第9話
「ケンちゃんが、お友達と外泊で旅行ですって?」
イアン・ギランのような金切り声を上げて、母さんが驚愕する。
数日後の正午過ぎ、石野家のリビングダイニングにて。俺は昼食の冷麦をすすりながら、母さんに夏の海合宿の件の説明をしていた。結局、流れ上、首を縦に振らざるを得なかったのだ。
「あなたにそんな親しい友達がいたなんて……信じられないわ」
対面に座るエプロン姿の母さんが、まるでパンダでも見るように目を白黒させる。マイケル・シェンカーの白黒ツートーン・カラーのフライングVのようなと形容すべきだろうか。
「まあ……ね」と呟く俺。眼鏡を掛けた自分の顔が、ガラスの器に歪んで映っている。
さすがに外泊となると親の許可を得なければならない。とりあえず苦し紛れに、小学校時代の友達数名と、そいつの家の別荘に泊まりで遊びに行くと嘘の説明をした。
「旅行は構わないけど。でも、ケンちゃんに友達がいたっていうのは、お母さん嬉しいな。だって、あなた何も話してくれないから……」
「……ちょっと出掛けてくるから」
俺は残りの冷麦を胃袋に流し込むと、そそくさと玄関へ向かった。
挙動不審な息子の背中に向けて、母さんはつぶやいた。
「なにか怪しいわね……」
◇
逃げ出した俺は、K駅近くの裏通りにある楽器屋『DALIA』の店内をうろついていた。
合宿に行くなら、弦やらピックやら色々予備を買っておかなくてはならない。当然、ド派手な姫タルコスプレではなく、普段の地味な姿だ。
昭和の香りが漂う個人経営のショップ。こじんまりとした店内には、ギターやベースなど弦楽器ずらり。品揃えは新品四割、中古六割といった所存か。
ウッディな壁には七~八十年代洋楽ロックのポスターやレコードジャケットで彩られている。中でもX JAPAN『DALIA』のポスターと、高級アコースティック・ギター『Martin D45』が目を引く場所の壁に飾られている。
「ケンちゃんじゃないか。久しぶり」
店長の沢田さんが声を掛けて来た。
生え際の薄くなったロン毛に髭面のアラフォーおじさん。あちこち破れたデニムジーンズに、ブラック・サバスの黒いTシャツ姿の如何にもな様相だ。
ぺこりと頭を垂れながら、横目で壁のマーチンを見る。値札の数字は三桁に迫っている。
「お目が高いね。さすがはヤツの息子だ」
白ゴマ交じりの顎髭を摩りながら、ニヤリと微笑む店長。ラスタカラーのリストバンドをはめた手で、メタボ気味のお腹を摩っている。
「そのD45、こないだ入荷したばかりなんだ。一九六九年製のビンテージだぜ。よかったら試し弾きして行きなよ」
名器を前に胸がときめく。だがコミュ障の俺には、楽器屋の店頭で演奏なんてハードル高すぎる。店長が知り合いで、他に客の姿はないとはいえだ。俺は赤面しながら首を横に振った。
「いいから、座って座って」
店長は大きな掌で俺の両肩を掴むと、パイプ椅子に無理やり座らせた。
「さあ、どうぞ」とD45を手渡す。本音を言えば、さっきから弾きたくてしょうがなかった。
俺はマイケル・シェンカーUFO時代のバラード『HIGH FLYER』のイントロを遠慮気味に爪弾いた。
「おっ、懐かしい。いいねハイ・フライヤー」
店長が嬉々として微笑む。一九七五年リリースの古典だが、昔から父さんに仕込まれた曲だ。
マーチンギターのふくよかで貼りのある音色。ボディの鳴りがハンパなく、ギターを抱えた俺の胸の奥にまで響き渡る。
一九六九年製のD45と言えば、表板がジャーマンスプルースにサイドバックがハカランダ。低音弦はピアノのように鳴り、高音弦は倍音の多い鈴鳴り系。ふわっとした柔らかい音が全身を包む。調整が行き届いている為か、ハイフレットのポジションまで滑らかに弾きやすい。
