生きるということ
お題:生きるということ
夜は僕の感覚を鋭敏にし、研ぎ澄ましてくれる。
夜が最初に教えてくれるのは、僕は生きているということ。ぼくは夜の間だけ街の住人でいることができる。外を出歩くことができる。夜は僕にとって特別な世界だった。しんと静まりかえった気配、種々の汚れを覆い隠す闇の訪れ。皆が寝静まる時間に僕は街に出た。麦茶が入ったペットボトルにスマートフォン、スポーツタオル、そして僅かばかりのお金を持って。
遠くから、カタンカタンという音が聞こえてきた。そちらの方向に顔を向けると、高架橋を走る列車の姿がぼんやりと見える。深夜ゼロ時を過ぎたこの時間帯でも、列車はまだ通っているのだ。運転士ひとりだけが操縦する貨物列車。彼らもまた夜の街の住人だった。
誰もいない街の歩道を、少し息が切れるくらいの速度で駆ける。今日はどこに行こうか。昨日は川に沿ってどこまでも走ったのだけど、今日は川を渡ろうか。このまま少し進んだところに、川の底を通るトンネルがある。
トンネルの入り口には、下に降りるための巨大な業務用エレベーターが備わっていた。だけどいまは時間外だから動かない。隣にコンクリートの階段があり、僕はそれを降りていかねばならなかった。階段を降り始めると、周りのあちこちで反響した足音が耳奥に入り込み、僕の緊張感を微かに煽る。地下とトンネル。どちらもアンダーグラウンドを感じさせるものだ。例えば映画やテレビドラマだったら、不良の集団が脈絡もなく現れて、理不尽な悪意をぶつけて僕をめちゃくちゃにしてしまうかもしれない。だが結局、僕がトンネルの端まで行って階段を上がるまで不良は現れなかったし、そんなのはただの想像で思い込みでしかないなんてこと、僕は知っていた。
川を渡ると、そこには全くの別世界が広がっていた。距離にしたらたった数百メートルしか離れていない。国境を隔てているわけでもないし、文化が違うわけでもない。だけど違う道があって、違う建物があって、違う町の名前がある。そこに突然現れたという点で、そこは紛れもなく別世界なんだと僕は思った。僕はその町を、商店通りに沿って走る。やっぱり誰もいなかった。この辺りは交通量も少ないのか、自動車ひとつ走らない。本当に静かだ。僕の足音や吐息が主役に抜擢されるぐらいに。
目の前に、いろいろな夜の住人が姿を現しはじめた。電柱に取り付けられたライト、自販機の灯り、闇夜に映える高層ビルのイルミネーション。輪郭をギラギラとさせる植物の葉、折れてしまったガードレール、錆びついた古い看板。どれも昼間に見れば、どうということのないものだ。しかし夜が夜であることを僕が認識していくたびに、あらゆるものは僕の前でその存在を主張していく。それ以上、何をするのでもないのだ。僕のことを襲いもしないし助けもしない。ただどれも、僕の心に一抹の不安を残していった。あのここに来るときに通ったトンネルみたいに。だけど、やはりそれが思い込みであることを僕は知っている。
そのままずっと走り続けていると、大きな公園が見えた。大きいといっても、どこかの有名な公園と張り合えるぐらいじゃない。ただ草木に囲まれて、いくつか遊具があって、子供が野球ゴッコならできそうなところ。そんな公園だった。僕は公園なんかそんなに興味なかったけど、ひとつの遊具に目を奪われた。それは巨大なお椀をひっくり返し、さらにそり立つ壁になるようにスプーンでくり抜いた形をしている。僕は子供の頃、その遊具が好きだった。ただそり立っているだけのそれを、何時間も飽きずに登っていた。あのとき登っていたのとは違うけど、僕は懐かしさに惹かれ、その遊具へと向かっていった。
その遊具は、今の僕からすればとても小さいものだった。少し勢いをつけて登ると、あっという間に頂上に登ってしまった。子供の頃は全く登れずに、何度も滑って下に落ちていたのに。僕は時間が解決する問題としない問題があることを知った。今のは「する」問題。僕が抱えているのは「しない」問題。頭の中には、高校~大学時代に友達だった子のことが浮かんでいた。同じ研究室に通って、社会人になってもたまに連絡をとっていた。その子のことを思い出したのは、その子の実家がここから近いからだろう。
僕とその子は、この現代社会への適応に苦戦していた。個人が社会のために歯車になる時代。僕らは歯車になるためにこれまで教育を受けさせられてきたのだということを、否が応でも実感した。だから騙された、という気持ちが僕には少なからず有ったし、その子はそのとき初めて自殺を考えたというのだから、僕よりも大きくショックを受けたようだった。それから僕とその子は密に連絡を取り合うようになったのだけど、その子が僕から金を騙し取ろうとしたことを境に関係は終わってしまった。二百万ぐらい借金を作ったらしい。前からおかしいなとは思っていた。僕の話はまるで聞いてなかったし、悪く言えば用事があるときだけ僕を利用しているみたいだったから。だけど僕は、実際にその子が僕を騙そうとするまで、その子のことを信じていた。信じたくなかったんだ。そんな絵に描いたような馬鹿なやつが僕の周りにいるなんて。
