第4話
K市駅から徒歩八分の古い雑居ビル。その地下一階にあるのが、音楽スタジオ『Doctor Doctor』だ。通称ドクドクと言うらしい。
翌日の日曜日。俺は姫タル娘の女装姿で狭い階段を降りている。晴れた日中だというのに薄暗い。コンクリートの壁には、アマチュアやインディーズらしき無名バンドのフライヤーが、所狭しと貼られてある。
店名のロゴが記された扉を開く。薄暗い店内の狭いロビー。くすんだ淡いクリーム色の壁は、所々塗装が剥がれコンクリートがむき出しになっている。
カウンターには店長らしきロン毛のおっさん。その背後には大量に、昭和のロックスターのポスターが。中でも白いフライングVを構えたマイケル・シェンカーが幅を利かせている。シェンカーが伝説のバンドUFOで一九七四年にリリースした神曲『Doctor Doctor』。それが店名の由来だろう。
奥へと向かう狭い通路。年季の入った茶色い革張りの横長ベンチが設置されている。そこに鈴音ちゃんと陽菜ちゃんが、横並びで座っていた。
「お師匠さまギターキターッ!」
サイドテールの陽菜が、うさぎのようにぴょんぴょん飛び跳ねる。そして俺に勢いよく抱き付いてきた。
俺氏、女子にハグされる。
もちろん初体験。ここの店名じゃないが、密かに心臓ドクドクだ。やべ、鼻血出てないかな。俺はさりげなくブラックレザーのマスクを擦った。
「ありがとうございます姫さま。来て下さって、本当に嬉しいです」
鈴音も頬を赤らめながら、俺に深々と頭を下げる。
二人とも私服だ。制服以外は初めて見る。メタルなイラストがプリントされた黒いタンクトップ姿の鈴音。豊かな胸の谷間やラインがはっきりと強調されている。デニムのミニスカートから伸びる白い生足の太ももが一際眩しい。
俺はゴクリと生唾を飲み込んだ。おもわず視線が泳ぐ。鼻の下も伸びている。だが、おそらく表情は伝わらないだろう。ド派手な紅いウィッグとメイクとマスクで仮面はフル装備だ。クールでミステリアスなJKメタラー。それが姫タルの基本設定なのである。
「今日はBスタやねんよ」
陽菜がミニスカートをひらりとさせながら先導する。黒いニーハイソックスで太ももはチラ出しだ。上着は黒いノースリーブの襟付きシャツ。カラフルなネクタイを締めている。
ボカロのキャラっぽいな。ロリオタどもが萌え狂いそうだ。電波なキャラを知ってしまった俺には、UFOに乗った宇宙人にしか思えないが。
防音処理を施した重い扉を開く鈴音。八畳ぐらいのスペースのリハーサルスタジオ。壁の一面は鏡張りだ。ギターアンプやドラムセット、ミキサーやらケーブルやマイクスタンドなど。音響機材が手狭な空間を埋め尽くしている。
これがスタジオか。俺は平生を装いながらも、レザーマスクに隠れた口元で感嘆の声を小さくもらした。ぼっちでオタな俺にはリハスタなんて縁がなかった。それに幸い誰かさんのお陰で、我が家には大型ギターアンプを鳴らせる環境も整っているのだ。
Pearlと記されたブラックパールのドラムセット。椅子にはスティックを両手に誰か座っている。ショートカットの黒髪。ネイビーブルーのTシャツからは、筋肉質な長い腕が見える。
「ツバメちゃーん、姫さま来たよー」
スリムな体躯のドラマーが立ち上がった。俺の方に歩み寄ってくる。背が高い。俺よりも十センチは上そうだ。ブラックのスリムジーンズが様になっている。
「オレがドラムのツバメタル、秋元翼です。何時もツイッターではお世話になっています。姫さま、よろしくお願いします」
なっ、まさか男かよ?
