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番外編 灰簾宮の夜に


 侍女ヴェラは、思い出していた。


 アルトルミナ王国第三王女エレノアは、三歳になってすぐに乳母が解任され、灰簾宮かいれんきゅうに移された。

 つけられた使用人はオズワルド、シリル、ヴェラだけ。

 この当時、シリルとヴェラはまだ王城に勤め始めたばかりの未熟者であり、オズワルドがほぼ一人で仕切っていたような状態だった。


 王城から最も遠く、規模も小さく、使用人も僅か。

 第三王女が父王からどう扱われているかなど、誰の目から見ても明らかであった。


---


 灰簾宮に移ってまだ日も浅いそんなある日。


 陽も完全に落ちた頃、灰簾宮の裏口に装飾の一切無い使用人用の馬車がつけられた。


 人の訪れることのない離宮。

 灰簾宮には緊張が走った。


 すでに就寝していたエレノアをシリルに任せ、多少の護衛としての教育を受けていたヴェラと、執事であるオズワルドが対応することにした。


 粗末な馬車から降りてきたのは、子ども。


 大人用のフード付きの外套を纏っていた、当時十三歳だった王太子レオンハルト。

 白銀の髪を隠し、フードの隙間からわずかに覗く淡い紫の瞳は、鋭くオズワルドとヴェラを見つめた。


 彼の手に繋がれているのは、五歳のユリウス第二王子。

 さらに、十一歳のアレクシア第一王女とセシリア第二王女がレオンハルトの後から現れた。

 子どもたちを引き連れてきたのは軍務副卿コンラッド・エーレンベルク。


 彼らを慌ててサロンへ招き入れるが、王太子達は誰も席に座ることはなかった。


 子どもたちは、誰も声を上げない。まだ幼いユリウスでさえ、静かにレオンハルトのそばに佇んで、オズワルドとヴェラを観察するように眺めていた。


 レオンハルトが一歩、前に出る。


「エレノアに会わせろ」


 まだ声変わり前の高い声。

 言葉は鋭いが、嘆願に近い響き。


 ヴェラとオズワルドは一度だけ視線を交わした後、彼らに頭を下げた。


「ご案内いたします」


 オズワルドが先導し、ヴェラが最後につく。

 コンラッドはヴェラに並んで小さく呟いた。


「先触れを出すことさえ、ままならず。手間を掛けさせたな」

 

 ヴェラはちらと軍務副卿を見る。彼の視線は王太子の背中。使用人に頭を下げることなど許されない立場の男。

 

 灰簾宮の夜の廊下は、最低限の魔導ランプしか灯されておらず、闇に沈んでいた。

 彼らの足音が静かに廊下の先まで響いている。


 エレノアの寝室に入ると、控えていたシリルが驚いて目を見開き、慌てて頭を下げた。

 

 レオンハルト達は駆け出し、エレノアが眠っているベッドを囲んだ。

 小さな妹をそっと覗き込む。


「お兄様、ちゃんと生きてるわ」


 セシリアが小さくレオンハルトに言うと、彼は頷いた。


「顔色も良さそうよ」


 アレクシアが言うと、彼はまた大きく頷いた。


「……兄上」


 ユリウスが見上げながら言うと、彼はユリウスの銀髪をそっと撫でながら、片手で自分の顔を覆った。


「……良かっ……」


 声が震え、それ以上は言葉にならなかった。


 当時、王太子であるレオンハルトは王城に。他の三人の子どもたちは王城近くの子ども用の宮に全員が入っていた。

 エレノアだけが離れた灰簾宮に入れられたと聞き、彼女が“処分されたのでは”と疑いを持ったのだ。

 

