9 王太子の問い
灰簾宮。
灰銀色の壁に淡い光が滑る廊下を、アレクは静かに歩いていた。
ちょうどその角で、セドリックが部屋から出てきたところだった。
「こんにちは、リーベル卿」
穏やかに微笑むセドリックに、アレクも口元を和らげる。
「こんにちは。ヴァーミリオン殿は、ちょうど終わったところですか」
「えぇ。これから工廠に戻るところです」
セドリックの手には、重たげな金具のついた黒革のトランク。
アレクはその重量を一瞥で察し、眉を寄せた。
「……重そうですね。馬車まで私が持ちましょう」
「え? あぁ、いえ、大丈夫ですよ。いつも自分で運んでいますから」
「まだ約束の時刻まで時間がありますから」
セドリックは困ったように微笑んでから、小さく頷いた。
「では、お願いします」
二人は並んで歩き出す。
「ラインハルトさん、時々姿が見えなくなるのです。任務かと思っていたのですが……やはり、そちらにお邪魔していたりしませんか?」
セドリックは思わず吹き出した。
「えぇ。よくラボに来ています。週に一度は突然現れますよ。ふふ、元気な方ですよね」
「やはり、そうでしたか」
「第一騎士団訓練場と工廠は近いですから。……リーベル卿も来てくださって構いませんよ。静かで仕事もしやすい場所ですから」
「真に受けますよ? 本当にいいのですか?」
「ラインハルトさんの乱入があるかもしれませんが」
二人は同時に笑った。
灰簾宮の玄関を抜けると、門前には魔導工廠の黒い馬車が控えていた。
「セドリックさん……あ、いえ、ヴァーミリオン殿」
「セドリックで結構ですよ。アレク卿」
軽く眉を上げてそう言われ、アレクの作り物の微笑が少し崩れて素の表情がのぞく。
「……セドリック殿」
「はい」
アレクは少し迷い、ついに問いをこぼした。
「なぜ貴殿は……そのような立場にありながら、常に穏やかでいられるのです?」
「……」
セドリックはほんの刹那だけ驚いた後、柔らかく微笑んだ。
「僕から見ると、アレク卿こそ……
あれほど人目を集めながら、驕らず、曲がらず、常に真摯で穏やかな方に見えますが?」
アレクは、言葉を失った。
御者が出迎え、アレクの手からトランクを受け取る。
セドリックはいつもの柔らかな笑みで頭を下げた。
「アレク卿。ありがとうございました。またお会いしましょう」
「……セドリック殿」
黒い馬車はゆっくりと動き出す。
アレクはしばらく、その背を茫然と見つめていた。
---
ティーサロン前。白木に銀金具のついた高い扉の前には侍女ヴェラが待機していた。
「申し訳ありません。遅れましたか?」
「いえ。まだ時刻前です。事情も把握しておりますので、問題ありません」
抑えた声量なのに、よく通る低い声。
アレクは、ヴェラの声を聞いたのは初めてかもしれない。
ヴェラが扉を開け、アレクを通す。
アレクが胸に手を当てて礼をすると、エレノアはいつものようにしなやかに立ち上がり、右手を差し出した。
アレクは歩み寄って跪き、指先に口づける。
見上げた彼の瞳に、微かな微笑みが宿る。
エレノアはそのまま彼の手を掴むと、ぐいと立たせた。
「見てくれ」
二人並んで立ち、エレノアはノートを開いてアレクに見せた。
その頬はわずかに上気し、声は明るい。
「今日はセドリックが魔導兵装の腕部だけ持ってきてくれた。スケッチをとったんだ。……かっこいいだろう」
エレノアが楽しげに話す姿は珍しく、アレクの胸がわずかに痛んだ。
「あれは婚約者――ハルトマン嬢のために設計したらしいが、彼女は大柄なのか?
