オニオンレスなカレーライス
週末は、カレーライス。
キッチンの隅にあるバスケットの中に、レジ袋に入ったまま無造作に置かれた野菜達。
手を突っ込んで、ガサゴソと感触のみを頼りに野菜を取り出す。
じゃがいも、
にんじん、
これは・・・トマト。入れてしまおう。
・・・?
ん、
・・・あれ?
割と動揺する自分がいる。
たまねぎがない。
たまねぎといえばあれだ。カレーライスの命。
絶対に欠けてはならんものだ。
たまねぎの無いカレーライスなんて、
ジャムおじさんのいないアンパンマン。
存在し得ないのだ。あり得ないのだ。
深呼吸してみる。
この後とるべき行動に思考を巡らす。
自分の驚くべき発想に困惑し、また驚愕する。
たまねぎの入っていないカレーライスを作ってみたとする。
・・・
旨いわけがない。
・・・
だが、どうだろう?こうは考えられないか?
数々の香辛料達とたまねぎとの関係は、誰もが信じて疑わないベストパートナー。差詰め鴛鴦。
だが、そのような周囲の、また自身の評価によって盲目になっていることはないだろうか?
お互いを信じすぎる、愛しすぎるが故に気づかないこと。
一緒にいる時間が長すぎて、知らず知らずのうちに足枷になっていること。
別れを決意することで、そのような事象の全てから解き放たれて、大きく羽ばたけることは考えられないだろうか?
もう一度、深く、肺の隅々まで行き渡るように空を仰ぎながら深呼吸をする。そして決意した。
たまねぎとの決別を。カレーライスの新境地を目指すことを。
材料をこだわりのカットで下ごしらえ。ここが重要だ。口の中における食材の主張のバランスを決する重要な行程。
しかし、たまねぎが離脱することによって下ごしらえの行程にも変化が生じてくるのではないか?
しかし、衝動のような感情に支配された思考回路に理性は介入できない。
考えるより先に、一心不乱に次の行程へ突き進むその感情は、青春時代の無垢で未熟に突き進む恋のエピソードのそれに似ている。
鍋に火を入れ、オイルを垂らす。次の行程の幕開けだ。
ここに来て大きな困惑が脳裏を過ぎる。
たまねぎを炒められない。芳醇な香りと深いコクはどうする?たまねぎを炒めることによってのみ為せる業。カレーライスにとって大切な財産であり、冠されなければいけない称号なのだ。
しかし、今の状況においてカネも地位も名誉も関係ない。
全てはたまねぎとの決別、そしてその向こうに広がっているであろう新しい世界へ向かうために必要な犠牲なのだ!
迷わず次の儀式へ取り掛かろうではないか!
全ての食材を鍋の中へ放り込み、木べらでかき回す。眼前に広がる混沌。
この混沌の向こうに、新たな秩序が産まれるはずだ。
香辛料を投入し、改めてかき回すと、激しく中枢神経を刺激する。脳内麻薬が分泌され、興奮はピークを迎える。
この時に至っては、物事の善悪の見極めも怪しくなり、過ちに気付くセンサーは破綻した状態である。
激しい衝動に突き動かされる状況の中で、一時の間冷静さを取り戻す瞬間。
煮込み。
絶妙なタイミングでブイヨンスープを注ぎ込む。
この行程を迎え、一息つくように冷静さを取り戻した瞬間、ムクムクと過去の記憶が脳内を支配し、激しい不安に襲われる。
芳醇な香り、深いコク・・・
本当にこれでよかったのだろうか?盲目に走り続けてきたのではないか?大切なものを忘れてきたのではないか?
だが、もう振り返ることは許されない。時の流れは得てして残酷なものである。
与えられた現実が、結果の全てであり、全てを受け入れなければいけないのである。
香辛料が微かに鼻腔を刺激し、ふと我に返る。
信じてきた道ではないか。その向こうには絶対に明るい未来が開けているはずである。
迷わずいこうではないか!
米をとぎ、炊飯器を早炊きにセットする。
とぎたての米を短時間で炊きあげることにより、米をアルデンテに仕上げる。
カレールーのとろみの粘度にマッチした米を炊きあげるためだ。
後は、米が炊けるまでカレールーを煮込み続けるのみである。
結果は間近である。
決別から産まれるであろう新たな世界。
不安と希望の入り交じった灰色な時が、ゆっくりと、だが確実に進んでいく。
ピッ、ピッ、ピッ・・・
電子音が米の炊きあがりを伝える。
ジャーの蓋を開け、皿によそう。
皿を一度テーブルに置き、鍋の前に立つ。
ひとつ、息を飲み込み鍋の蓋を取る。
・・・
それほどの感動はない。
拍子抜けしてしまうほどに。
いや、一口食べれば、新たな世界が時を刻み始めるに違いない。
恐る恐る、だが丁寧に、スプーンでカレールーと米、バランス良くすくい、口へ運ぶ。
・・・
旨い。
・・・
でも、やはり何かが足りない。
そう、香りと、コク・・・
なんのために走り続けてきたのだろう?
これまでの衝動が産んだ幻想は、音を立てて崩れ去る。
盲目から解き放たれたいと望むあまり、その感情は衝動となり、衝動は新たな盲目を産む。その先に待っている未来が、こんなにも暗いものであったとは。
やっぱ、一緒がいい・・・
ふと呟く一言は、初秋の微かな冷たさを含んだ風にかき消された。
鍋から香る香辛料の香りと共に。




