フェンリル
お題:狼男
フェンリルが眠るのは、深い深い洞穴の最深部にある部屋の中だ。
そこに至る道程はとても狭く長く、一日以上這いでいかなければ辿り着けない。光は当然とどかず、日から見捨てられた土達が、通り抜けようとする者の体温を奪っていく。しかも緩やかな下りになっているので、一度入れば途中で引き返すのは不可能であり、馬鹿か余程の物好きでなければ決して近寄ろうとはしない場所だった。
だからフェンリルは、そこで好きに眠ることができた。
最初に人間が訪れたのは、フェンリルがそこに住みだしてから少なくとも一億年以上経ったあとのことだった。地に伏せていたフェンリルの耳に、からから、という音が聞こえてきた。からから、からから。最初はその音の正体が全く分からなかった。何しろ、フェンリルはあらゆる音を、時が忘れるほどずっと聞いてなかったのだ。むしろ、まだ自分が音を認識できることに驚きを感じていた。
からから。からから。
その音は、フェンリルが眠る場所から少し離れたところにある穴から聞こえてくるようだった。ほどなくして、砂や小石が落ちる音だとフェンリルは認識する。そして、穴からヌッと人間の手が現れた。続いて頭、胴体が転がり込んでくる。フェンリルの前に、ひとりの男の体が投げ出された。
その男は、うっ、うっ、と呻き声をあげている。フェンリルは驚いた。人間がこんなところにまで来るのは不可能だと思っていたからだ。そもそも、それがフェンリルがそこで寝ている理由である。だからフェンリルは、目の前の鼻先程度でしかない男に興味を持ち、話しかけることにした。
(おい)
ひっ、と男が声をあげる。
(人間如きがよくここまでこれたものだ。何をしに来た)
フェンリルは男の脳に直接語りかけた。難しいことではない。フェンリルにとっては、話すより簡単なことだ。
(お前は俺に会いに来たのか。それとも別の理由か)
「あっ、あっ……」
(おい)
フェンリルは根気良く話し掛けたが、要領を得ない。仕方なく、フェンリルはその男を喰うことにした。
次に人間がフェンリルの前に現れたのは、それから百年後のことだ。
からから、からから、という音が穴から聞こえてきた。たった百年前のことなので、フェンリルは「またか」と顔を上げる。しかし前回とは違うところがあった。明らかに、複数の音が混在していた。そして、ぼんやりとした淡い光が穴から漏れ出している。
光がこちら側に向いたとき、フェンリルはギャアッ、と叫び声を上げた。気が遠くなるほど昔から地上に出ていないフェンリルにとって、その光は強すぎたのだ。焼けるような目を抑えて悶絶する。彼が寝返りを打つたびに、洞窟が地震のように揺れた。
「うぉ、なんだこりゃー!」
「バケモンじゃないですか! 大スクープですよ二村さん!」
ふたりの男が、宝物を見つけたように叫んでいた。頭の辺りから眩い光を放っている。
「おい小竹! 見ているか! 俺すごいもん見つけちゃったよ!」
「ここもう通信届きませんよ!」
「マジかよ! 知ってたけど!」
この洞窟を進んできたとは思えない、常識外の騒ぎ様であった。しかしフェンリルとしてはそれどころではない。まずはこの光に慣れなくてはならないのだ。
フェンリルは腕で光を遮りつつ、目を開ける。
「おい、やばいぞ根本! 睨まれちゃってるよ!」
「ちょっと押さないでくださいよ!」
「なんとかしろよ!」
「無茶言わないで!」
ふたりで押し合いをしている。そのおかげでフェンリルへと向けられる光量が減った。だからフェンリルは、ようやくまともにふたりのことを観察することができた。見たこともない服に身を包んで、見たこともない装備を身につけている。いや、時代が変わればそれらが変わるのは当たり前なのだが、それにしてもこんなにも簡単にここまで来れるものなのか。百年前も驚いたのは驚いたが、今回のふたりはその比ではない。おそらく、装備が優秀なのだろう。頭に付けたライトはもちろん、背負っているナップサックのなかにも色々入っているようだ。明らかに、何らかの目的があってここに来ている。
(おい)
フェンリルはそのふたりに語りかけることにした。
「なんだ?」
「おい根本、お前なんか言ったか」
「言ってませんよ何も!」
「嘘つけ! いまオイッて言ったろ!」
ふたりは脳に言葉が届いたのは分かったが、それがフェンリルが発したものだとは分か
らなかったようだ。まだ言い争いをしている。しかしそれはフェンリルからしてみたら、
ふざけているように見えた。何なのだ、一体この者たちは何なのだ。
(いい加減にしろ)
フェンリルは少し苛立ったように言葉を送った。
「……! おいっ……」
「……ええ、俺も聞こえました。二村さんの声じゃないですね……」
「バカ、当たり前だろ!」
「ということはつまり……」
ふたりが見あったまま、恐る恐る顔を上げた。
(ようやく気がついたか)
フン、とフェンリルが鼻を鳴らす。風圧がふたりを襲った。
「「ギャアーッ!」」
「ギャアーッ!」
ふたりが叫び声を上げた。光を向けられたフェンリルも叫び声を上げた。フェンリルが暴れたので、また地震のような振動が起きて、パラパラと砂が天井から落ちた。ひとりが腰を抜かしたように倒れたが、誰にとってもそんなことは重要ではない。
