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残る爪痕 血脈の果て 番外編 「発覚」

「航海」

 ローゲン帝国の侵略に抵抗したトスキールは相手より遥かに少ない兵力、軍事力で奮闘したものの、首都被爆を前に祖国から亡命せざるを得なかった。同盟を結んだネーズルの協力も手伝い、艦隊はネーズル北端の孤島、トルカセニレに最小限の損害で到着する。しかしその間に帝国は軍備を集結させていた。それを察知したヴェスヴィオスは外交官オドグを派遣し、兵力増強にオース港にて傭兵を数十人掻き集め、トルカセニレへと出航した。

 しかし事態はトスキールの予想を遥かに上回る速度で進行していた。オドグ一行がノメイルを立った時点で既に開戦一週間前を切っていたのである。そしてノメイルからトルカセニレまでの所用日数は船で半月。

 開戦には到底間に合わなかった。


 アラシュはする事も無しに、宛がわれた窮屈な個室でただ寝て過ごしていた。彼は戦艦の運営技能を有していなかった。その彼が戦艦に同乗しているのは、彼がトルカセニレ防衛戦に狩り出された傭兵だからだ。個室の籠った空気に嫌気がさすと、甲板に出た。そこには壮年の男が腰掛けていた。彼は言葉を交わさず、男から一リーゲル離れたところに座る。そこでも何もせず、ただ空を見上げていた。

 空には薄い雲が掛かっていた。その隙間を塗って漏れ出た日光が海を点々と照らす。

 どうしようもなく暇だった。空を見上げる以外何もできなかった。

 その時雲を陰が横切る。一つではない。十余がV字を描きながら、彼の視界を通り抜けた。遠目に見ても、渡り鳥より遥かに大きい。リョコウトカゲの群れだろう。奴等はこの季節になると必ずノメイルから北東へ移動する。最も今年は寒冷化で移動ルートが西北西に南方変更したらしい。それなら確かにこの船上空を通るかもしれない。

 何気無く目を遣っていると、群れの中の一頭が高度を落とした。雲を突き抜け、全身が日の光に晒される。それは予想通りリョコウトカゲだった。唯一つ違うのは、羽と尻尾の間に覗く何か、トカゲの青い体色とは反対の黄色が見えた事だ。

リョコウトカゲは自重の二倍以上の上昇力を持っている。それは産後、まだ飛行能力が未発達な子を安全な場所に移動する際に必要とされるからだ。しかしリョコウトカゲには親も子も、体に黄色い部分は無い。それ以前に、リョコウトカゲはものを必ず腹に抱えて運ぶ。背後から一部分が覗くという事は本来有り得なかった。

幾らか進んだ後、その一頭は高度を回復し、V字の列に戻っていった。


 彼が傍らの男に声を掛けたのは日が暮れかかった頃の事だ。

「トルカセニレにはいつ頃着くでしょうか」

駆け込みで搭乗してきた自身よりはこの航海について把握しているだろうと思い、訊ねる。しばらく沈黙が流れ、無視されたかに思われた時、

「今の季節は追い風だから、十日程度だろ」

返答のあと、男は何故そんな事を訊くのかと疑問の目を向けた。

「この船に乗ったのは本当に出港間際だったので、あまり任務の内容やその日程を聞かされていないんです」

「そりゃ遅くに来たお前の責任だろ」

遠慮の無い口調で彼の非を責められる。

「すみません」

あまりに率直な意見だったので、つい謝ってしまった。

「いやまあ、あのネーズル人は酷く忙しそうにしているからな。部屋に籠りっきりで国と文書のやり取りばっかだ。きっと会いに行っても忙しいの一言でドアも開けてもらえないんだろ」相手に謝らせた事を後悔したのか、男は彼に同情する意をまくし立てた。

「あ、はい、そうなんです」

事実そうだったので肯定する。

「仕方ない。俺が覚えている限りを教えてやる」

嫌々な振りをしながら、その実嬉しそうに男はブリーフィングの内容を語り始めた。


まずこの船はトルカセニレの方に向かっている。流石に飛び入りでも知っていると思うが。というか知っているんだよな。…そうか、なら良いんだが。分からなくなったらすぐ言えよ。

