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幼き日の放火魔

お題:放火

 生き物を燃やすのにハマったのは小学生のときだった。

 あるとき僕はゴキブリを燃やした。わざとじゃない。お湯を沸かそうとしてヤカンに火をかけたら、その下からゴキブリが飛び出してきたんだ。一瞬でパニックになった。だってゴキブリ(というより虫全て)が僕は大嫌いだったんだ。あのテカる気持ち悪さ、ウネウネと別生物みたいな触覚。だけどあのときはどっちも見えなかった。何故ならゴキブリは燃えていたからだ。全体がオレンジと黄色の炎に包まれていた。それがコンロの上を忙しなく暴れ回るんだ。想像してみてくれよ。僕はわけの分からない叫び声をあげていたと思う。よく火事になったり、ヤカンを落とさなかったりしたものだ。ゴキブリは、最後はシンクにダイブして死んでいた。凄く臭いんだ。僕はとてもそれを片付けられなかった。母さんが帰ってくるまで台所には絶対近づかなかったし、片付いても暫くは近づく気になれなかったよ。

 僕の頭には、長い間ずっとそのことが張り付いていた。本の背表紙で虫が押し潰されてくっついちゃうみたいにね。何をしていても思い出すんだ。学校で勉強しているとき、食事をしているとき、家でゲームをしているとき。いつあのゴキブリが飛び出してくるのか気が気でなかった。もちろん夢にも現れたよ。気持ちよくぐっすり眠っているとき、突然あいつが現れる。僕はやめてくれって叫ぶけど、あいつは構わず床の上を所狭しと暴れ回るんだ。ねずみ花火みたいに。

 けど、僕はいつのまにかそれを克服した。あまりにも僕の前に現れるから慣れちゃったんだ。そうすると、そういうのってなんだかいいなあと思うようになった。淀川の花火大会を見にさ、毎年毎年大勢のひとが集まってくるだろ? あれと同じさ。さすがにウットリとはしないけど、それを見るとどこか良い気分になった。人間って本当に不思議な生き物だって思う。

 そんなのだったある日、ゴキブリが僕の前に姿を現した。結構な大物だった。親指と人差し指の間をめいっぱい広げたぐらい? それは言い過ぎだけど、とにかく大きかったのは確かだ。そいつは部屋の壁に張り付いて、調子ぶっこいていた。呑気にウネウネと触覚を動かしているんだ。ほら気持ち悪いだろ? ほら殺せないだろ? っていうふうに。だけど僕はそれを全然気持ち悪いと思わなかったし、怖いとも思わなかった。かわりに、凄く腹が立っていた。お前はなに余裕ぶっこいてんだ? お前はそうじゃないだろ? お前は本当はそんなやつじゃないだろ? 僕はゴキブリを鷲掴みにすると、台所の引き出しからライターを取り出して風呂場に直行した。ゴキブリを胴体から触覚に持ち替えて、下からライターの火で炙ってやった。ゴキブリは狂ったように暴れた。いつまでも持ち続けることが難しいぐらいに。だけど僕は執拗に炙った。火が燃え移って消えなくなるくらいまで炙ってからタイルの上に離してやった。ゴキブリはのたうち回っていたよ。なぜ俺がこんな目に合っているんだって感じだった。さっきまで余裕ぶっこいていたのに。やがてゴキブリはただの焦げた塊になった。その時間は短く、数十秒だったか、数秒だったかもしれない。だけど僕はこれが本当の姿なんだって思った。ゴキブリのあの小さな体に秘められた、死に物狂いの全エネルギー。

 それから僕は、ゴキブリというものが全く怖くなくなった。僕はゴキブリを見つけるたびに燃やしたくなった。家でゴキブリを見つけたら、お母さんや姉に見つからないように捕獲して、机のなかに厳重に保管した。夜中に皆が寝たことを見計らってから、僕は風呂場でコッソリと燃やした。夜は夜で別の楽しみがあるんだ。明かりを消すとゴキブリの炎だけが見えて、なんとも言えない味わいがあったんだ。ゴキブリが燃えずに殺されると、それだけでとんでもなく腹が立った。声には出さないけど、その日は誰とも全く口を聞かなかった。

 僕はいろんな生き物でも試してみた。蚊、カマキリ、ハエ、ミミズ、ダンゴムシ、ムカデ……だけどどれもゴキブリほど面白いことにはならなかった。僕はいろんなものを燃やしていくうちに、ある種の法則というものが分かるようになってきた。生命エネルギーなんだ。生命エネルギーを多く持つほうが、燃えたときに激しく暴れ回る。数億年以上生きてきたゴキブリの生命エネルギーは、文字通り凄まじいものだった。いわば燃やすというのは、生命エネルギーを測る物差しになるんだ。唯一、ゴキブリ以外で面白いと思ったのは蜘蛛だった。あとはドングリの背比べ。少しずつだけど、僕は生き物を燃やすということに飽きてきた。僕を一番最初に驚かせたあのゴキブリのことだって、大したことじゃないと思えるようになってしまったんだ。転機が訪れたのはそんなときだった。