「こいつ化けてんのかぁっ?!」
「に、二村さん! そいつライト浴びて苦しんでるみたいですよ!」
「オイッ、マジじゃねーか! オラッ、もっとくらえ!」
ひとりの男が勇敢にも、自分の体ほどもあるフェンリルの瞳の前に立ち光を浴びせる。効果覿面であり、フェンリルは思わず身を縮ませた。だが男は逃がすまいと、さらに近くへと踏み込む。怒ったフェンリルは腕を横薙ぎに払う。それだけで洞窟は静かになった。
それから暫くは、頻繁に人間が訪れるようになった。多種多様な人間がいた。さきのふたりのような馬鹿な人間、明らかに自分を殺しにきた人間……取り分け驚いたのは、フェンリルを救済者か何かだと思って会いにきた男がいたことだ。この洞窟に入った者は誰一人として帰らない。それは天国に送られたということであり、自分も同じように天国に送り込んでもらいたい。意味が分からないが、フェンリルは望み通りその男を食い殺す
ことにした。食われている最中に男が浮かべていた恍惚な表情は、今でもフェンリルの脳裏に深く焼き付いている。
他の場所を探すか。フェンリルがそう思い始めた頃、人間の来訪はぴたりと止んだ。あまりにも突然に止んだので、これは何か企んでいるか、とフェンリルは警戒した。しかし何十年経っても、何百年経っても何も起こらない。フェンリルは、少し時間の経ちが遅いと感じた。しかし一万年経った頃にはそのような感覚もなくなり、再び前のように深い眠りについた。
……からから、からから。
最初、フェンリルは耳を疑った。まさかもう来ないだろうと思っていたのだ。フェンリルですら、あれから何年経ったのかわからない。今更この俺に何の用があるのか。フェンリルは重たい腰を上げた。どんなやつが来たのかはっきり見てやろうと思ったのだ。それにこの音は今までで最も静かで、力強い。ヌッと手が突き出た。次に頭、そして胴体、足。その者は裸だった。そして今まででの誰よりもスムーズに、するすると立ち上がった。
……女?
フェンリルは驚きを隠せなかった。女がここに来たのは初めてだ。それに心身ともに鍛えている女ならまだしも、この女はまるで触れれば折れてしまいそうな体をしている。何なのだこいつは。人間なのか?
フェンリルは脳に直接語りかけようとした。しかし不可能だった。そこに語りかけるべき脳が存在しないのだ。脳がないというのはあり得ないことだった。この目の前の女が、脳を持たない下等生物なんてことはあり得ない。
「あなたを、探しておりました」
微笑みながら女は言った。
フェンリルと女は、口頭でやり取りを行うようになった。両者とも異なる言語を使ったので最初は手間取ったが、やがて時間が問題を解決した。すなわち二人は二人だけのコミニュケーション方法を確立し、普通の言語を使うよりも一層密なやりとりを可能にした。
女は人間ではなかった。アンドロイドという、人を模した機械らしい。フェンリルはやれやれと大きく溜息をついた。
「人間とは、またよく分からぬものを作るのだな」
「私の名前はアール・イー・セブン。レナと呼ばれていました」
そしてフェンリルとレナは、いろいろなことを話し込んだ。ふたりには、あらゆる生命体からすれば無限にも等しい時間があった。そんな長い時間を一緒に過ごしたので、自分の昔話をするぐらいにはフェンリルも心を開いた。自分は神の子供として生まれたこと。その狼の体から神々にも恐れられ、特殊な道具で拘束されたり監禁されたりしたこと。信じていた者に裏切られ、その腕を食い千切ったこと。レナはそれを聞くと、とても悲し
い顔をした。別に何の感情も持ってもらいたいわけではない、とフェンリルは言う。
そしてそれからも永遠に近い時間が過ぎた。あまりにも長いので、フェンリルでさえも、いつまでもこれが続くのであろうと錯覚した。しかしそうはならなかった。あるとき、レナの体に寿命がきたのだ。
レナはノイズ混じりの声で言った。私は貴方と会えて幸せだった。貴方は途方もない時間をひとりで過ごしてきたと言ったけれど、私はそんなこと耐えられそうになかった。死のうとしても自己修復機能が働いて、死ぬことができなかった。だから貴方と出会えて、こうしてひとりにならず死ねるのは、本当に幸せだった。
そしてレナは完全に活動を停止し、ただのモノとなった。そして時間はそれからも進んだ。フェンリルは再び永遠にも近い時間をひとりで過ごさねばならなかった。
「……ようやくか」
フェンリルは再び目を覚ました。レナの体が完全に風化するほどの恐ろしく長い時間が経っていた。世界が赤に包まれている。スルトの火だ。長かった世界がようやく終わりを告げようとしている。
フェンリルは、この世界では何もしないはずであった。この世界ではなく次の世界からも、何もする気はなかった。しかしフェンリルは何もしないことはできなかったし、次の世界でも結局何かをしてしまうという予感がある。
フェンリルは首を上げ、天井を見つめる。しばらく考え込んだ後、再び首を下ろした。
次の世界では何かをやってやってもいいかもしれない。しかし人間が生まれるまでにはまた膨大な時間がかかるだろう。そのときまでフェンリルは眠ることにした。