ただこの船は航路の半ばにある孤島に停泊して、そこで傭兵を下ろすんだ。そこで軍事機密の移動手段に乗り換えるらしい。元々は支援物資の配達用で、人を運ぶのは今回が初めてだとか。


「まあ、知っているのはこのくらいだな」

満更でも無い様子で男は語り終えた。

「開戦前に到着する事もあり得る訳ですか」

「というよりそれ前提で行動しているようだ。お前も武器の手入れは怠るな」

 そう忠告すると、男は視線を戻した。しかしすぐに振り向き、催促した。

「なあ、ユナイテッド・ポーンをやらないか」


 ユナイテッド・シープはギャンブルでよく行われるカードゲームだ。七枚の札の役を作り、その強さで競う。名前の由来は、最弱の札である羊を全て揃えるユナイテッド・シープが最強の役だからだ。男はこのゲームが好きだった。しかし、男はあまり他人とこのゲームをやる事が無かった。なぜなら、彼はあまりうまくなかったのだ。やる度に大敗してしまう。しかしギャンブルとして以外にこのゲームをやるような友人もおらず、アラシュに誘いを掛けたのだった。

「おお、お前うまいな」

 三度目のゲーム、ルールを飲み込み始めた時だった。アラシュの手札には七枚の羊が揃っていた。

「いや。それ程では無いです」

 むしろ男の方がルールを知らないのではと思うくらいに弱い。彼の役は二番目に弱いダブルペアだった。

 実際アラシュはそれほど強くなかった。試しに他の傭兵とやると、勝率は三割を切った。


 男はサクスと名乗り、やはり傭兵だった。アラシュと同じく傭兵連合を脱退しており、フリーで働いている。かなりのやり手らしく、連合時代は五十ある格付けの中で十番目のランク、ホークを獲得していた。




「選別」

 五日目の朝、汽笛が鳴った。号令で直ちに船を出るよう指示される。急いで身支度をする。個室の扉を、それを滑らせるスペースを空けながら開く。ただでさえ狭い通路は傭兵と船員で溢れ返っていた。部屋に押し戻されないよう気を付けながら、濁流に加わる。タラップまでの五十リーゲルは他人に揉まれ、あちらこちらをぶつけた。特に傭兵と見られる男は例外無く甲冑を着けており、頭や肩を強く打ち付けられる。避けようにも逃げ場が無い。流されるがままにしていた時、前方から一人の男がやはり濁流に押し戻されながら彼の方に向かってくる。目の前の一人を書き分けると、マントを着た男が現れた。サクスだった。顔には心配げな表情を浮かべている。自分が傭兵や船員の中では背も小さく、甲冑も着ていなかったので気になって様子を見に来たと言う。確かに散々ではあるが、助けを借りる程では無い。大丈夫だと返答したが、サクスはそのまま彼の前にいた。確かに後ろに張り付いていれば他人に勢い良くぶつかる危険は低くなる。サクスに心の内で感謝した。

タラップから下りると、そこは半径二千リーゲル程の小さい島だった。高緯度の為内陸部は針葉樹林に覆われ、その中に様々な軍事施設が点在している。頂点の部分には高い司令塔があった。狭い島だけに、大規模な爆撃作戦を常時警戒しているのかもしれない。純粋な軍事島と言うだけあって、海岸に大砲が設置されていた。港は小規模ながら近代的に整備されており、設備は海軍基地並みである。この船以外にも最新鋭の大型船が停泊していた。港では先に下りていたオドグが傭兵らに指示を出していた。人々の私語に掻き消されて声は良く聞こえないが、その手振りから四列に並ばせようとしている事が分かる。指示通りに並ぶと、どうやら自分たちが最後部だったようで、すぐに隊列は動き出した。

森の間に切り開かれた小路の緩やかな傾斜を二十分程登って行くと、森が途切れ、視界が開けた。幅十リーゲルの細長い平地だ。右の方には数十メートル行くと森が広がっているが、逆の方には水平線が見える。平地の中央には白線、その手前に体重計が置かれている。オドグは白線を跨いで数歩進むと、振り返って列を止めた。丁度彼と傭兵らの間を白線が横切る形だ。