姫タル俺に深々と礼をする。低音のハスキーボイス。体育会系の挨拶だ。
「ツバメちゃん、チョーイケメンでしょ。後輩たちにめっちゃモテモテやねんよ」
「おかげ様で聖女の制服がさっぱり似合いませんが」
自嘲気味に笑う翼ちゃん。いや、さん付けの方が似合うだろうか。長身で手足の長い細マッチョ。目元が涼しげで精悍なマスクだ。典型的な宝塚男役タイプ。女子高で人気出て当然だ。
「ツバメちゃんっ、姫さまは敬語はイヤやねんって。うちらとタメ年なんよ」
「了解ヒナ。じゃあ姫、改めてよろしく」
翼がさわやかに微笑む。確かに敬語は止めてもらった方が、すこしは打ち解けやすくなるかもだ。
「うちも姫ちんって呼ぼうかな?」
いや、それは砕け過ぎだぞ。
翼が右手を差し伸べる。俺たちは握手を交わした。向こうは軽く握っただけなのだろうが、しっかりと握力の強さが伝わってくる。
俺氏、女子と手を握るのも初体験。またまた心臓ドクドクだ。しかしそれが、女装娘と男装女子の組み合わせとは……。複雑な心象だ。
「姫はギタリストだけあって、白魚のように繊細な指先だね。実に美しい」
握手を解いた翼が、姫タルの手を愛しげに優しく擦る。そしてじっと俺の目を見つめた。
「顔もスマホで見るよりずっと麗しい。オレ惚れちまいそうだよ」
俺氏、おもわず胸がドキリとする。って普通それって逆だろ、おい?
「ねえねえツバメちゃん、ミューちゃんは?」と陽菜が問い掛ける。
「ああ、まだだよ」
「ぶうぶう。あの娘って、いーっつも遅刻して来るよね」
「ミューは勉強で忙しいからな」
「あとキーボードの娘が、もうすぐ来るとは思うんですけど。彼女は親がお医者さんで、家業を継ぐために国立の医学部を目指しているんです」
「ミューちゃんだけ特進クラスやねんよ。お金持ちの優等生のお嬢様で、おまけにめっちゃ美人さんやねんから。まさにパーフェクト・ヒューマンよ。医大志望だけにチョー偉大!」
聖女の特進といえば偏差値は七十に近い筈。まさに神の領域だ。
「実は彼女、ロックにはあまり興味がなくて。でも、幼い頃からピアノを習っていて鍵盤が弾けるんです。それでわたしが無理を言って、連日の塾通いの合間を縫ってバンドに参加して貰っているんです」
サポートのゲストか。どうやら全員、姫の信者というのはリップサービスだったようだ。純粋な姫タルのファンは、もしかしたらリーダーだけなのかもしれない。
「ス・ズ・メちゃーん、姫ちんに敬語はダメダメよん」
サイドテールを両手に掴み、ぴしっとクロスさせる陽菜。
「あ、ごめんヒナちゃん。それに、ごめんなさい姫さま」
ダメ出しされても敬語の彼女。そこがまた健気で可愛かったりもする。
「おっと、開始時間を一〇分もオーバーしちまったな」
翼が壁のアナログ時計を見上げる。
「このまま姫さまをお待たせしても悪いんで。わたしたちだけで練習始めましょうか」
彼女らは安物のスタンドに立て掛けてあった弦楽器を担いだ。
鈴音ちゃんのギターはイエローのジャズマスター。陽菜ちゃんはブルーのプレシジョンベース、通称プレベだ。
どちらもオリジナルは有名ブランドのフェンダーだが、ヘッドには見たこともないメーカーのロゴが記されてある。おそらく一万円ほどで買える初心者用の安物だ。
シールドは既にアンプに挿してある。ローランドのJC-120ジャズコーラス。トランジスタ回路でクリーンな音色が特徴だ。
メタルなのにジャズコに直かよ。そのアンプは歪みのエフェクター挿さないとハードロックでは使い物にならないぞ。
しかもチューナーすら挿していない。横にもう一台、真空管アンプのMarshall JCM2000があるのに。なんであっちを使わないんだ?
