46 月下、翼は開かれる
月が出ていた。
燭台もいらないほどに、砦の石壁を青白く照らしている。
エレノアは物見台に立ち、平原を見下ろしていた。
闇の中、その広がりは湖面のように静かに月光を受け止めている。
風が、彼女の青銀の髪を揺らす。
エレノアは、ゆっくりと振り返った。
青紫の瞳が、背後に控えていたアレクを静かに捉える。
「アレク。屈んでくれるか?」
「……はい」
アレクはその場に跪き、顔を上げた。
彼女の背後には、欠けることのない満月が浮かんでいる。
「お前に、フロストギア隊――戦術指揮官のマントを授ける」
エレノアは腕に抱えていた布を、両手で広げた。
深い青紫。
前には、フロストギア隊の紋章が縫い付けられている。
急拵えの、だが確かな覚悟の証。
そのマントが、エレノアの手によって、そっとアレクの肩に掛けられた。
かすかな空気の動きが、アレクの頬を撫でる。
エレノアは腰を落とし、マントの前に触れる。
短いチェーンに手をかけた。
アレクは、息を止めて、それを待った。
「……ん?」
留め具を見つめたまま、エレノアの手が一瞬止まる。
「ふふ……。うまくできないな」
小さく笑って、彼女はもう一度、慎重に手を動かした。
布越しに伝わる、わずかな体温。
静かな呼吸。
――微かに、鎖が鳴る。
エレノアは小さく安堵の息を吐き、視線を上げた。
青紫と碧。
互いの瞳が、至近距離で交わる。
一瞬だけ、風が凪いだ。
「お前には……どうしても、私の手でこのマントを掛けてやりたかったのだ」
夜空を映したような彼女の瞳に、碧が映り込んでいる。
アレクは、膝の上で握った手に力を込めた。
――触れたい。
――触れられない。
彼は静かに視線を伏せ、深く頭を垂れた。
「……光栄です」
金の髪と、銀の髪が、
月光の下で、同じ風に揺れていた。
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翌朝。
空は、どこまでも澄み渡っていた。
雲は少なく、薄い筋となって高空を流れているだけ。
風は穏やかで、鳶が一声、高く鳴いた。
アルトルミナ第三王女が砦入りした――
その報が届いたヴァルハルト陣営は、にわかに騒然としていた。
金属が擦れ合う音。
魔導器具が発する青い光。
吐き出される灰色の蒸気が、前線陣中に薄い霞をつくる。
鳶の影が、地を滑るように横切った。
次の瞬間――
冷たい風が、戦士たちの頬を撫でた。
誰かが、はっとして空を見上げる。
――煌めき。
「――っ!!
避けろ!! スカーレット・ウィングだ!!」
爆撃音。
地面が抉れ、土砂が跳ね上がる。
怒号が飛び、戦士と技師が一斉に散開した。
上空から急降下して現れた赤い閃光が、
超低空で陣中を切り裂くように駆け抜ける。
ヴァルハルト側の砲撃が放たれた。
だが――
赤い機体はそれを嘲笑うかのように、ふわりと高度を上げる。
追いすがる砲弾は、虚しく空へと消えた。
――その瞬間。
別方向から、弾けるように現れた。
空に溶け込むグレーの魔導戦闘機。
五機一隊。
編隊を保ったまま、ヴァルハルト陣中へ降り注ぐ。
連続する爆発音。
ヴァルハルトの砲撃は、
空と同化するその機体に、ことごとく迎撃された。
肉眼では、目を凝らさなければ捉えられない。
スカーレット・ウィングが舞い上げた土埃に紛れ、
グレーの影は、空そのものに溶け込んでいく。
「アルトルミナの戦闘機だ!!」
「魔導兵装部隊、急げ!!」
「飛行隊は何をしている!!」
怒号が交錯する中、
また誰かが、反射的に空を仰いだ。
――もう、何も見えない。
スカーレット・ウィングも。
アルトルミナのグレーの戦闘機も。
だが。
この瞬間、確かに――
戦争の幕は、切って落とされた。
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フロストギア隊陣営、兵装陣地。
