僕が悪いのか?
お題:コインロッカー
腹が立っていたので、コインロッカーを全て占有してやることにした。
空いている駅のロッカー全てにコインを入れた。抜き取った鍵は全てリュックのなかに放り込んでいる。
いくつかのロッカーは使用中だったので、ロッカーをずっと監視して、それが空くたびにコインを入れて鍵を抜き取ってやった。こうして午後までには一つのロッカーを除き、全てのロッカーを占有することに成功した。
こうして一仕事を終えた僕は、吉野家で牛鍋丼を食べることにした。たった二百八十円の昼ご飯。
昼食後にロッカールームに向かっている途中、突然ガシャンという音がした。僕はビクついたが、それはロッカールームのほうから鳴っていたので、恐怖心と好奇心がひしめき合うような感情を胸に秘めて、こっそりと物陰から様子を眺めることにした。
ロッカーを蹴っていたのは、真っ黒なスーツに身を包んでいた男だった。背は高く、恐らく百八十はある。髪は金髪で逆立っていて、目つきはすこぶる悪い。学校で他人を貶めて生きてきたタイプだ、と僕は思った。
その男だが、左手に皮のバッグを抱えながら、もう三発ぐらいロッカーを蹴っている。蹴られたロッカーの扉は多少ヘコんでいるが、そう簡単には壊れなさそうだ。そもそも扉が壊れたロッカーなんて、あったとしても意味がないだろう。そういう意味では、この男はそうとう頭に血が昇っているのではないか。
慌てて遠くから駅員が駆けつけてきた。
お客様、おやめください。うるせぇ、なんで全部のロッカーが閉まってんだよ! 利用者数が多い駅ですから…… そんなこと聞いてるんじゃねえ!
男が駅員を殴った。駅員が顔面を抑え地面に倒れこむ。男は「しまった」という顔をした。辺りを見回すが、何故か逃げようとしない。明らかに両手がブルブルと震えだし、顔が青白くなった。それを見て僕は、この男は薬でもヤッてんじゃないかと思った。
ほどなく警官が駆けつける。男はそうとう暴れたのだけど、警官はまるでドラマみたいに簡単に取り押さえてしまった。男がしょっ引かれる様は、まるで嵐が去っていくようだった。あまりにも激しすぎて、一体何があったのかよくわからない。男とともに押収されていったあのバッグには何かしらヤバいものが入っていたのだろうけど。
正直言って僕はヘコんだ。駅員も傷つけてしまったし、あんなに大層なことをしようと思ったんじゃないんだ。もうやめてしまおうかと思ったけど、それは流石に勿体無い気がした。だって僕がコインロッカーに投入した金額の総計は軽く一万円を超えているのだ。そんなに使うなんて馬鹿みたいだけど、やってしまったものは仕方ない。だからもう少し続けよう。
僕は物陰に隠れたり、携帯ゲーム機でゲームするふりをしたりして、しばらく観察を続けることにした。観察を続けていて驚くのが、コインロッカーを利用するひとが結構多いということだ。ビジネスバッグ、スーツケース、着替え終わった服……貴重品かそうでないかに関わらず、なんでもかんでもポンポンと預けようとする。僕自身は駅のコインロッカーなんて利用したことがないのだが、そんなに信頼性が高いものなのか。僕が勤めている会社では、こういうところでは預けてはいけない例として新人教育で真っ先に挙げられていたはずだけど。僕はコインロッカーを占有することで、逆にセキュリティ事故を減らす人助けをしているんじゃないかという気になってきた。コインロッカーを使えないときの反応も多種多様なのだが、意外にみんな短気だということが分かった。舌打ちする人はともかく、ロッカーを一発引っ叩いていく人がたくさんいる。ロッカーにヘコミは残らないので後からでは気がつかないのだが、悲しい顔をして去っていくだけの人が一種の清涼剤のように思える。
午後三時頃にひとりの女の子がコインロッカーを訪れた。スーツを着ているというよりは着られている感じだから、新社会人なのだろう。その女の子は大きく膨らんだ鞄を二つ持っていた。明らかに詰め込みすぎなのだが、この情報化社会に一体なんでそんなものを持ち運ぶ必要があるのか。半面、そんなものを持ち運ぶ女の子の顔は初々しかった。田舎から都会に初めて出てくるような初々しさだ。そんな彼女は幾つもあるロッカーを見回って、空いているロッカーがないことにようやく気づいたようだった。
顔面蒼白になる女の子を見て、僕は「ダメだよ」と心のなかで忠告する。彼女は田舎から来たのかどうか知らないけど、とにかくこの都会に初めてやって来た。せっかく来たのだから、仕事帰りにここを満喫してやろうと思ったのだろう。そういう気持ちは、自分もかつてそうだったからよくわかる。だからといって、その手に持っているものをコインロッカーに入れるのはどうだろう。大切なものであるはずだ。でなければ、そんなにカバンをパンパンにして運ぶ理由がない。ここは諦めて帰るのが筋だろう。そうしたほうが回り回って本人のためにもなる。しかし女の子は諦め切れないようだった。しきりに「なんで?」と呟き、終いには地べたに座り込んで泣いてしまう。