「ほんじゃあ行ってみよー」
陽菜のマイク越しの掛け声と共に、翼がスティックでカウントする。
キーボードを欠いてはいるが、メタル☆うぃんぐの演奏が始まった。
ガゴガゴギケガゴ!
……なんだこりゃ。
ハードなメタル調のアニソンだ。YouTubeなどで聴き覚えがあるが、曲名は忘れた。
案の定、無茶苦茶な演奏である。生で聴くと尚更だ。ギターもベースもチューニングが狂っている。リズムは不安定どころか、途中で何度も止まる。
バラバラだ。まるで息が合っていない。人の音を聴く余裕がないのだろう。自分の手元ばかりを見て、各々好き勝手に演奏している。
鈴音のぎこちないギタープレイは元より、ベースとドラムが更に酷い。リズム隊の悪いバンドは聴けたもんじゃない。翼は運動神経良さそうだから、コツさえ掴めば伸びそうだが……。
歌もお経のように棒読みだ。例の漢文の念仏授業を思い出してしまう。音痴ではなさそうだが、ギターと同時で集中できないのだろう。初心者ギターボーカルの典型的なパターンだ。
でも声はいいな。伸びやかで甘く切ないボイス。磨けば光るかもしれない。ダイヤの原石かもと思ってしまうのは、惚れた男のゲスな欲目なのだろうか……。
「じゃかじゃん。いぇーい!」
陽菜の決めの言葉と共に、メタル☆うぃんぐは実に残念な演奏を終えた。
歌い終えた荒い息の鈴音が、マイクスタンドを握り締める。
「ハァ、恥ずかしいな。師匠、やっぱり酷いです……よね?」
可愛いすぎる、恥じらいの表情がカワユすぐるぞ鈴音ちゃん!
俺がJK娘の女装姿で太ももをさらけ出した途端に、ちやほやし出したニコオタのスケベども。その連中の気持ちが、すこし理解できたような気がした。俺も同類のクズ野郎だ。
しかし、なんとリアクションしてよいのやら……。
とりあえず、ちゃんとチューニングをしてもらわなければ。。姫タル俺は「ちょっと貸して」と先ず陽菜のベースを奪った。iPhoneに常駐させてるチューナーアプリをセット。チューニングして陽菜に返す。続けて鈴音のジャズマスターだ。
「え、あ、ありがとうございます」と恥ずかしげにギターを俺に渡す鈴音。
ついでに俺はシールドをマーシャルアンプに繋ぎ変えた。
電源オン。真空管が温まるまで時間が掛かる。その間にチューニングを施した。
スタンバイスイッチ・オン。チューニングし終えた俺は、最近覚えたてのBABYMETALの新アルバム曲『Amore-蒼星-』のイントロを試し弾きした。
4×12インチの大型スピーカーキャビネットから爆音が轟く。
おお。スタジオで弾くと、こんなにも気持ちいいのか。ソリッドで温かみのある深い音だ。
いくら親が寛大とはいえ、自宅で音を出すのは限界がある。ようするに自分がマーシャルを大音量で弾いてみたかっただけなのだ。
ちらと鈴音を見る。口をあんぐりと開けて棒立ちだ。しまった。密かな初体験に、つい悦に入ってしまった。我に返り、鈴音にギターを差し出すと……。
「「「すごーい! 本物のCD聴いてるみたーい!!!」」」
目を皿のようにした三人娘が黄色い大歓声を上げた。さっきの演奏とは比較にならない、実に息の合ったユニゾンで。
その直後、スタジオの防音ドアが徐に開いた。
「あっ、ミューちゃんきたー」
無言で入室するJK。またしても姫タル俺の前に、新たなる美少女が現れた。