彼は低めの良く通る声を張り上げ、ブリーフィングを始めた。

「今までの戦況から察するに、帝国との戦闘は勝敗に関わらず短期間で決着が付く。つまり君たちから見れば、開戦に遅れては折角のビジネスチャンスをふいにしてしまうのだ。背に腹はかえられない。諸君にはここから直接トルカセニレに向かってもらう。手段は少々試験的になるが」

彼の背後には大きな放牧場があった。その扉に立つ職員に向かって合図を送る。

 職員の手で扉が開けられる。全貌を緩慢に現したのは、腕に薄い膜を持ち、長い体躯を地に這わせる生物。首輪で繋がれたリョコウトカゲだった。急に差し込んだ日光に双眸を細めながら傭兵らを見回す。

 集まった傭兵らの間に動揺が走る。希少な生物に興味を示す者もいたが、それは少数派で、大半はその要望に怯えの表情を浮かべていた。

喧騒を無視してオドグが説明を始める。

「五年前、傭兵連合はこの孤島に本拠地を移転した際、この付近の孤島を本拠地にしていた商人集団ファースト・パッケージと業務協定を結んだ。リョコウトカゲ管理の為の物資の提供を条件に、ファースト・パッケージが所有するリョコウトカゲの戦略的利用を認可するというものだ。今までは支援物資の輸送に用いていたそうだが、今回は緊急事態につき、人員の輸送にリョコウトカゲを使う事にした」

 ざわめきは一層高まった。幾ら世界中に渡った経験を有する傭兵と言えども、移動手段は船や陸上生物以外使った事が無い。まだ帝国の空中砲台もノメイルではよく知られていない時勢だったのだ。その間、オドグは話を中断させられた事にも苛立ちを見せず、傭兵らが静まるのを平然と待つ。

列の前の方から傭兵らは静まる。オドグは再び口を開くと、説明を続けた。

「一応これらのリョコウトカゲにはトルカセニレまでの道筋を覚え込ませてある。訓練を積まなくとも、目的地まで運んでもらえる筈だ。背中にしがみ付いてさえいれば良い」

 もう私語は聞かれない。ようやく傭兵らは現状を把握したようだ。自分達が戦場に行くにはリョコウトカゲに乗らなくてはいけない事を。

「ただし条件がある。それは搭乗者がその装備込みで八ウェル以内である事だ。後、リョコウトカゲの数も限られているので先着十名とする」

傭兵らが息を呑んだ。

八ウェル。甲冑を脱がなければ裕にオーバーしてしまう値だ。そして今やクロスボーや銃が軍隊に普及し出している。対人戦に防弾機能付きの甲冑無しで臨むのは死を意味するといっても過言では無かった。

「乗ります」

周囲がざわつく中、アラシュは手を挙げた。彼は本来ゲリラ戦を得意としている。少しの動作でも派手に音を立ててしまう甲冑は彼にとって邪魔でしか無かった。勿論着けていない。

 アラシュはオドグに手招きされた。列を抜け、体重計へと向かう。

周りを見回すが他に挙手する者はいなかった。ただアラシュに奇異な眼差しを送っている。

当たり前だ。国同士の大規模な戦闘に介入するのは常に前線で敵陣に斬り込むような猛者ばかり。撹乱を得意とする余りに派遣から請け負い、個人契約へと転身するような者は、自国から離れる事に切羽詰まっていた彼程度のものだろう。実際彼以外の傭兵は全員堅牢な甲冑を身に付けていた。

 アラシュは体重計に近付くと、オドグは目でその上に載るよう促した。

背後から嫉妬とも軽蔑とも判別出来ない視線を感じながら、アラシュは体重計に足を乗せる。

針は静かに七の値で止まった。

「合格だ。こっち側に来い」

 オドグが静かに言った。アラシュはその意味が図りかねたが、体重計と事務員の間に引いてある白線を見て、その意味を理解する。目の前の白線は乗る資格の有る者と無い者を分ける為にあるのだ。

