妄想の男
僕には愛する妻と生後半年になる可愛い息子がいる。
仕事から帰るとキッチンの方からトントントンというリズムに乗った安心感のする音と一緒に良い匂いが漂ってくる。
「ただいまー」
ネクタイを緩めながらオープンキッチンのあるリビングへと入る。
僕に気付いた妻が手に持った包丁を置き、迎えてくれる。
「あ、おかえりなさい! 疲れたでしょー? もうすぐご飯できるから」
妻が労いの言葉を掛けてくれて、一日の疲れが少し飛んでいったかの様に感じる。
僕はスーツも脱がないままベビーベッドへと向かう。息子はよく眠っている。
とても可愛い。正に天使だ。
少しうるさくしてしまったのか、息子が目を覚ました。
泣いてしまうかと思い一瞬焦ったが息子は僕を見てキャッキャと笑ってくれた。
この笑顔を見ると疲れなんか一瞬で全部飛んでいってしまう。
でも妄想だ。妻も息子も実在しない。
息子が幼稚園に入った。
集団生活に苦手意識はなく、幼稚園は楽しいみたいだ。
今日は誰々ちゃんとお友達になった。今日は誰々ちゃんとケンカをしちゃった。今日は…… 毎日楽しそうに幼稚園での出来事を話してくれる。
とても可愛いが妄想だ。実在しない。
息子が小学校に入学した。勉強は苦手だが運動が得意で毎日クラスのヒーローらしい。
よく擦り傷をこさえて帰って来るので我が家には絆創膏が欠かせない。
今日、通知票を持って帰って来た。やはり体育以外は芳しく無く、先生に「毎日元気いっぱいですが勉強ももう少しがんばりましょう!」と書かれている。
ちゃんと勉強を頑張るようにと軽く注意はしたが、小学生の内は勉強が少しできなくても元気があって運動ができた方がいいかなと僕は思っている。
ハムのCMじゃあないがわんぱくでもいい、たくましく育ってほしい。
でも、妄想だ。実在しない。
息子が中学生になった。思春期が始まる頃だ。
最近話をする事が減り、その代わり喧嘩になる事が増えた。わかっていたつもりだが少し悲しい。
勉強に力を入れる様になったのか、成績がちょっとずつ上がってきている。
高校受験の時期になった。志望校はあるものの、少し届きそうになく悩んでいるらしい。
僕が話をしようにもほとんど相手にされない。信頼されていないのだろうか。何もしてやれない事が情けない。
まあ、妄想なのだが。
息子が高校生になった。死に物狂いで勉強し、志望校に入学する事ができたのだ。合格通知が届いた日、妻と息子と三人で泣いて喜んだ。
合格祝いにと少し奮発し、お高いホテルのレストランへ家族三人で豪華な食事をした。
妄想なので実際には独りだったが予約はちゃんと三人分取った。
変な目で見られてしまった。でもそんなものは関係ない。だって僕は今、自分にだけ見ることができる息子が高校に合格し、幸せなのだから。
息子が高校生になった。
入学式の日、嬉しそうに新しい制服を着た息子と一緒に学校へと向かった。
少しサイズが大きいがまだまだ成長期だ。言っている間にも、もしかすると小さくなってしまうかもしれない。僕もこの日の為にスーツを新調した。
学校に着くまでの間、電車の中で久しぶりに息子とたくさん話をした。受験が辛かった事。僕が気に掛けてくれていたのが本当は嬉しかった事。これからの生活への期待、不安。
そして最後に改まってお礼を言われた。
「お父さん、ありがとう」
学校に着く前に少し泣いてしまった。
でも、実在しないので実際には電車の中で独り泣いていた。
周囲の人たちが何事かと引いていたがまったく気にならない。
だって僕は今、自分にだけ聞くことができる息子の言葉に感極まって胸がいっぱいなのだから。
僕は今年で四十歳になる。独身だ。六畳のワンルームで毎日コンビニ弁当で独り食事を済ませている。料理はできない。これが現実だ。
でも寂しくはない。自分にだけ見る事ができる愛する妻と、自分にだけ見る事ができる自慢の息子がいるのだから。
固定電話が鳴った。特に必要ないのだが電話を繋ぎ置いてある。
元々必要ない物なので自分ですら番号を覚えていない。鳴ったのは初めてだ。
「もしもし? 父さん? 俺だよ俺!」
古い…… まだオレオレ詐欺なんてあったのか。手当たり次第掛けているのだろうか。それとも事前調査ミスなのだろうか。僕は独身だ。
僕はなぜか電話の主が本当の息子だと思い込み、話を始めた……
ここから思いもよらぬ感動のストーリーへと展開していく予定だ。
私は今、妄想の家族と生きる独身のサラリーマンの小説を書いている。
ここまで書いた時、書斎のドアが開いた。
「親父ぃ、ご飯できたって」
息子が呼びに来た。
どこでどう育て方を間違ったのか……
高校を卒業してから進学するでもなく働きに出るでもなく、髪も金髪に染め毎日遊び呆けている。
それでも根は親想いの優しい子なので、いつかきっと思い直してくれる日が来ると信じている。
私は筆を置き、息子の後に続いて暖かいリビングへと向かった。
妻の作る料理は高級レストランも顔負けの絶品で、毎日楽しみだ。
今日も家族三人で明るい食卓を囲む。私は幸せだ。
――男がドアを開け書斎から出てきた。
髪はボサボサで頬は痩け、手入れのしていない髭が伸びっぱなしだ。
電気を点けていない4LDKの間取りの家は真っ暗で、男の歩く音以外には物音ひとつせず耳鳴りが聞こえてくるほど静まり返っている。
男はほとんど使われていないキッチンに向かい冷蔵庫から買っておいたコンビニの弁当を三つ取り出す。
脇では一杯になったゴミが溢れ、羽虫が不快な音を立てて飛び回り悪臭を放っていた。
弁当を三つ、テーブルの上に並べていく。
ひとつは自分の前に。
ひとつは自分の隣に。
ひとつは自分の向かいに。
男はブツブツと独り言をいいながら、暗く冷たさの感じるリビングで食事を取り始める。
その顔はどこか満たされていて、とても幸せそうだった。