持たせてもらったが非常に重かった。腕部二つに脚部まで装着したら、私は動けまい」
「確かにハルトマン嬢は女性の中では上背がありますが、華奢ですよ。筋力はあるかもしれませんが……
その魔導兵装自体が操者の能力を底上げするので、起動中は軽く感じるでしょうね」
エレノアがスケッチから視線を上げる。
前髪に隠れた青紫の瞳が、真っ直ぐアレクを射抜いた。
「お前は魔導兵装を纏ったことがあるか?」
「あります。実戦ではありませんが、訓練では」
「そうか。どのタイプだ? セドリックから指導を受けたのか? どれほど動けた? 稼働時間は?」
「殿下。せめてリーベル卿に椅子を勧めてください」
音もなく背後に立っていたヴェラに諫められ、エレノアははっと口をつぐむ。
ノートを閉じ、気まずそうにテーブルに置いた。
「……取り乱して済まなかった。アレク、座ってくれ」
俯くエレノアを見て、アレクは思わず笑みを漏らす。
――だが、彼女の瞳は自分を見ない。
――その青紫の視線は、“魔導”と、その先にいるセドリックへ向けられている。
――まるで、透明人間になったようだ。
---
レオンハルトの執務室へ向かう途中、アレクは気まぐれに庭園沿いの回廊を歩いた。
季節の花々が競うように咲き、緑は隙なく刈り込まれている。
背の高い黒鉄製の魔導灯には、王城にのみ許される優美な装飾が施され、まだ灯りの入らぬ透明な灯器が陽光を返していた。
柔らかな風がアレクの頬を撫で、金の髪先を揺らす。
王城庭園は貴族にも開放されており、帰城途中の紳士淑女たちの姿が多い。
開かれた渡り廊下を歩くたび、アレクのブーツ音に応じるように囁き声が湧く。
「見て。美貌の騎士よ。……本当に美しいわ」
「先日、ベルゼブブ伯爵と一緒にいたらしいぞ?」
「ベルゼブブとは言い得て妙だ。あの分厚い眼鏡、まるでハエだ」
「魔導兵装で王家に取り入ろうとしているらしい」
「庶民の出で準男爵をもらった程度で調子に乗っている」
「ハルトマン伯爵家までたらし込んだとか。“伯爵”気取りの悪魔だな」
「今度は王女殿下を騙そうとしているんじゃないか?」
「美貌の騎士まで絡め取ったらしいぞ」
アレクの拳が、ぎゅ、と音を立てそうなほど握られる。
傾いた陽が白薔薇を赤く染め、甘い香りが濃く漂っていた。
――お前たちが……彼の何を知っている。
風に揺れた薔薇が、花片を零す。
アレクの碧の瞳の黒目がわずかに広がり、その影が深く落ちた。
---
レオンハルトの執務室。
高背椅子に腰掛けた王太子は、黒檀の机に肘を置いたまま、アレクを正面から見つめた。
「お前とセドリックは、仲がいいのか?」
机の金象嵌が夕陽を淡く照り返す。
「……悪くはないと思います」
質素な革椅子に浅く腰掛けたアレクは、王太子の意図を測りかね、穏やかな微笑の仮面を外せずにいる。
「セドリックとエレノアはどうだ? 気が合いそうか?」
「殿下ともよく話されているようです。ヴァーミリオン主任技師殿は穏やかな方ですから」
「何を話していた?」
「本日は、魔導兵装の腕部を殿下にお見せしたそうです」
「なるほど。うまくやっているようだ」
レオンハルトは軽く頷き、白銀の髪をかき上げる。
視線を一度机に落とし、再びアレクの瞳を捉えた。
「……で、お前はどうなんだ?」
「と、申しますと?」
「エレノアのどこが好きだ?」
「……え?」
アレクは言葉を失う。
――殿下はお支えする存在。
好き嫌いで測ったことなど……。
レオンハルトの口端が不敵に吊り上がる。
「王命の婚約は、家と血を結ぶための約定だ。
その外に心があろうと、本来は罪ではない。
恋人になるための許可証ではないのだから」
レオンハルトは少しだけ瞳を柔らげた。
「……だが、なってもいいのだ。
二人が互いを選ぶのなら、な」
王太子は指を組み直し、淡々と続けた。
「気を抜くな。
エレノアとセドリックは似ている。
アレク筋からセドリックに繋がるよう誘導したのは私だが……
別に横恋慕を期待したわけではない。彼には国が決めた婚約者がいる」
そして淡紫の瞳が、鋭くアレクを射抜く。
「自覚を持て。
エレノアの婚約者は、お前だ」
「……はい」
――エレノア殿下は俺を見ない。
――あんな“価値のある男”から視線を奪えるわけがない。
背後の窓から差す赤い陽が、ゆっくりと闇に沈む。
従者が灯した魔導ランプの青白い光が、アレクの震える拳の影を柔らかく覆い隠した。