とても見ていられない光景だった。僕は迷った。迷ったけど、一つだけロッカーを開けてやることにした。いま来た風を装ってリュックから鍵を取り出し、女の子から数歩離れた位置のロッカーを解錠する。女の子がこちらを向くことを予想していたので、開いた扉に隠れて何かを取り出す演技をしてやった。そして何も知らないようにその場を去り、素早く物陰に隠れて女の子の様子を見守る。そのときの女の子の変化は見ものだった。まるで天地が目の前で割れたかのように、探しても見つからなかったものが突然目の前に現れたかのように(事実そうなのだが)、女の子の表情は劇的に変わっていった。信じられない面持ちで空いたロッカーに向かい、大慌てで荷物を入れる。ロッカーを閉めコインを入れて鍵を掛けると、ようやく自分がロッカーを手に入れたことを実感したようだった。涙を堪えるように強く目を瞑ると、大空に飛び立つように外へと駆け出していった。
僕はかなり興奮していた。僕の一存で赤の他人の未来を左右できるなんて。まるで神様みたいだ。結局彼女が大事な荷物をロッカーに置いていったのが気がかりだが、まあそのときはそのときだろう。僕が帰るまでは見張ってやらないでもない。
それから僕は少し神様ごっこを楽しもうとしたのだが、全く楽しくなかった。鍵を開けてやろうと思える人物がなかなかいないのだ。例えば高校生くらいの集団がやってきたのだが、ロッカーが開いていないことを知るなり「マジだるいんだけど」とか「ウゼー、誰か余分に使ってんじゃないの?」とか悪態をつく。そんなことでは開ける気も失せるというものだ。また、一度綺麗なひとがいたので鍵を開けてやったのだけど、そのひとは鍵が開いたのを見るとハァッと溜息をつき、心底怠そうにロッカーに物を預けていった。先の女の子のような反応はできないものだろうか。
結局何も面白いことがないまま日が暮れた。女の子が帰ってくるのを待っていたが、もう夜遅いのに帰ってこないし、今日はもうこのまま帰ろうと思った。問題はリュックに入れたままの無数の鍵をどうするかだが、流石にこのまま持って帰るのは不味い気がする。元に戻すには最初にやったことと逆のことをやればいいだけだが、やるときと違ってテンションが上がらないものだ。何ともならないと思いつつ、もう少し考えてみる。
ふと、僕は人がやってくる気配を感じた。僕は冷静に物陰に隠れる。そういう技術は今日一日で身についてしまった。ひっそりと息を潜め、人がやってくるのを待つ。
まもなく、その人は現れた。背が高い女のひとで、身なりが乱れ、やけにコソコソしている。腹のあたりに何か隠しているみたいだが、布に覆われていて見えない。しかし僕はその様子を見ていて、何かしらを確信していた。ボサボサの髪、やつれたような姿。こういう予感は経験上、よく当たる。
僕はその女のひとの一挙一動を注意深く見つめた。間違いなく今日一番の集中力だった。そしてそのひとが焦るように身を翻したとき、僕の目はついに確固たるものを捉えた。
赤ん坊だ。赤ん坊をロッカーに捨てようとしているのだ。
そのとき、僕の心に強い使命感のようなものが湧き上がった。そのような行為は絶対に許せないという思い。僕はその女のひとを睨んだ。一体どんなことがあろうと、絶対にロッカーは開けない!
僕と女のひとの持久戦は続いた。女のひとは最早焦りの色を隠さないが、全く諦めようとしない。僕の思いは時を経るごとに段々と強くなっていく。どんなに待ったって絶対に開くことはないのだ。何故ならば、僕が全ての鍵を所有しているのだから。
そのとき、カチャリ、という音がした。
僕と女のひとは恐らく同時に同じ方向を向いた。僕の目に映ったのは、帽子を被った白髪交じりの老人の姿。何故開けられるんだ?! そのとき僕は思い出す。午前中、ひとつだけ占有できないロッカーがあった。あのロッカーだ!
僕は焦った。まさか僕以外の手でロッカーが開けられるなんて想像もしてなかった。しかも老人はロッカーの使用を終えてしまい、僕よりも近くに女の人がいる。女の人が唾をゴクリと呑み込んだ。もう何かを考える時間は僕に残されていない――
女のひとが空いたロッカーに向かった。それと同時に僕は走った。もう僕は空いたロッカーさえ占有できれば何でもいいと思った。だから僕は女のひとがたどり着く前にロッカーを開けると、リュックを乱暴に放り込み鍵を掛けてしまった。これで僕は全てのロッカーを占有した。僕はロッカーを背にして地べたに座り込む。
やってやったのだ、という実感が僕の心に強く湧き上がった。一言で言えば射精した気分だった。全知全能の感覚が全身を駆け巡るのを、僕ははっきりと感じることができたのだ。
次の瞬間、僕の前に巨大な物体が飛んできた。それは僕の前を勢いよく跳ね、向こうのほうへと転がっていった。最後に壁に激突したそれは首が折れているように見えた。首だけじゃなく、他のいろいろな部分も壊れていたかもしれない。正確なことは僕にはわからなかった。何故なら全てが判明するまでに、僕は逃げ出していたからだ。
その後しばらくは飯が喉を通らなかった。ニュースを意図的に見なかったので、あれから一体どうなったのかは僕には分からない。ただ、僕はリュックをそのままにしてあの場を去ったのだが、いまだに僕のところには何の連絡も来ていない。
いま思えば、あの赤ん坊は最初から死んでいたのかもしれない。何故なら全く泣いていなかったから。もし生きていたとしても、それは僕が悪いのか?