オドグのいる側はそれを有する者。

反対側はそれを有さない者。

そして今、アラシュは有する者としてオドグに認められたのだった。

しかしそれは彼が勇敢だからでは無い。ただの場違いだからだ。彼自身、彼がこのような国家間の総力戦に相応しいとは思えない。それでも名乗り出たのは、単に彼が臆病だからだ。彼を父から、自分の過去から、終には祖国からも逃げさせてしまったのは、彼の持つ臆病さ以外の何者でも無かった。

彼が幼少、父の背中に蠢く芋虫が見えた時、すぐさま屋敷から逃げ出した。森を後ろも見ずに走り抜けた。逃げ出した先では傭兵養成所に駆け込んだ。傭兵養成所は文字通り国家の支援を受けて傭兵を育成する施設の事だ。幼少の自分にとって衣食住が保障されている場所はそこしか知らなかったのだった。そこで彼は十五になるまで、規定の習得期間を過ぎた後は職員として居させてもらい、傭兵となった。

彼は気付いた。彼と他の傭兵を隔てている白線は人を重量で分けているのでは無い。傭兵という職業を自由意志で選んだ者と、逃げ道として選んだ者を分けているのだ。

アラシュの視界が歪む。全てが彼にとって悪意を秘めているように見えてきた。

傭兵らの目はまるで檻の中の動物を見る目だ。見るな、喋るな、近付くな、臆病風邪が移るだろ。

オドグはそれを高みから見下ろしている。寂れた動物園の園長さながら。

リョコウトカゲは己の鎖を喰い千切り、人間を襲う機会を虎視眈々と窺っている。はやるなよ、はやるなよ。

きっとこの平地にある崖は臆病者を突き落とす為の物だ。ほらほら、その板からあと一歩前に踏み出しな。

最後列の傭兵の足元から金属音がした。執行者のマントから落ちたのはそれまで鎌を砥いでいた、

甲冑だった。剛健な造り、防弾加工が施されているに違いない。

視界が晴れた。

サクスの足元に甲冑が転がっていた。脱いだ甲冑はそのままに、体重計へと闊歩する。

列を抜ける間、サクスは視線を浴びていた。それはアラシュの受けたそれとは真逆な、豪傑を向かい入れるような眼差しだった。

 サクスは他者の目を気にせず体重計の前に立つと、オドグの許可を待つまでも無くその上に乗った。針は七・四の値を指した。

「ほら、八ウェル以内だ。文句無しにな。早くトルカセニレに連れてくれ。事態は一刻を争うんだろ。戦場に行かない傭兵など、鉄を打たない武器職人より性質が悪い」

それ以外の選択肢が無いとはいえ、サクスの行動にオドグも驚いていた。

「ああ、勿論だ」

 呆然としながらも、白線を跨ぐよう指示する。サクスがそれに従うと、背後から無数の金属音が響いた。彼の決断に導かれたかのように傭兵らは我先にと甲冑を脱ぎ出していたのだ。足元に甲冑が積み重なり、脱ぎ終わった傭兵は我先にと体重計に駆け寄る。オドグは急いで列に並ぶよう指示しながら、傭兵らの体重を量っていった。

 

全傭兵の計量を終わらせると、オドグはサクスの英断を讃えた。是非とも君を作戦の実行隊長に任命したい、とまで評価する。褒められたサクスの方はそれを否定した。実行隊長になるべきはアラシュであり、口先だけの自分では無いと。オドグが不可解そうな目でサクスを見ていると、彼は連合職員に呼ばれた。サクスはさらに不可解な事に、別れ様こう言った。十一番目の適合者に自分のリョコウトカゲを回して下さいと。オドグは怪訝な表情を浮かべたが、理由を追求する事無く呼ばれた方へ向かった。

「どういう事ですか」

 オドグがいなくなるとアラシュはサクスに訊ねた。

「文字通りの意味さ。さっき条件を満たしていると言ったのは口先だけで、本当は重量制限を聞いた時から出撃を諦めていた。ちょっと来てくれ」

 要領を得ない返事をすると、彼はアラシュを連れて列の最後尾に向かった。周りには脱ぎ捨てられた甲冑が無造作に転がっている。サクスはその中に手を突っ込むと、何かを探り出した。それは幅が五分の一リーゲル程もある剣だった。種類としては、斬馬刀だろうか。それを片手で持ち上げると、アラシュの前に差し出した。

