスは、正面の長椅子に優雅に座る女性を見る。
彼女も高貴な身分であることは間違いない。
しかし、豪奢な衣装を身に纏う女性は戦いに特化したような容姿ではなく、トリスの目にも想像を絶するような力を持っているようには見えなかった。
きっと、貴族の娘か何かなのだと思う。貴族の子供だからといって、強い力を持っているとは限らない。
男爵という爵位に見合った力を持つ奴隷商とこの女性とでは、明らかに女性の方が不利な立場のように思える。
「よおう、お嬢さん。この部屋に泊まっているんだろう。さっさと商品を持って出てきな」
部屋の扉を激しく叩きながら、奴隷商の男が叫ぶ。
女性は、部屋の扉へと視線を向ける。しかしそれだけで、別段気にした様子もなく、また杯を傾けた。
「おい、居るのは気配でわかってんだよ。さっさと出て来たらどうだいっ」
奴隷商はさらに激しく扉を叩くが、やはり女性は長椅子から立ち上がろうともしなかった。
段々と、扉を叩く力が増していく。そして、最後には激しい音を立てて、扉が部屋の中へと吹き飛んできた。
「無視とは、ふざけた小娘だね!」
重い足音を立てて、男が部屋へと入ってきた。
続いて、ぞろぞろと手下の魔族たちが現れる。
部屋へと押し入ってきた手下の中には、鼠顔の下級魔族と巨躯の鬼も居た。巨躯の鬼は、失った片足を包帯で包み、杖をついている。
しかし、トリスが巨躯の鬼の負傷に気づくことはなかった。
最初に部屋へと入ってきた男。奴隷商の魔族と目が合い、それだけで気絶しそうになる。全身から汗が噴き出し、震えが止まらない。
「騒がしいな」
「随分とふざけた娘だね」
長椅子から立ち上がろうともしない女性を、奴隷商の男は睨みつける。
自分が睨まれているわけでもないのに、トリスはその姿と殺気だけで縮みあがった。
全身が硬直して動けないトリス。
しかし、動かないのは奴隷商も同じだった。
「……旦那様?」
訝しんだ巨躯の鬼が声をかけるが、主人である奴隷商の男は、女性を睨んだまま動かない。
いや、睨んではいなかった。
奴隷商の男は顔を引きつらせて、女性を凝視していた。
「商売でうちに来るときは媚びへつらっているのに、今日は随分と威勢がいいのだな。そうそう、この間売り渡した魔剣でちゃんと利益は上げられたのか。何十本も売ってやったのだ、礼は言われても、部屋の扉を吹き飛ばされるいわれはないと思うのだが?」
女性は相変わらずの様子で長椅子に腰掛けたまま。
対する奴隷商の男は、部屋へ押し入った当初こそ威勢が良かったが、いまでは全身を硬直させて、ぴくりとも動かない。
「ア、アステル公爵様……」
そして、随分と間を開けて、奴隷商の男はようやく喉から声を絞り出すように言った。
次話は、十二日の金曜日、朝六時に投稿予定です。