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5 王女の願い、騎士の痛み


 アレクが部屋に足を踏み入れた瞬間、エレノアは待ち構えていたかのように立ち上がり、彼のもとへすっと歩み寄った。


 婚約者としての茶会。

 濃紺の騎士団制服に身を包んだアレクが跪こうとすると、エレノアはその肘を掴み、動きを静かに制した。


 今日も彼女は灰紫の控えめなドレス。

 長い前髪の隙間から、わずかに紅潮した頬が覗く。


「待っていたぞ、アレク。お前に聞きたいことがある」


 アレクは驚きを胸に押し込み、微笑みを崩さずに礼を取った。


「……ごきげんよう。エレノア王女殿下」


 だが彼女は挨拶を軽く受け流し、肘を掴んだままティーサロンへと引いていく。

 丸テーブルの上には、数冊の本が高く積まれていた。


「……お前は読んだことがあるか?」


 一番上の本を取り上げ、アレクに押しつけるように渡す。


 彼は礼儀正しく受け取り、表紙を見る。


 ――『はじめての魔導工学』

 ――著・セドリック・ヴァーミリオン


「セドリック・ヴァーミリオンという研究者を、お前は知っているか?」


 アレクはわずかに目を見開く。


 ――王立魔導工廠 第二実験棟プロメテウス・ラボ主任技師。

 ――魔導兵装研究の第一人者。


「著書は拝読しておりませんが、ヴァーミリオン主任技師については存じ上げています」


 エレノアがほっとしたように息を呑む。


「私は先日まで忘れていたが……あの方の婚約者は、第一騎士団団長の娘だったな」


「はい。団長もそうですが、婚約者様のお兄上であるラインハルト卿にも大変お世話に――」


 そこでエレノアがアレクの手を両手でぎゅっと掴んだ。


「紹介してほしい」


「……え?」


 エレノアの青紫の眼差しが、前髪の奥から真っ直ぐに突き刺さる。


「私は、彼の本を四冊ずつ持っている。

 読む用、飾る用、保管用、そして“いつか誰かに貸す用”だ。

 ――それほどあの方を尊敬している。

 生きているうちに会いたい技師ナンバーワンが彼なのだ。頼む、アレク。私は彼と話がしてみたい」


 その必死さに、アレクは小さく微笑む。

 手袋越しにも伝わる、熱を帯びた指先。


 本を抱えたまま跪き、そっとその細い指先に口づけた。


「殿下が望まれるなら……必ずや彼をお連れいたします」


 見上げた先で揺れる深い青紫。

 だがその光は、自分の方へ向けられたものではない。


 胸に小さな痛みが走る。

 それでもアレクは柔らかい微笑みを崩さない。


 エレノアは満足げに頷き、アレクの胸に抱えられた本をトンと指先で叩いた。


「下賜する」


「え……」


「“貸す用”のヴァーミリオン本を全部だ。婚約者だからな。全部やる」


 アレクは一瞬、困惑のあまり笑みを片方だけ崩す。

 侍女ヴェラと執事オズワルドに視線を向けると、二人ともそっと目を逸らした。


 ――(全て……魔導工学の専門書だ……)


「お前とも魔導の話ができたら楽しいだろうな」

「……はい。善処いたします」


 エレノアは満足したように身を翻し、ソファへ向かって歩き出す。


「さ、茶を飲もう」


 細く華奢な背中。届きそうで、届かない距離。

 アレクは静かに立ち上がり、猫脚の椅子へ腰掛けた。


 ヴェラが淹れた茶は、最高級の香りがした。

 だがアレクには、もはや味がわからない。


 ――苦い。

 ――殿下も、“俺”には興味を持ってくださらない。


 楽しげにページをめくるエレノアを前に、胸の奥にひとつ影が落ちた。


---


 早朝の走り込みを終え、汗を拭いながらアレクは、ベンチに座るラインハルトの前に静かに立った。


「ラインハルトさん……その……少しお話したいことがありまして。お時間をいただけますか」


 薄曇りの空の下、濃紺の第一騎士団制服が柔らかく光を返す。

 白金の髪は汗でわずかに束になり、彼の横顔に静かな陰影を落としていた。


 ラインハルトは豪快に短髪をかき上げ、爽やかに笑った。


「いいぞ!」


 そう言って、ぽんぽんと自分の隣を叩く。


「あ……いえ、その……できれば個室で」


 しかし彼はにこにこと、もう一度ぽんぽん。


 アレクは観念して隣に腰掛けた。

 膝の上で握った拳に、かすかな緊張が滲む。


「あの、ラインハルトさんはセドリック・ヴァーミリオン主任技師殿とはご面識がありますよね。

 王女殿下が……私的にお会いしたいと仰っていて――」


「おう! わかった!」


 話が終わるより先に、ラインハルトは勢いよく立ち上がった。

 そしてアレクの肩を掴むと、


「行くぞ!」


 そのまま全力で駆け出す。


「え、えっ!? ラインハルトさん!?」


 アレクも慌てて引きずられるようにして走った。


---


 たどり着いたのは、騎士団長室。

 ガレスは片腕で腕立て伏せをしている。


 ラインハルトとアレクは、執務机の前で直立した。


「父上! 第三王女殿下がセドリックと会いたいそうです!

 俺では判断できません! 紹介して問題ありませんか!?」


「問題なし!

 俺の方から灰簾宮に連絡して召喚状を出してもらう!

 セドリックに直接渡した方が驚かせずに済むだろう!」


「わかりました! お願いします!」


「あ、あの!」


 暴風のような会話に押されてアレクが声を上げると、ガレスは腕立て伏せをやめてアレクを見上げ、ラインハルトは笑顔のままぐっと距離を詰めてくる。


 アレクは手を胸に当て、小さく息を整えた。


「その召喚状……俺に届けさせていただけませんか」


「いいだろう! 届き次第アレクに渡す!」


 ガレスは再び腕立て伏せに戻り、ラインハルトは豪快に笑った。


「セドリックは良い奴だからな!

 きっとアレクも王女殿下も気に入るぞ!」


「そうだ! うちの婿(予定)は良い男だ!」


 アレクは白い歯を見せて朗らかに笑った。


 ――その笑みの奥で、胸のどこかが小さく軋んだ。



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