「持つか」

 意味を捉えかねたが、首肯する。言われた通り右手をその柄、出会った時マントから覗いていた部分に掛けると、サクスは剣から手を離した。途端右手に重厚な感触が広がり、思わず柄に左手を添えた。重さにすると幾ら程だろうか。少なくともウェルは下るまい。

「これは昔ネーズルで出会った戦友の形見だ。現地ではサクラマサクスという名前で、敵兵を鎧ごと叩き切る目的で作られたらしい。生前、必ずこれを使ってくれと頼まれた。だからこれ無しで戦場に行く事は出来ない」

 サクスが出撃を見送った理由はこれか。確かに実物を手に取ると納得出来た。サクスにとってその約束は掛け替えの無い物であると。

「だから俺は一緒に行く事は出来ないが、お前に俺は要らないだろう。羊に指揮される獅子よりも、獅子に指揮される羊の方が強いんだ。そしてお前なら獅子の指揮官になれる。俺が保障する」

アラシュは他ならぬ彼の言葉を信じる事にした。




「狂死」

目の前の学者は恐れ戦いていた。己の近付くに合わせ、彼も後退する。学者はそのままじりじりと、調理場の奥へ奥へと下がり、背中を調理台にぶつけた。行き止まりだ。調理台に手を突こうとする。すぐに手を離した。異様な感触に生理的な不快感を覚えたようだ。己以外には当然か。十分程度の間でこの小屋全体に芋虫を張り巡らしてある。どこであれ、素手で触るのはお勧めしない。

 学者が屈み込み、踏鞴を踏み、大振りで首を掻き毟った。さっき衝突した時、首に芋虫が付いたようだ。しばらく見下ろしていると、学者が静まり、顔を上げた。屈んでいる間も調理台から徐々に離れていたせいで、今学者と己の顔は拳一つ程も離れていない。首筋には赤い線が幾重にも走っていた。目は今にも狂気に振り切れそうだ。その目が私の目を見つめた。唇が震えているが、何も言葉を発しようとしない。分かっているのだ。説明など、言葉など目の前の相手に無用である事を。

 己は上を見た。学者もそれに釣られて上を見る。彼の頭上には芋虫の大群が天井に張り付き、頭をもたげていた。最寄の一匹は学者の丈まで既に下りており、先程の己以上に学者の顔に接近していた。学者は驚愕の余り口を開けた。そこに大群が雪崩れ込んでいく。一刹那の内に口は芋虫で溢れ、気道や食道に流れ込む。学者は芋虫を吐き出そうと跪き、喉に右手を当てた。芋虫は尚も天井から降り注ぐ。首に、頭に、腕に、足に。皮膚を、体内を蠢く刺激が絶え間なく神経に送られる。

 それなりに健闘してはいたが、直に学者の残された理性が消滅した。両手で全身を掻き毟り、顎を咀嚼するように幾度も噛み合わせ、体を地面に擦り付けるようにのた打ち回る。学者が芋虫の緑色の体液に塗れていく。その体液に更に芋虫が群がる。芋虫のライフスパンに共食いは組み込まれていないが、目の前に屍がある時は躊躇無く体に取り込む。同種の肉体はあらゆる食料の中で最も消化の効率が良い。蛋白質の構成が最も自身に近しいからだ。

 芋虫は一度指示を与えたら後は何もしなくて良い。もう人間が芋虫の大群相手に狂死するのは幾度と無く見てきたので既に興醒めている。体を壁や床に打ち付ける音が消えたら調理室に戻るとする。己は居間に戻った。


壁際の本棚から目ぼしい資料や論文を選り分けたところで、芋虫が足首に極小の歯を突き立て、記憶を神経に伝達した。学者は既に事切れている。それを芋虫が目撃してから、ここに移動するまで幾らか経っているだろう。どうやら己が調理室を出てすぐらしい。芋虫を操れるようになってから、感覚が非常に鈍化しているように思える。代わりに芋虫越しに情報を得る事が出来るようになったのであまり不便では無い。

