自我の選択
電子銃により人間を作り変える。僕はある研究所で行われるそんな実験に立候補した。なぜなら僕はそのとき人生が八方塞がりだったからだ。何をやっても幸せにはなれない気がしたからだ。
それはネットではなく、ある雑誌の紙面上で募集された。電子メールなどではなく、紙面から申し込み用紙を切り取り、自分が応募する理由を四百字以上で説明しなければならない。書くのが許されているのはボールペンか万年筆のみで、一字の間違いや誤魔化しも許されなかった。決して広くない用紙に四百字以上も書くのは至難の技で、僕は何枚か申し込み用紙を駄目にした。五枚目の用紙に記入する際には、僕は完全に記入するレイアウトを考えたうえで、他の用紙で何回か練習した後、それに臨まねばならなかった。僕はそうやって記入を完了させたうえで、茶色の封筒に封をして、とんでもなく住所が長い宛先に送付しなければならなかった。
僕はそれをポストに投函した。これで自分が変われるんだと思うと、いてもたってもいられなくなった。自分がまるでサッカーでゴールを決めたみたいに走り出して、そのまま何処かに行ってしまいたいと思った。だけど僕が走り出したとき、それはまだポストの中にあった。これから夕方になって郵便局の人間がポストから封筒を回収して、それから郵便局のなかであるべきところに仕分けされて、しかるべき日にちに配達される。僕にとって、それは永遠に長い時間であるように思われた。それから研究所のひとが僕の封筒を受け取って、僕に合否を出すまでにどれだけの時間がかかるだろう。僕はそれまで、僕の人生が変われるかどうかを判断できないのだ。
結果を待つまでの間、僕は今まで通りの日々を過ごさねばならなかった。自分には価値がない、ゼロだと思う日々だった。なぜ生きているのか? わからない。なぜ死なないのか? わからない。ただひとつ分かっているのは、死んでしまえば僕がいま悩んでいることなんて簡単に吹き飛んでしまうということだ。僕はつまらないことで悩んでいる。だが僕の頭のなかには、考えてもどうしようもないことがいつまでもグルグルと頭の中を駆け回っていた。いつのまにか一日が終わり、そのことがまた僕を苦しめる。
一ヶ月経過したが、研究所からまだ連絡は来なかった。落ちたんだ、と僕は思った。世の中には僕よりも病んでいる人がいっぱいいて、きっと僕の病み方なんか大したものじゃなかったんだ。そう思うと、また憂鬱になった。どうしようもない人間なんだ、という思いが僕の心を狂わせた。病むことすらできない欠陥人間。そんな僕に電話がかかってきたのは、さらに一ヶ月経ってからのことだった。
「初めまして、○×研究所の者です」
僕はその電話を取った瞬間、視界がぐるりと回って倒れそうになった。何故かかってきたんだ? 僕はもうそんなこととっくに諦めていた。他の方法で抜け出さなくちゃ、と思っていたけど何も方法が見つからず、相変わらず苦しんでいた。僕はなんとか意識を留めると、電話に対応した。
「まず、連絡に大変時間がかかってしまい申し訳ありません。ただこれはどうしても必要な時間だったのです」
「どうしても必要な時間?」
僕は思わず繰り返してしまった。その言葉に苛立ったのだ。どうして時間が必要なのだ、僕は今すぐにでも変わる必要があるというのに。○×研究所のひとは何事もなかったように話を進めた。
「この実験内容は見てもらえば分かりますとおり、倫理的に不味いものがあります」
怒りは一瞬で氷解した。かわりに、心がまるで重石で引っ張られたようなプレッシャーが僕を襲った。アンダーグラウンドの文字が頭の中で回る。そうだ、これは全くとんでもない実験なのだ。人間を作り変えるなんて。その実験の主導を握るのが某大学の名誉教授でなければ、とても信用などできないものだった。テレビでもほんの少し前まで、ずっと是非が問われていた。
「私どもは世間の注目を反らすため、どうしてもその時間が必要だったのです。いま思えばあのやり方は少々不味かったのではないかと考えています。しかし、ああしないととても信用など得られなかったでしょうから」
僕はいま電話に出ているのが、その某有名教授ではないかと考えた。この喋り方、テレビに出ていたのと全く同じではないかと。しかし僕は確信を持てなかった。僕はテレビに出ていた教授の声色をよく覚えてないし、教授とは皆こんな話し方をするものかもしれない。
「ある程度の冷やかしは想像していましたが、実際にやってみると、外部から被験者を募集するというのは想像を絶するものでした。何せ本当に冷やかしだけならまだしも、自分は本当に変わりたいと思っている気になって送ってくる人が多いものですから……そういう人とそうでない人を判別するのはとても難しい作業です。人間の思考なんて曖昧なものですから。私がいくつか質問を投げ掛けるまで、そのことに気付かない人が多いのです」
その言葉はどんどんと暗い淵に僕を押しやっていった。それは僕のことを言っているのかという気がしたからだ。僕は本当に変わりたいのか? 逃げたいだけではないか?