主旋律を交えながらの独奏ギター。父さんのアレンジだ。俺は悦に入りながら自分の演奏に浸った。次第に音量も上がってくる。
「お父さんにプレイのニュアンスが似てるな。そのアルペジオの運指の癖なんてそっくりだ」
店長の沢田さんは大学時代、軽音楽部の部長として父さんや母さんと一緒にメタルバンドを組んでいた。沢田さんはベースでリーダー。父さんがギターで母さんがボーカルだった。
今でも仕事として音楽に携わっているのは沢田さんのみである。
俺も小さい頃は、ギター片手によく遊んでもらった。それが何時から、まともに会話も出来ないぐらいに遠慮がちになってしまったのだろう……。
「無口なケンちゃんだけど。ギターはしっかり喋ってくれるな」
店長は微笑んだ。別のアコギを掴み、パイプ椅子に座る。そして俺の演奏に合わせてバッキングを絡めて来た。ベーシストだけにリズムキープは完璧だ。
「ケンちゃん、ソロ行け」
俺はHIGH FLYERのソロを弾いた。従来はエレキのパートだが、哀愁漂うメロディライン。アコギでブルージーに渋く弾くのも悪くない。
ソロを終えて、再びアルペジオに戻る俺。最後は静かに演奏を終えた。
ふーっ、とため息を付いた直後。出入り口の方からパチパチと手を叩く音が聞こえて来た。
しまった、他に客がいたのか。プレイに熱中して全然気が付かなかった。恥ずかしい……。
ふと顔を上げて確認すると――。あっ!
そこに居たのは、メタル☆うぃんぐのボーカル、スズメタルこと春菜鈴音だった。
「店長さん、こんにちわ」
「やあ、スズメちゃんいらっしゃい。今日も補習だったのかい? 進学校も大変だね」
「いえ、部活で好きなことをやってますから。勉強の方も頑張らないと」
制服姿の鈴音ちゃんが、ちらと俺の方を見る。一瞬目が合う。
やばい。俺は顔を見られまいと、そっぽを向いた。猫のように背中を丸め、マーチンギターを深く抱く。
彼女も視線を逸らすと、店長の方を向いて会話を続けた。
「素敵でした。凄いセッションを聴かせてもらって……特にアルペジオが綺麗で」
「ああ、この子上手いだろ? ケンちゃんって言ってね、俺が昔やってたバンドのギターの石野って奴の息子なんだ。確かスズメちゃんと同じ年で、十七歳の高二じゃなかったっけな?」
「へえ」と鈴音が呟く。「わたしも、あんな風に弾けるようになりたいな」
彼女はErnie Ballと書かれたギターの弦の束を店長に手渡した。
「おっ、毎度ありい。結構買い溜めするんだね」
「はい。実はわたしたちのバンド、明後日から合宿に行くんです。それで多めにと思って」
「おっふ、いいねえ青春だねえ」
「うふふ、いいでしょ。海辺のロッジなんですよ。親友の親の別荘なんです」
「おおうおおう、おっちゃんも連れてっておくれよう」
「ダメですよ店長さん。女子だけで行くんですから。男子禁制ですよ」
◇
「洗濯物畳んでおいたわよ。旅行に着て行くんでしょ?」
夕方。楽器屋から帰宅した俺に、玄関先で母さんが言った。
「あの服、全然洗濯に出していなかったでしょ。とても臭かったわよ」
俺は生返事をして階段を登った。自分の部屋の扉を開ける。するとそこには――。
「なっ!」
ベッドの上には隠してあった筈の姫タルのコスプレ衣装が、綺麗に畳んで置かれてあった。
まっ、まじか。やばい、女装が親バレしてしまった。これは夏合宿どころの騒ぎではない。
背後から亡霊のような気配。母さんだ。
ゴクリと生唾を飲み込む。硬直する全身に冷や汗が流れ出す。
「ケンちゃん。お父さんが仕事から帰ってきたら、三人で話があるから」