調理室に戻ると、確かに死体が転がっていた。首から大量に血液が流れている。首筋を引っ掻いた余りに頚動脈を切断してしまったと見られる。狂死の最も多いパターンだ。最も学術の天才性を狂死の特殊性で計れる訳が無い。やはり己は学者に、死に際までその天才性に期待していたらしい。少々肩透かしを食らった気分だった。

学者の死を確認すると己は小屋を出た。このまま傭兵を追おうかとも思った。しかし己が傭兵の逃亡に気付いたのは芋虫越しなので、気付いた時点ですぐ出発しても、ノース州境を超えるまでに追いつけないだろう。己が州主の身である以上、自身が治めているノース、及びトースから別の州に行くには将軍の許可を取らねばならない。別に通報者を一人逃さず殺していけば己が越境した事は気付かれないだろうが、後々死体が見つかって騒ぎになるのは好まない。傭兵を己の意に同調させる為にわざわざ懐の爪を使う必要は無い。傭兵を追うのは諦め、下の村に向かう。それは眼下に広がる、この小屋と同じ造りの家々の群れの事だ。学者が城を出て以来、その村に毎週学者が必要とする日用品や食料を送らせていた。今日からそれは要らなくなった事を知らせなくてはならない。


真夜中だが、村長はまだ床に着いていなかったようだ。王族でない為常に虹彩が赤い。ドアを叩くとすぐに応対してくれた。軽い挨拶を交わすと、これからは物資を学者宅に届ける必要は無い旨を伝えた。理由は学者が失踪したからという事にする。探さないのかと質問されたが、大半の資料の解析が終わり、そろそろ己の庇護下から独立して欲しかったので願ったり叶ったりだと返答する。合点が行かないようだったが、他ならぬ王族の発言に対してあまり追求しなかった。

「近頃、海岸から百リーゲル程離れた所をよく不審な船舶が徐行しているらしいです。上陸を図っているようには見えませんがどうにも不気味で。何か手を打った方が良いでしょうか」

別れ際、村長から相談を受けた。

「確かにその船舶の本意は考えあぐねるが、上陸の兆しが見えるまでは下手に手を出さない方が良いだろう。代わりに兆しが見えたら遠慮無く沈めても良い。ノメイルの公式貿易、及び軍港はオルスだけだから侵略扱い出来るはず」

 無難に返答する。

トース沖合いを漂う船。確かに目的が窺い知れなかった。ノメイル諸島自体北半球では東に突き出ているのに、その東方を通る事に何の利益があるのだろうか。燃料の無駄遣いとしか思えない。もしその行為に意味があるとすれば、それはノメイル沿岸を運行する事自体が目的である場合だ。しかしそれはどのような場合かと訊かれれば皆目見当がつかないと言わざるを得なかった。




「作戦」

出撃前、小屋の日陰に張られた仮設テントにて臨時のブリーフィングが行われた。アラシュの傍らにはサクスがいる。せめてブリーフィングまでと強引にアラシュが引き止めたのである。そしてサクスは渋々ながらも折れた。

 オドグが壁に張られた地図や設計図を前に話し出す。

「我々がターゲットとする空中砲台はその名の通り、空中からの爆弾投下を目的とした戦略的兵器だ。垂直移動は水素発生器、水素は軽い分火を近づけると爆発する気体だ、それで調節出来るが、水平移動はその地点での気流に依存している為あまり小回りは効かない。最大の脅威はそれが地形を無視して移動出来る点、そして地上からの迎撃が困難な点である。今回の布陣としては、艦隊を近海で追い抜く程度の速度で展開しているらしい。接岸の支援も兼ねていると言ったところか。

 後、本作戦で使用するリョコウトカゲの操縦法だ。大まかには普通のトカゲと同じく、右は手綱を右に、左は手綱を左に引く。上昇は両手綱を引き、滑空は両脇に足を当てる。発信、着陸はどちらも首の両側を手で叩く。前述の通り全てのリョコウトカゲに目標までの道筋は教えてあるので、途中は特に操作しなくて良い。一応背中には鞍とベルトを着けてある。航空中もその上で寝られるはずだ。安眠は保障出来ないが。