銀の魔鋼合金に陽の光が冷たく弾かれている。
大幅に人員を増やした魔導兵装部隊は、調整を整え、息を殺すようにして号令のかかる、その時を待っていた。
蹄の音。
部隊を前に、静かに立っていたアレクは、ふと、視線を向ける。
――ユリウス・アルトルミナ=ファルケンハイト。
エレノアの兄にして、鉄槍境界軍の総指揮官。
彼は背に一つにきつく結った髪を僅かに揺らしながら、音を立てずに馬から降り、アレクの横に並んだ。
アレクは目を伏せ、小さく頭を下げる。
「作戦は昨晩話したとおりだ。だが、ひと言だけ、やはり伝えておこうと思ってな」
ユリウスはアレクの真横に立つと、まっすぐに戦場を見つめる。
「お前は魔導部隊をうまく動かすことに集中してくれればいい。
あとは私が拾う。
うまくやれよ、“義弟”」
口の端を歪め、ユリウスは挑発的に笑った。
アレクはそれを見て、口角を僅かに上げる。
――ユリウス殿下はまだ二十二歳だったはずだ。
「王太子と敵対すれば、国を割りかねない男」になるだけの適性がある。
レオンハルト殿下が国王から隠したがる理由が、分かるというものだ。
「はい。胸を借りるつもりで全力を尽くします」
ユリウスは片眉をあげて、視線だけアレクに向ける。
静かに風が通り抜けていく。
彼はそのまま何も言わずに馬にまたがると、小さく手をあげた。そして颯爽と鉄槍境界軍の陣へ戻っていく。
アレクはその背を黙って見送った。
フロストギア隊のうち、魔導兵装部隊は、
第一小隊“ヴァレリア式魔導兵装部隊”、
第二小隊“兵器装備型の小型魔導兵装部隊”、
第三小隊“魔導飛行隊”、
第四小隊“迎撃・対魔導隊”、
第五小隊“支援・展開大型魔導装置周辺警護隊”からなる。
三から五までの部隊はすでにそれぞれの持ち場につき、第一、第二小隊が今、静かに待機している。
空はよく晴れているのに、霧が出てきたようだ。
これが、凶と出るか吉と出るか。
アレクはそっと、耳の魔導通信機に手を当てた。
静かに、出陣の刻を待つ。
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フロストギア隊陣営、本陣。
エレノアの灰銀のマントが、一度大きく翻った。
高台に設置された本陣から、青紫の瞳が静かに戦場を見渡す。
スカーレット・ウィングと、フロストギア隊飛行隊が見事に撹乱し、ヴァルハルト陣に陣形を取らせずにいる。
「セドリック、時間だ。
やってくれ」
「はい」
隣に立つセドリックに指示を出す。
エレノアの思想を戦場の言語へと翻訳する者は、常に彼女の傍にいる必要があった。
青紫のロングコートの裾を僅かに揺らし、彼は技師区画に早歩きで向かうと声を張り上げる。
「広域魔導遮断フィールドおよび、魔導位相歪曲砲の準備に入ってください!」
「調整済みです! すぐにカウントに入れます!」
セドリックはエレノアを見る。
彼女は短く頷いた。
「こちら魔導統括。遮断フィールドおよび魔導位相歪曲砲の展開カウントダウン開始。
味方各機は位相同調シールドを展開してください」
『こちら兵装陣。了解』
『スカーレット・ウィング、了解』
『飛行隊、了解』
「カウント開始します!」
技師の声が陣を駆け抜ける。
「五、四、三、二、――展開!」
重低音の振動が地を鋭く這っていく。
魔力感知能力の高い者は、歯を食いしばり、一瞬の衝撃を耐えていた。
飛行隊による撹乱の上、さらなる魔導遮断。
ヴァルハルト陣営は、戦場に立つことさえままならないだろう。
短期決戦をエレノアは目指していた。
人の被害を最小限に抑えて、勝利に持ち込む。
「魔導兵装部隊! 出撃!」
戦場を指差し、アレクが声を上げた。
鬨の声が上がる。
――それは、誰かに与えられた時代ではなく、
自ら掴み取る未来への第一歩だった。