 ヴェラ達は、静かに彼らを見つめた。


---


 その後も、彼らはたびたび灰簾宮を訪れていた。


 特にレオンハルトは、三日と空けずにやってくる。

 ユリウスが一緒のこともあれば、一人で来ることもあった。


 だが、大抵は夜だった。


 エレノアが起きていれば、彼はソファに腰掛け、妹を膝に乗せて本を読んでやる。


「エレノアのほっぺも、お手々も柔らかいね。とてもかわいい」


 レオンハルトが頬をつつくと、エレノアは笑い、その指をぎゅっと掴んだ。


「兄様が守ってあげるからね」


 彼がそっと抱き寄せると、エレノアは楽しそうに声を上げる。


「エレノアも、にーうぇを守ったげる」

「そうか。それは心強いな」


---


 ユリウスとエレノアで、レオンハルトの膝を取り合う日もあった。


 そんな時は、レオンハルトは笑いながら二人を膝に乗せる。


「ユリウスは、もう重たいなぁ」


 そう言いながら、二人を抱きしめた。


「守ってあげる。絶対、幸せにするから」


 ユリウスが先に抱きつき、エレノアも負けじと腕を伸ばす。


「兄上」

「にーうぇ!」


「エレノア。“にーうぇ”じゃないよ。“兄上”だ」

「にーうぇ!」


 レオンハルトは二人を抱いたまま、ふわりと笑った。


「まだ舌足らずなんだ。本人はちゃんと言ってるつもりなんだよ」


「エレノア、そうなの?」

「エレノアは、にーうぇってちゃんと言える」

「言えてないな」


 三人の笑い声が、静かな灰簾宮に溶けていった。


---


 レオンハルトと妹二人で訪れた時には、人形や様々な本が運び込まれた。


 だが、エレノアが手に取ったのは、いつも子ども向けの魔導の本だった。


「こ、このお人形も可愛いわよ?」

「ほら、このリボンも素敵でしょう?」


「やっ。嫌い」


 本を抱きしめたまま、エレノアはレオンハルトの背へと逃げ込む。


「ええ~」


 三人は顔を見合わせ、笑いながら「仕方ないな」と言って、エレノアを抱きしめた。


---


 灰簾宮の中は静かだったが、いつも穏やかだった。


 だが、そんな日々の中で、第一王女アレクシアと第二王女セシリアは、十五歳で嫁ぐこととなる。

 二人の祝宴は同日にまとめて行われ、彼女たちは静かにアルトルミナを発った。


 その夜も、レオンハルトは灰簾宮に来た。


 七歳になっていたエレノアは、もう膝に乗ることはなく、隣に寄り添うようにしてソファに座っていた。


「泣かないで。兄上」


 成人を目前にしたレオンハルトは、静かにエレノアを見下ろす。


「泣いてないよ。寂しいだけだ」


 エレノアが頬に手を伸ばすと、彼はその手を優しく包んだ。


「兄上、泣いてるじゃないか」


 レオンハルトは、かすかに笑う。


「……エレノアは、どんな人と結婚したい?」

「兄上」


 即答だった。


 一瞬、レオンハルトは目を見開いたが、すぐに小さく笑った。


「……それは、無理なんだよ」

「じゃあ、兄上みたいにきれいな人」


 真っすぐな視線に、彼はわずかに眉を寄せる。


「……」

「兄上みたいに、優しい人」


 その言葉に、王太子の瞳が、痛みを堪えるように細められた。


「私は、優しくない……。

 アレクシアとセシリアは、まだ十五歳だった。

 守れなかった……」


「兄上は、優しい。エレノア、大好きだもん」


 レオンハルトは顔を背け、片手で覆った。その肩が、わずかに震えている。


「兄上、もうすぐ成人なのに泣くのか」

「何歳になっても、泣いていいんだよ」

「そうか」


 エレノアは小さな腕で、兄を抱きしめた。


「兄上。大好きだよ」

 

---


 ヴェラは思い出していた。

 あの日、その光景を、静かに見守っていたことを。


 その夜も、そして――それから先も、ずっと、ヴェラは見守っていく。



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