「本当に変わりたい一部の人には残念ですが、私は選別の基準を上げることしました。といっても二分の一くらいです。私は二分の一の確率で、本当に変わりたいかそうでないかを判別して電話をかけることが出来るようになりました。今日のあなたはその一人です。私はいま、あなたがどちら側に所属する人間なのか想像がついていません」
揺さぶられている、と僕は思った。これは「僕が本当は変わりたくないのではないか」という方向に持っていくための揺さぶりであることは明白だった。ここで決意しなければならなかった。僕は本当に変わりたい人を演じるのか、正直に話すか。僕は自分から言葉を出す前まで、迷いに迷った。
「いきなりで申し訳ありませんが、まずお聞かせください。あなたは自分が本当に変わりたいと今でも思っていますか?」
わからない、と僕は言ってしまった。僕はこの電話が来るまで本当に変わりたいと思っていた。だけどあなたの話をこうして聞いているうちに、自分が本当に変わりたいのか分からなくなってしまった。そのことについて電話越しの相手は何も言わなかった。かわりにまた幾つか質問をしてきたので、僕は答えた。いつのまにか僕は誰にも話したことがないことまでその人に話していた。話しているうちに僕は気分が軽くなった。そのような気持ちになったのは本当に久しぶりだった。
「貴重なお話ありがとうございました。もう十分です」
その人は言った。それまで、僕はこれが審査であるということを頭の片隅に置いていた。
「まず、あなたは自分がそれほど病んでないのではないかということでしたが、私どもはそのようなことは重要視しません。本当に変わりたいと思っている人であれは、人生の成功者でも誰でもいいのです。私どもはそのような人を探しています」
その言葉を聞いたとき、僕は次に来る言葉がわかった。
「私が聞く限りでは、あなたは鬱状態に陥っているのだと思います。落ち込んだ精神により、自分がいなくなってしまいたいと想像しているように思います。一度精神科に診察に行かれてはいかがでしょう」
僕はそれに反論しようとしたが、できなかった。電話口の相手が語るのは至極真っ当なことで、僕はそれに論理的に反論する言葉など思いつかなかったからだ。
僕が鬱? そうかもしれない。だけど僕は仮面鬱ではないか? それすらも知るのが怖い。
「いろいろ反論したい気持ちもおありでしょうが、残念ながら今日の私には、あなたを本当に変わりたい人だと判断する要因が見つかりません。せっかく申し込みいただいたのに申し訳ありませんが、この話はなかったことにさせていただきたいと思います」
待ってくれ、と思った。実際にそう喋ろうとした。しかし相手はそれよりも速く次の言葉を差し込んできた。
「私は今度もう一度、被験者を募集しようと思います。ただし今回のように大々的にはやりません。ある雑誌のあるページに、ひっそりと告知したいと思います。もしあなたがどうしても実験に参加したいのであれば、それで再度応募していただけないでしょうか」
僕は何も言えなかった。相手の対応は完璧だと思った。それ以上に僕はどうすることもできず、電話を切るときにお礼さえ言った。
それから僕に待っていたのは地獄の日々だった。変われるチャンスを掴みかけていたのに逃したことで、本当にクズなんだという思いが僕のなかに渦巻いていた。どうしようもない、なんにもできない。僕は会社をズル休みすらした。早く病院に行って休職にしてしまえば良かったんだ。僕はそんな決断力すら無かった。
僕はふたつのことだけをする時間が続いた。会社に行くことと、実験の募集を探すこと。僕は結局会社に行って、訳のわからない日々を過ごした。帰りにありとあらゆる雑誌を読み漁り、告知がないか血眼に探した。だけど世の中は多種多様の雑誌で溢れかえっており、この中から一ページだか半ページだか分からない告知を見つけ出すのは困難であるように思われた。ネットでも情報を探したが、全然見つからない。だが僕は告知を探すのをやめなかった。半ば自暴自棄になっていた。そして僕はついに、ある医療雑誌のなかにそれを見つけた。無数の薬の広告が並ぶなかに、名刺ぐらいのサイズでそれは存在した。申し込み用紙は無い。ただ突き放すように、応募の宛先だけがそこに書かれていた。
僕はどうすればいいのか、全く迷わなかった。家に余っていた便箋に、実験を断られてから僕に起きたことをつらつらと書き連ねた。どれほど僕が絶望したか、どれほど僕が実験に参加したいと思っているか。文章はまとまりを成さなかった。時系列はめちゃくちゃで、自分が何を書いているのか分からなくなった。だが僕はそれを全部吐き出してしまわないことには気が済まなかった。そして僕は異様に膨らんだ封筒をポストに投函した。