頂上は平になって座れるようになっているので、僕は座り込んで空を見上げた。この空だけは昔からずっと変わっていない。星がろくに見えない空。宇宙的に見ればとても明るいであろう星が幾つか、液晶モニターがドット欠けしたみたいに見えているだけだ。僕が空を見て感動したのは一度だけ。八高原かどこかで見た夜の星空。まるで星が降り注ぐようだった。あんなに明るい星達が一体どこに隠れていたんだろう、そして今はどこに隠れているんだろう。もしあの星達が見えないほど空が汚れているのなら、人間社会は一体どれほどのエネルギーを持っているというのだろう。何もかも覆い隠す負のエネルギー。その力は、この夜の闇のものよりも大きいのかもしれない。
僕はスポーツタオルで顔や体を拭く。ペットボトルで水分を補給しながら、スマートフォンで現在時刻を確認した。AM2:04。少しずつ、朝を意識しなければならない時間が近づいてくる。だけど僕は帰りたくなかった。もっと夜の世界を過ごしていたかった。だから僕はもっと遠くに走ることにした。
ずっと走っていくと、僕は川に突き当たった。スマートフォンのマップツールで確認すると、このあたりで最も大きな川だった。僕は人生で何度かその川に行ったことはあるけど、こうして真夜中に、しかも徒歩で来たことはない。少し先に、川を横断する大きな橋がかかっている。その橋はまだ完全に交通量が途絶えておらず、ときおり軽自動車やトラックなんかが猛スピードで突っ切っていった。僕はその橋を渡ることにした。
途切れ途切れに隣を走っていく自動車の音を耳に入れながら、その橋を渡るというのはなかなかスリルなことだった。その巨大な川は僕に届かないところにありながらも、確実に僕のことを捉えていた。夜の川の水はまるでコンクリートを流し込んだような重量感があり、落ちてきたものを決して逃さないであろう気配に満ちている。僕は足下にあるアスファルトの欠片を川に投げ込んだけど、川からは全く何の音も返ってこなかった。欠片が小さすぎたのか、それとも川が音すら飲み込んでしまったのか。僕は川を眺めながら思った。この川なら、僕のことを全部飲み込んでくれるだろうか。この川に落ちれば、本当にどこか別世界に行けないだろうか。
何をやっているんだ、と僕は思った。あまりにも馬鹿なことをやっている気がして、急に眩暈がして倒れそうになる体を欄干で支えた。ペットボトルを地面に落としてしまった。なんとか道路に落ちないところで止まっている。
先月、僕は初めて自分を売った。それが女の子になって初めての行為だった。みんな作り物のアソコに喜んで突き立てていった。
僕は中学生の頃、イジメにあった。女のような顔や体をしているからって、訳もなく殴られた。使われることがなかった教室に連れ込まれ、男性器や肛門をめちゃくちゃに弄られた。僕が他人の手によって絶頂に達すると、周りのやつらに笑い者にされた。僕は男の手で逝くホモで変態で、この上なく気持ち悪いやつだと言われた。男も女も、僕を虐めること以外では誰も近寄ろうとしなかった。僕はそのことをずっと隠して生きてきた。普段ちょっとしたことでそれが頭を過ったりして、何十分も吐き続けたことさえある。それがある限り、僕はまともになれないんだと思った。一生そのことを抱えて生きていかなければならないんだと。だけど僕のなかには小さな火種がずっとくすぶっていて、それが決定的に僕のことを壊してしまった。
「大人になった時、簡単に愛される方法を見つけたの。服を脱ぐだけで良かった」
僕はその言葉をネットで見てしまったとき、目の前が真っ白になった。頭が焼きついてしまいそうなぐらい熱くなって、壁に頭をガンガンと何度も叩きつけたくなった。僕はマリリンモンローに嫉妬した。自分が女でないことに絶望した。女だったら、体を売るだけで生きていけるのに。それから僕は退職して女性ホルモンを注射し、美容整形した。僕はもともと女みたいだったので、あっという間に女になった。男性器があると男性ホルモンが出てしまうので、僕は睾丸を切除し、ペニスも切った。僕は貯金のほとんどを使ったうえに、両親から勘当された。僕はいま、自分の体を売ったお金で生きている。自分が子供の頃になるなんて思っていなかった、娼婦になって生きている。
僕のズボンのポケットには、千五百三十二円が入っている。千五百三十二円。僕が男だったときに稼いだ最後の金だ。これを使い切ってしまえば、僕は完全に女になるだろう。こうして男の格好をして、夜の町を出歩くこともなくなるだろう。僕はあのまま、男として生きていくこともできた。だけど一生後悔していただろう。生きていくってことは、何かを失っていくということなんだ。それを回復する術があるのか、僕にはわからない。