 学校の昼休み中に、とつぜん雀が教室のなかに飛び込んできた。みんなビックリして雀から逃げるんだ。だけど跳ね回って近づいてくるから、あるクラスメイトがあやまって雀を蹴ってしまった。それで雀は吹っ飛んだんだけど、片方の足が変な方向に折れ曲がってしまった。これは明らかに回復不可能という折れ方だった。なんてことをしてくれたんだ、と僕は思った。クラス全体にもいたたまれない空気が漂って、わざとじゃないのは分かっているけど、蹴ったクラスメイトを糾弾せずにはいられなかった。そのクラスメイトは今にも泣きそうだったんだけど、別のクラスメイトが雀の前に歩み出た。クラスのリーダー的存在で、清場という男の子だった。清場が「なんとかしてくる」と言って雀を抱え、教室を出ていってしまった。みんなその後ろ姿を見つめていたけど、僕だけは清場の後をつけていった。

 清場は校舎の裏側に行った。校舎の裏側は草がボウボウだから、誰も好き好んでこんな場所には来ない。清場はそこで雀を離した。やっぱり何もできないんだ。僕がずっと突っ立っていると、清場が近寄って僕に言った。みんなには言うんじゃないぞ。僕は無言で頷く。

 教室に戻っても、誰も僕たちに何も聞かなかった。本当は聞きたいんだけど、聞かないことで事象が確定するのを避けているようだった。その日の午後は授業が一時間だけあったけど、まるで葬式みたいに静かだった。重苦しい雰囲気で授業とホームルームが終わると、清場が真っ先に教室を飛び出した。遅ればせながら、僕も後についていった。

 清場は思ったとおり校舎裏に向かっていた。ここには放置できないと思ったんだろう。僕が近づいて聞いてみると、やっぱりそのとおりだった。こんなところに置いてちゃいけないよな、どこか遠くに持っていかないと。

 清場は雀をそれ以上傷つけないよう大事に抱え、歩きはじめた。雀は見るからに衰弱していて、苦しそうに肩で息をしていた。僕はそんな姿を見つめながら、横に並んで歩き出す。清場はゆっくりと歩きながら、どこまでも遠くに行こうとしているようだった。僕らは人目を避け、裏道を通った。誰かがいれば避ける、誰かがいれば避ける。そうして僕らは誰もいない公園にたどり着いた。どこの公園なのかは知らない。ただ、完全に校区外であることは確かだった。清場はその公園の見えにくい木陰の下で、雀を離した。

 雀はもはや虫の息だった。今に命が消えてもおかしくなかった。おそらく、残されている生命エネルギーは僅かしかない。清場は雀を離した格好のまま、固まったように座り込んでいた。

 僕は聞く。

 どうするの?

 ここに置いて帰る。

 その言葉を聞いたとき、僕は安心した。やっと僕の思うようにできると思ったからだ。だけど清場は動かなかった。いつまでも石のように動かなかった。

 何やってるのさ、と僕は言う。

 帰るんじゃなかったの?

 帰るよ。

 じゃあ早く帰ろうよ。

 分かっているけど、帰れないんだよ!

 清場は両手で頭を抱え、葛藤のようなものに苦しみはじめた。僕は一体清場が何故こんなにも苦しんでいるのか理解できなかったけど、そんなことを気にしている場合じゃなかった。僕は焦っていたんだ。

 燃やそうよ、と僕は言った。

 清場は最初、聞き間違いだと思ったみたいだった。だから早口で念入りに説明してやった。初めはそんな気がなかったこと。だけど授業を受けているうちにやらねばならないと思ったこと。雀の命が今にも尽きかけて焦っていること。そして僕のカバンに燃やすためのスプレーとライターが入っていること。清場は僕のことを狂っていると言った。しかし僕を止めることはできない。僕の方が信念を持っていたからだ。

 僕らは砂場に雀を移動させた。そしてスプレーをライターで火炎放射器にして、雀の全身に火をつけた。その瞬間、雀は僕の全身が硬直するような恐ろしい叫び声をあげた。きっと、いつまでも聞いていたら気が狂ってしまう。そういう種類の叫び声だった。だけどそれは一瞬の出来事だった。すぐに叫び声は止み、ただの黒い塊がそこに残った。

 僕と清場は雀から出ていく煙をずっと眺めていた。煙が出なくなると公園の木陰に埋めて、一言も言葉を交わさずに家路についた。

 僕はそれ以来、生き物を燃やすのをやめてしまった。あの雀の叫び声を聞いて、許されないことだと思ったからだ。だけど清場はそう思わなかったみたいだ。最終的に人間放火という殺人を犯し、捕まった。もしあの場で雀を燃やさなかったらどうなっていたのか、僕には分からない。だけど人には生きていくうちに幾つか重要なターニングポイントがあって、僕にとっても清場にとっても、あれがその一つだったのは確かに違いない。

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