 作戦について、は正直手詰まりだ。こちら側の戦力は我々の航空兵十人だが、敵の空中砲台は二百を裕に上回るという。航空兵一人で十は落としてくれないといけない計算になる。ただ、実際問題それは物理的に難しい。帝国側は前回の失敗、気球に下から花火を当てられて爆発したって間抜けだ、それ以来砲台の横にスペースドアーマーを装備したり、編隊間隔を多めに取ったりと迎撃対策をしている為、上空からの攻撃も些かしづらくなっている。そもそもリョコウトカゲの揚力は速度に比例するから、砲台の傍でホバリングする事は出来ない。またリョコウトカゲへの飛び乗りも緊急時以外は当てに出来ない。大量撃破の為には乗ったまま、擦れ違い様に事を為さねばならない訳だ」

 オドグは意見を待つように静まった。

「穴さえ開ければ良いなら、槍を使えば良いのでは」

 傍らのサクスに向かって小声で言う。

「なら自分で言え。そして自分で責任を取るんだ」

 サクスは無情に突き放す。

「意見が有るなら皆の前で言え」

 話し声を聞きつけたオドグが指名した。サクスがアラシュの横腹を小突く。渋々と、アラシュは発言する。

「槍を使った方が良いと思います」

沸いたように傭兵らの間に非難する声が上がった。

「槍は未熟な兵士の道具だ」「貴様はノメイル傭兵の品位を下げようとしているのか」「俺様のハルバードで十分だ」

予想してはいた。何年にも及ぶ訓練を受けたノメイル傭兵には、その技量を誇示する為に、槍でも柄頭を複数付けて多目的武器として使う者が多い。それだけ短期間で習得できる槍を使う事は自尊心の強い傭兵にとって屈辱なのだ。しかし、そこまで怒りを露にされると堪えた。

「それはどういう理由だ」

 オドグが理由を問う。

「帆に穴を開けさえすれば良いなら、繊維を切るよりも鋭い先端でその編目を広げた方が確実かと。それならハルバードや方天戟でも十分と言うかもしれませんが、刺突に柄頭は寧ろ邪魔かと」

「確かに一理ある。本部から人数分の槍を持ってこさせよう。そして、それの携帯は命令とする。従わなかった者は有無を言わさず除名する」

 オドグの発言に、傭兵らはアラシュの方を睨みつけた。また印象を悪くしてしまった。オドグが言うように、背に腹はかえられないのだが。

「なら、お前が先にやれ」「失敗したら、ただじゃおかない」「責任取れ」

 脅迫紛いの発言まで聞こえる。

「きっちり活躍して、見返してやれ」

 サクスの激励のみが私の味方だった。




「戦果」

結局、アラシュは最初にリョコウトカゲに乗せられ、槍を使う事の意義を証明する羽目になった。とは言え、自分の提案には自信があり、実戦でもその有用性は証明された。傭兵部隊は空中砲台を三分で全て撃墜させ、それに詰まれていた爆弾で下を通っていた帝国艦隊に多大な被害をもたらした。防衛戦がネーズル、トスキール側の圧勝に終わった事を上空で確認すると、トルカセニレに着陸する。既に着陸していた傭兵が、トスキール公王から称賛の言葉を貰っていた。

「君たちのおかげで、見ての通りコルトは無事だ。それにしても、見事な戦いぶりだった」

 光栄な事にも拘らず、その傭兵はかなり不躾に返答した。

「いえいえ、ノメイルの傭兵たるもの、任務の完全な遂行は絶対です。これからも有事にはノメイルの傭兵部隊を贔屓にしてください」

公王は気分を害するかと思ったが、その様子は見られない。身分相応に心の広いお方なのか、その顔には晴れたように明るい笑みを浮かべていた。


翌週、私はオドグにネーズル内で家を借りたいので良い物件は無いかと訊いた。仕事は全てノメイル国外で受けるとしても、そのブランクに仕事を待つ為には家が必要だった。個人的な依頼だから断られても仕方が無いと思っていたが、彼は快く今は使われていない公務員宅を紹介してくれた。

ソマン海峡に面した、手狭いながらも住み心地の良い家だった。


二年後、その家で人生最後の依頼を受け取った。

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