チャプター2
〜正午〜
「おばちゃ〜ん! ザワークラウト二皿!」
「あいよ!」
竜の紅玉亭では、マリーゼおばさんの快活な声が響いていた。一日のうちで最も混雑するお昼時、早くに起こされたせいで睡魔に襲われ本調子でないエルリッヒを助け、お手伝いと言うのには有り余る働きをしてくれていたのだ。
さすがは主婦の大先輩と関心してしまうが、ふと自分の方がよほど年上だったと思い出す。人間の姿を取る事の出来る竜王族は、人間としての姿や精神の老い方も人間とは明らかに違う進み方をするが、それにしてもこんなに娘時代を謳歌していていいのだろうかと、ふと疑問に思ってしまう。
「それにしても、こうなるとおばさんはすごい戦力だわ……ふわぁ……」
大きなあくびをかみ殺しながら、フライパンを振るう。今まで、幾多の窮地に活躍して来た、あの「重たいフライパン」である。もしうっかり取り落としでもしたら、それこそ大惨事になってしまう。
眠いとは言え油断は禁物だった。
「なんだなんだ? エルちゃんはおねむか?」
「あっはっは、あたしが悪いのさ! 何せ普段起きるよりも早くに起こしちゃったからねぇ。そりゃ眠いだろうよ」
「その割におばちゃんは元気じゃねーの。客の立場じゃなくなって、物珍しい感じ?」
「いやいや、ルイーゼは元々この近所じゃ評判のべっぴんだったんじゃ。おばさんになったとは言えその魅力は失われておらんという事じゃろうて」
店内には近所の顔見知りしかいないため、みんながみんな、好き勝手な事を言っている。この自由気ままな空気が暖かくて好きなのだ。客だからと大きく気を遣う必要もなく、周りの人間も横柄になる事なく気さくに接してくれる。
もちろん線引きは重要だが、それをふまえても尚、とても暖かい。
「ところでエルちゃん、いつもの二人はどうしたんだ? 最近見ないようだけど」
「ん? あぁ、ゲートムントとツァイネ? あの二人はねー……」
遡る事一ヶ月前。二人は城門の前にいた。
『じゃあ、行ってくるよ』
『元気でな』
見送る者はエルリッヒただ一人。晴天の下、冷たくも爽やかな風が吹く朝、二人は旅立って行った。
「えぇ? 修行の旅?」
「そうなの。ほら、何ヶ月か前に南まで出張って行ったでしょ? あの時に受けた屈辱が忘れられないんだって。確かに手強い相手だったけど、あの二人って根っからの戦士だから」
「でも、それがいいんだろ? 友達甲斐があるって前行ってたじゃないか。おばさんも、あの二人は子供の頃から知ってるけど、気持ちのいい若者に育ったもんだと思うよ。いつ戻ってくるのか知らないけどさ、応援してやりなよ!」
おばさんの言葉がなんとなく嬉しい。そうなのだ。あの二人は悪魔との戦いで味わった力の差を埋めるべく、さらなる修行の旅に出たのだ。どこへ向かったのかは知らない。エルリッヒが同行した事のない範囲にも、色々な街があり、森があり、遺跡があり、洞窟があり、冒険のし甲斐はたっぷりとあるのだから。
それに、ただでさえ王都に暮らす戦士や冒険者の中でもトップクラスの二人。これが修行を重ねて戻ってくるとなれば、一体どれだけ強くなって帰ってくるのだろう。それを考えるだけでも、なんだかワクワクする。
「エルちゃんも、まんざらでもなさそうな顔じゃねーか。あいつら、将来有望か?」
「ちょっとおじさん、からかわないでくださいよ。そんなんじゃないですって。友達として、すごいなって思っただけです。それに、先の事なんか、誰にも分からないんですから」
そうだ。自分があの二人のうちどちらかを好きになる可能性だって十分にあるし、あの二人の好意を全身で受けつつ、一生今のような友達関係を続ける事だって十分にあるのだ。
そもそも、人間ではない自分が人間相手に恋をする可能性自体、未知数ではあるのだが、友情を築いている異常、可能性はあるだろう。考えただけでめんどくさい。
「友達、ねぇ。エルちゃんに恋人が出来たら、おじさん嬉しいけど寂しいよ」
「もー! だから、そんなんじゃないですって! それより、早く食べちゃってくださいよ。せっかくの料理が冷めちゃう。それに、お酒も飲んでないのにそんなに酔ってるみたいな事言って。いいんですか? 誰が聴いてるか、分かりませんよ〜?」
軽口を言って脅してみる。ここに来ているおじさん連中は、どういうわけだか妻の事が怖い男ばかりだ。普段職場では後輩や弟子相手に大声で怒鳴りつけているような職人も、なぜか頭が上がらないらしい。
そんな二面性も彼らの魅力なのだが、改めて女性の力を感じさせる。と同時に、それが人間の力であり、魅力なのだ、とも思わせてくれる。
エルリッヒがエルリッヒなりに、「女に生まれてよかった」と感じる一瞬だった。
「さてと、あんた達早く食べてさっさと仕事に戻りな。今日はあたしのせいでエルちゃんに無理させちまってるんだ。少し早めにお店切り上げて、休んでもらわなきゃならないんだからね!」
「なんだよ、結局ルイーゼの都合じゃねーか」
「休みたいの、ホントはお前さんなんじゃろう?」
言葉だけを取り上げるとまるで客を追い出すかのようなおばさんの態度は、まるでみんなに元気を注入しているかのようで、言われた方もまんざらではなさそうにしている。このやり取りの心地よさはなんだろうか。この街に来てもう何年にもなるのに、毎度毎度新鮮な感動を味わう。
「みんな、気を遣ってくれなくてもいいからね。おばさんのおかげで眠いのは確かだけど、頑張って美味しい料理出すから!」
キッチンから客席に向かって振り向くと、大げさに腕まくりをしてみせた。芝居がかったその仕草に、お酒を出しているわけでもないのに歓声が上がった。
〜一時間後〜
「ふぅ〜。ようやく落ち着いたねぇ。エルちゃん、毎日こんなに大変なのかい?」
「そうですよ〜。この後、ご飯食べて一休みしたら、夜の仕込みがあるんですから」
結局、朝は詳しい話を訊く間もなく仕入れに向かい、いつも通りのノンストップでこの時間までを忙しく過ごした。ただ一言「あの宿六が尋ねて来ても知らないって言っとくれ」とだけお願いされただけで、詳しい家出の経緯は知らないままだった。どのみちまだまだ時間はある。深い話をするのは夜のお店が片付いてからでも遅くはない。そう思えばこそだったが、それにしても、眠い。
「ふわぁ。おばさん、悪いけど私少し上で寝て来ます。ご飯は好きに作ってくれて構いませんから、三時の鐘が鳴ったら起こしてください」
「そっか、悪かったね。分かったよ。ゆっくり休んどいで」
おばさんであれば、ここを預けても信頼できる。エルリッヒは昼食も摂らずに二階の自室へと引き払ってしまった。
とにかく、今は寝よう。おばさんに起こされたために失われた数時間を、今ここで、この午睡で取り返すのだ。
「おやすみなさい……」
誰に言うともなくそう呟き、ベッドに潜り込むと、次の瞬間には安らかな寝息が響いていた。
〜つづく〜