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チャプター1

 その夜、王都に怒号が響いた。本来であれば近隣を巻き込んでの大騒ぎになるはずなのだが、今宵はいささか事情が違っていた。

 誰も、反応しないのである。夜遅いからだとか、ここ最近特にひどくて慣れてしまったからだとか、色々な理由が丁度重なってしまった。

 かくして、その夜は周囲を一切巻き込む事なく更けて行った。



〜翌朝 竜の紅玉亭〜


 食堂の朝は早い。それは竜の紅玉亭も例外ではなく、性根としては怠け者と言っても過言ではないエルリッヒも、夜明け前に起床し、簡単な店内の掃除を済ませると、いつものように朝の仕入れに向かう。

 しかし、この日は違っていた。

『エルちゃ〜ん! 起きとくれ〜! エルちゃ〜ん!』

 ドアを叩く激しい音と、そのドア越しに響くエルリッヒを呼ぶ声。二階の布団で起床までのわずかな時間を過ごしていたと言うのに、文字通り叩き起こされてしまった。

「ん……何?」

 ベッドから上半身だけを起こし、カーテン越しに窓の外を見てみると、空はまだ暗い。恐らく、夜明け前どころではないのだろう。むしろ、まだ「夜」と言ってもいいくらいだ。

「夜明け前って言うより、まだ夜じゃん……しかもこの声、マリーゼおばさん?」

 野性の勘が夜明けまでの時間を伝えてくれる。普段起きている時間にはまだあり、十分に眠っていられる。どんな事情があるのかは分からないが、こんな時間に起こされたのではたまったものではない。

 今日の仕事に支障が出ては大変だ。とはいえおばさんが呼んでいると言うのだ、無視するわけにも行かない。何しろ彼女はこの街に来てからの月日で一番お世話になった相手なのだから。

「はいはい、行きますよー」

 まだ寒さの残る初春、カーディガンを羽織って軽く櫛で髪を梳かすと、ろうそくの明かりを手に階段を降り、玄関に向かった。「自らの吐く炎で火を灯せたら楽なのに」という、余計な事を考えながら。



「はーい。おばさん、どうしたんですか?」

 一体何事かとドアを開け、おばさんを招き入れる。声も気配も、紛れもなくおばさんである。ドアを開けるまでもなく分かっている事だが、いざドアを開け、実際に対面すると、なんとなくほっとする。

 時間や声の様子を考えると、それはただ事ではないのだろうと思うのだが、薄明かりに照らされたおばさんの顔は、若干の怒気を感じるだけで、それ以外の特別な勘定は読み取る事が出来ない。では、この怒気はどこから? またいつもの夫婦喧嘩?

「あぁエルちゃん、こんな時間に起こしてごめんね」

「いえ、それはまぁ。で、どうしたんですか?」

 マリーゼおばさんとゲオルグおじさんはとても仲のいい、相性のいい夫婦だ。二人の子供が独立しても変わらずにいる。しかし、その一方で名物となっているのが、二人の夫婦喧嘩だ。その都度、とても些細な理由で喧嘩をするのだが、その激しさや時間を問わない開戦に、近所中で名物と化していた。

「折り入ってお願いがあるんだけど、いいかい?」

 その様子は、いかにも申し訳なさそうで、話を聞かずにはいられなかった。とりあえずとばかりに真っ暗な店内に招き入れると、カウンターに座ってもらった。

 カウンターに燭台を置くと、エルリッヒもおばさんの隣に座り、話を聞く事にした。

「で、どうしたんですか? こんな時間に。みんな、まだ寝てますよ? ていうか、私も寝てましたし」

「それは本当に悪かったと思ってるよ。で、お願いって言うのはね、しばらくここに泊めてほしいんだよ」

 突然の申し出に、言葉を失ってしまう。そもそもおばさんは隣に住んでいるのだ。わざわざここに逗留する理由がない。いや、家出と言う意味であれば、多少は理由も発生するのだろうが、それであれば、もう少し遠い場所にある屋敷に泊まった方がいいはずだ。なぜ、わざわざ隣であるここに。

「えっと、お客さん用のベッドや寝具はないですよ? それに、なんでうちに? 多分家出だと思うから、理由は追々教えてもらうとしても、なんでうちを選んだのかなーって思うんですけど」

 さすがに知り合ってからの年数が王都の住人で一番長い相手、普通なら訊きにくい事でも臆せず訊く事が出来る。むしろ、今ここにいるのがそういう相手であってよかったと思っていた。

「いやね、家を出るならどこでもいいのさ。でも、宿に泊まるわけにはいかないだろ? だったら、一番近くのエルちゃんに頼ろうって思ってね。それに、ベッドはないかもしれないけど、寝具や着替え一式は持って来てるから、大丈夫! いざとなったらあのとうへんぼくがいない間に取りに帰るしね。どうだい? お店は手伝うからさ、頼むよ!」

 こんな事を言われては、断れるエルリッヒではない。それがどういう結末に繋がるかは分からないが、引き受けるのが女の心意気だ。

「分かりました。じゃあ、おばさんが気の済むまでいてください。ただし! お店のお手伝いはしてもらうのと、わたしの本心は、できるだけ早く仲直りをして、家に帰ってほしいって気持ちですからね。この二つだけは、了承してくださいよ?」

「分かってるよ。あたしだって、このまま別れたいとまでは思ってないさ。ただ、あのろくでなしに少しでも反省してほしくてこうして家を出て来ただけなんだよ。とにかく、ありがとうね」

 かくして、隣人であるマリーゼおばさんの家出を預かる事になったエルリッヒ。この先に待っているであろう犬も食わない争いを思うと、ついついため息が出るのであった。




〜つづく〜

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