愛したい
「好きなの」
そう呟くと、徹は怯えるように「やめろっ!」と叫んだ。
「愛してるのよ」
そう言って近付くと彼は―。
彼とは職場で出会った。うちの会社に営業をしに来たのを見て、一目惚れした。爽やかで、誠実そうで、笑顔が素敵だった。少しずつ話をするようになって、気さくで優しい性格に夢中になった。非の打ち所がないとはこのことだと本気で思った。頑張って仲良くなって、私達の恋が始まった。
初めてのデートも、少しずつ少しずつ距離が近付いている感触も、全て特別に感じた。きっと、運命なんだろうなって思った。彼の全てが好きだった。煙草を吸う指も、優しい声も、やわらかい髪も、澄んだ瞳も。体の形も全部。
「私、徹になら何でもするからね」
そう言わない日はなかった。
ある日、私の家に彼が遊びに来ていた時のことだ。彼の携帯が鳴った。慌てたように電話に出ると、敬語で話し始めた。会社からのようだ。何度か相槌を打ち、暗い顔で電話を切った。
「ごめん、何かもめてるみたいでさ」
彼は上司からも部下からも頼られているのは知っている。こんなに恋人として申し分ない人は、仕事においてもそうなのだ。
「いいよ! 行ってきて」
なるだけ優しく、笑顔で言った。
「今度埋め合わせするから」
彼はすまなそうな笑顔を残し、出ていった。
玄関の戸が閉まると同時に、笑顔を作っていた顔の筋肉が緩んだ。テレビの音も、部屋の明かりも突然消えたような寂しさが心を襲う。徹がここに居ない。ただそれだけで、脱力感と喪失感に圧し潰される。
はじかれた人形のように、ぱたんと床に寝転んだ。
辛い。とてつもなく寂しい。
彼が座っていた座布団に、頭を置いてみる。まだ少し暖かい。頬を当て、目を閉じる。閉じた瞼の隙間を縫って、涙が流れてくる。
ずっと2人で居たい。1人になりたくない。何でもするから…。愛してるから。
そっと瞼を開くと、無気力な目に灰皿が映る。テーブルに手をついて起き上がって見ると、徹の煙草の吸殻が、本人の証明かのようにそこに佇んでいた。さっきまで、つい今まで、徹はこの煙草を吸っていたの。ここに居たんだわ。
自分でも、何をしたいのか分からなかった。
そこにある全ての吸い殻を拾い、灰を綺麗に落とし、密封できるナイロン袋に入れた。そして『徹11/9』と日付をペンで書き、棚にしまった。
その日から、彼と会う度に「徹のもの」を拾い集めた。
この日もこの日も彼はここに居て、私は彼を愛してたという形が欲しかった。
吸い殻が無ければ、噛み終わったガムや使い終わった割り箸、酷い時は鼻をかんだちり紙や落ちた髪の毛まで拾った。棚に入りきらなくなったナイロン袋を見るのが嬉しくて、専用の引き出しを買った。この全ての引き出しが埋まるまで、ずっと彼と一緒に居たい。
そしてまた彼が家に来た。
最近は自ら彼を家に呼ぶ。外食をしにいっても「少し寄って行かない?」と誘う。そして彼がトイレに行った隙に、ゴミ箱やいろんな所から「徹のもの」を拾う。帰るまでなんて待っていられない。早く、コレクションの中に入れたい。
ゴミ箱を漁っていると、計算より早くドアが開いた。
「ちょっと紙ないんだけど」
そう言って出て来た彼と、ゴミを広げる私の目が合った。
「何… してんの?」
返す言葉が見つからない。どうしよう、右手に掴んだ割り箸を、離すことが出来ない。
「ねえ、それ… どうするの」
彼の表情が強張っている。そりゃそうか。変だよね。気持ち悪い? そうだよね。でもね、これ、袋に入れないと駄目なの。
瞬きもするのも忘れ、手早く割り箸を袋に詰める。何かに憑りつかれたかのように。
いつものように『徹10/30』と書く。初めて書いたあの日から、もうすぐ1年が経とうとしていた。
「何なんだよそれ…」
その声に1度彼を見たけれど、何か言うより先に袋を棚にしまいたかった。
だってそれが私の日課なんだもの。何か言ってもしこの「今日の徹」をどうにかされたら。そう考える方が怖かった。彼はまた何か言っていたけど、聞かなかった。
瞬きをしていなかった目を思い出したように閉じてみると、涙が落ちた。悲しくないのに。だって私はこんなに愛されてる。この沢山の袋の数が証拠だもの。
棚を開けて袋を入れようとすると、腕を掴まれた。
「何やってんだって言ってんだろ!」
強く引っ張られ、棚の引き出しと共に私は倒れた。床に今まで溜めてきた袋がぶちまけられる。
「あ… あーっ!」
私は叫びながら袋をかき集めた。日にちを揃えて並べていたのに、ぐちゃぐちゃになってしまった。私の「徹」を壊さないで!
必死に集める私を見て、彼はぽつりと「狂ってる…」と言った。
クルッテル…?
私は手を止めて、ゆっくり彼の方を向いた。
「それ… どういう意味?」
また、瞬きを忘れている。
「そのままの意味だよ!」
だから目から水が落ちる。
「徹の事が好きなの」
目を潤すための水が。
「やめろっ!」
彼は耳を塞ぎ蹲る。
「愛してるのよ。ただ、愛してるの」
袋の中の徹に、目の前の徹につぶやいた。
ゆっくり立上がり、彼に近付いていく。
1歩、また1歩と進む度、彼は後ずさる。
腰が抜けたように震えながら。逃げようともがいている。
「徹… 徹」
何度も名前を呼ぶ。捨て猫をあやすように優しく。どうして逃げるの?
キッチンまで辿り着いた彼は、おもむろに立ち上がると包丁を握った。
「来るな!」
息が荒く、大量に汗をかいて、眉間に皺を寄せて。睨んでいるの?
何でそんな顔するの? いつも一緒に居てくれなかったのが悪いんじゃない。寂しい思いばかりさせて。徹が悪いんじゃない。
「浮気なんてするからいけないのよ」
気付いてた。
会社からの電話も、徹の家には上がらせてくれないことも、違う香水の匂いがすることも、私よりもその女の事が好きだってことも全部。
でも愛してるから。
私のことも愛してくれるって信じたかっただけなの。
「ね? 徹」
そう言って彼を抱き締めた。包丁を握りしめたままの彼を、力強く。抱きしめるためにここまで来たの。「… ね、愛してる? 私のこと」
薄れていく意識の中、彼の恐怖にまみれた叫び声を聞いた。その時、勝ったと思った。
これで彼は一生私を忘れない。徹の中に「私」は刻みこまれるんだわ―。
枕とかに人の匂いって付きますよね。その匂いを嗅いだ時、主人公の姿が浮かびました。純粋にこの匂いに埋もれたいなーと思ったり、誰でもすると思うんです。それが少しでも違ってしまったら? それが間違いなのか、分からないですが。創作物なので、想像のみをのびのびと使った作品です。第一稿を書いたのは16歳の時です。まともな大人になれて良かったと思います。笑第一稿は擬音語ばかりで、戯曲みたいだと言われたこともありました。良いように言っているだけで小説ではない、という評価でした。少しですか手を加えて、少しは小説になっていれば嬉しいです。