封筒を出した後、僕は電話がかかってくるのを想定して何度もシミュレートした。ついに僕はそれ以外何もできなくなって、会社を辞めることになった。会社を去ることについては何も思わなかったけど、逃げ道がなくなったことは僕をさらに追い詰めた。だけど僕は待つ以外のことをしようとしなかった。絶対に電話がかかってくるのだと信じていた。僕以上に僕を変えたい人はいないのだと、自己暗示をかけるようにずっと妄想した。
一ヶ月後、ついに電話がかかってきた。それは思っていたよりずっと早かったけど、○×研究所からの電話だと僕は確信していた。電話を取ると、あの時と同じ声が僕の耳に伝わった。僕は僕が考えていたこと全てを話した。逃げ道を断ったこと、僕はもうこの実験によって変わるしか道がないのだということ。抑えていた感情が爆発した。僕は全てを話すまで、一言も相手に喋らせなかった。
全てを話した後、電話口の相手はこう切り出してきた。
「あなたの言いたいことはよく分かりました……ふたつ質問をしていいですか?」
はい、と僕は言った。これまで生きてきた中でどのことに相当するか分からないぐらい、凄まじいプレッシャーだった。相手は僕の気持ちを沈めるように、ゆっくりかつ慎重に話し始めた。
「まずひとつ。私はあなたに以前、精神科の診察を受けることを勧めたはずです。診察には行かれましたか?」
それは僕が推測していた質問だった。行ってない、と僕は答えた。鬱なんてのは単にある状態に名前を付けているだけでしかないのだ。誰かがそれを病気であると言おうとも、僕は病気であるとは思わない。僕は僕自身の意思で、この実験を受けたいと思っている。
電話越しの相手が沈黙した。僕にはそれが永遠に続くのではないかと思われた。しかし実際には長い時間続かず、相手は別の質問をぶつけてきた。
「あともうひとつ。この実験を受ければ、あなたはあなたではなくなってしまいます。もしかしたら何か残るかもしれません。しかし私どもはこれまで動物達に対して実験を繰り返してきましたが、人間については不十分なのです。もしあなたが完全にあなたでなくなったとしても問題ありませんか?」
その問いを受けたとき、僕の視界は暗転した。やめろ、という声が僕の中から聞こえた気がした。しかし僕はやめられなかった。はい、と答えてしまった。
「わかりました……私はあなたに実験を是非受けていただきたいと思います」
僕は無言で聞いていたけれど、心は台風が到来した時の波みたいに揺れ動いていた。本当にこれで良かったのか? もう止めることはできないのか?
「時間はかかりません。数日のうちにあなたの元に伺い、実験施設にご案内したいと思いますが……ただひとつ、あなたに説明したいことがあります。この実験はあなたの意思でいつでも止められるということです」
止められる? 何を言っているんだと僕は思った。
「この実験は文字通り、とんでもないことをしようとしています。私は神罰を受けるかもしれません。あなたは消えてしまうかもしれません。誰も責任を取れないのです。何が起きるのか分からないのです。私はこれまで、この実験に参加しようとしてきた人達には、可能な限り考え直すよう対応を進めてきました。ただ、そこに適切な被験者がいたとしたら、私は科学者です。どうしてもやりたくなってしまうのです。だから私はこれから何があろうと、私の側からはあなたを止めません。あなたはこの実験を進んで受けにきたのだと。そう想定してやりたいと思います。しかしあなたはいつでもNOと言えます。もしそう言われた際は、たとえ実験装置を動かす直前であっても実験を止めることをあなたに約束します」
そして電話越しの相手は僕に携帯電話の番号を教えてきた。本気なのだ、と僕は思った。教授は本気なのだ。
それでは数日のうちに必ず伺います、そういって相手は電話を切った。僕の体がガタガタと震えた。ワーッと叫んで、どこかに消えてしまいたい気がした。僕はどうすればいいんだ? 今すぐ教授に電話して実験を止めてもらえばいいのか? 僕は電話できなかった。ただ今日あったことが夢であるといいと思い、布団のなかでいつまでも震えていた。
一日空いて、僕の元に白いワゴンがやってきた。そこには教授が乗っていた。教授と握手するとき、僕の手の震えは全く止まらなかった。しかし教授は何も言わず、僕を実験施設へと連れていった。
実験施設はまるで巨大な電子レンジのようだった。僕は実験器具に固定され、部屋にひとり取り残された。周りには無数の穴があり、レンズのようなものが覗いている。僕はそれが電子銃であると認識した。あれから光線が出れば僕は作り変えられてしまう。壁際にひとつのマイクロフォンが見える。あそこに向かって叫べば実験を終えられる。いつ実験が始まるんだ? この部屋には何も聞こえない。
お題:立候補
うまく書けたと思ったけど、あとでプロの人が書いた小説を読んでみると、やっぱりダメな気がするなー。
読後感っていうんですかね? ああいうのを作る力がほしい。