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45 決戦の地へ



 王城、王太子の執務室。


 影の輪郭が、深い赤茶の寄木細工の床に静かに伸びていた。

 丹念に磨かれてはいるが、そこかしこに刻まれた細かな傷がある。忙しなく行き交う人々が残していった、時間の痕跡だった。


 濃紺の壁布と白漆喰を組み合わせた壁。

 並べられた各国の地図、軍事配置図、魔導技術に関する資料。

 王家の紋章が控えめに金象嵌された黒壇の大きな執務机の上には、整理されきらない書類の束が積み上がり、冷め切ったコーヒーと、フォルダから溢れ出した紙片が無造作に置かれている。


 飾り立てられた権威の部屋ではない。

 だが、そのすべてが雄弁に語っていた。


 ――ここが、この国を動かす中枢であることを。


 藍のベルベットに金縁を施した高背椅子に腰掛けた王太子レオンハルトは、幻想的な白銀の髪をわずかに揺らしながら、前に立つ男を見ていた。


 軍務卿コンラッド・エーレンベルク。


 彼は差し出された書類を静かに受け取り、素早く目を走らせると、脇に抱えた。


「――拝領いたしました」


 わずかな沈黙。


「これで……決着がつくといいのですが」


 レオンハルトは、その言葉を聞いて、面白そうに小さく笑った。


「つくさ。エレノアが、そう断言したんだから」

「……そうですな」


 王太子の脇には、宰相グラハム・アーデルハイドが静かに控えている。

 その口元には、わずかな微笑みが浮かんでいた。


 どこかで、歯車の回る音がする。

 乱れることなく、絶え間なく、静かに。


 この部屋から、すべてが動き出す。


---


 伝統を守るために残された回廊。


 光と影が交差するその空間には、いつものように噂話がさざめいていた。


「王女と魔導兵装部隊が、今朝王都を発ったそうだ」


「今回の決裁は、すべて王太子殿下がなされたとか……」


「即位も近いのだろうな」


「――口を慎め」


 行き交う貴族たちの足音が、高く、乾いた音を立てて響く。


 壁に並ぶ歴代の王たちの肖像画は、何も語らず、ただ静かにそれらを見下ろしていた。


 時は近い。


 ――時代が、変わるその時が。


---


 辺境グラウベルト、機関車格納庫。


 巨獣のような唸りを上げて滑り込んできた、黒い魔鋼合金マナスチールの車体が、冷たい光沢を放って停止した。

 巨大な格納庫に白い霧が立ち込め、側面に刻まれた王国紋章が鈍く光を返す。

 車体上部を走る圧力調整用の魔力導管に、青い光が脈打つように流れ――やがて、静かに呼吸を吐き出すように脈動が止まった。


 軋む音とともに、いくつもの扉が同時に開く。

 技師と戦士たちが次々と降り立ち、鉄道職員が駆け、荷が手際よく運び出されていった。


 エレノアも、アレクの手を取り、軽くステップを踏んで辺境の地に降り立つ。


 グラウベルト特有の乾いた風の匂いが、蒸気に混ざって鼻を打った。

 高く結い上げた淡い青銀の髪が揺れ、青紫の瞳が、格納庫の大窓の向こうに広がる灰色の空を捉える。


「戻ってきたな」


 不安定な風の音。

 王都のように魔導の煙を吐き出す黒い尖塔群は、ここにはない。


 規律正しいブーツ音が近づき、エレノアは振り返った。


 黒い機関車上級技師の制服に身を包んだ、クラリッサ・ホルン。

 彼女はエレノアの前まで来ると、深く頭を下げる。


「クラリッサ。王都からここまで、数時間だ。

 短期間で、よくここまで速度を上げたな。正直、驚いている」


「ありがとうございます。殿下のご配慮のおかげです」


 エレノアは片眉を上げ、クラリッサの灰青の瞳をまっすぐ見据えた。


「お前たちの力だ。誇れ」


 クラリッサの口角が、はっきりと上がる。


「……はい。

 ――殿下。第二便にて、補充用の弾丸と魔石、魔導兵装を輸送いたします」

「頼んだ」


 彼女は再び一礼し、踵を返すと、セドリックを見つけて打ち合わせを始めた。


 セドリックは、いつもの魔導工廠上級技師の濃灰のコートではなく、深い青紫のロングコートを纏っている。

 急拵えで仕立てた、魔導先進戦術班《フロストギア隊》の制服だ。

 胸元には、六角形の魔導結晶と、氷結を思わせる歯車状の円環、そしてわずかに欠けた輪――

 未完成であり、進化の途中にある魔導技術を象徴する紋章が縫い付けられていた。


 全員分の制服を一から整える時間はなかった。


 技師たちは工廠の作業服に紋章を縫い付けただけ。

 戦士たちも、正規軍の深緑の戦闘服から金の肩章を外し、青みがかった銀の肩章と胸元の紋章を付けただけだ。


 きちんと整えられたのは、

 戦術指揮官アレクの戦場用マントと、

 魔導統括官セドリックのロングコートだけ。


 ――でも、それで十分だった。


 急拵えで、少しちぐはぐな装い。

 だがそれは、新しい時代の、新しい部隊が背負う覚悟の証でもあった。


 エレノアは、それを誇りに思う。


「殿下」


 ヴェラに声をかけられ、視線を向けると、ヘルマンとアメリアがこちらへ歩いてくる。


「お前たちは王都にいるはずでは?」


 二人は揃って一礼し、ヘルマンが片眉を上げた。


「ここで戦況を見ながら制御します。制御盤も、こちらに用意しました」

 

 アメリアも笑顔で頷く。


「頼もしいな」

「ですので、ご挨拶に伺いました」

「ありがとう。共に頑張ろう」


 二人は再び頭を下げ、技師たちのもとへ向かっていった。

 打ち合わせを終えたセドリックが、エレノアの隣に立つ。


「今のところ、順調ですね」


 エレノアは頷き、視線を交わす。


 かつては書物の中でしか知らなかった、アルトルミナ魔導研究の頂点。

 その男が、今、自分の部隊の柱として隣に立っている。


 くすぐったく、誇らしい、不思議な感情が胸に浮かぶ。


 次に、エレノアはアレクを見上げた。

 優しく微笑まれ、頬がわずかに熱を帯びる。

 

 婚約が整うまで、彼のことは知らなかった。

 ――だが、今では彼の存在は、計り知れないほど大きい。


 エレノアは一度、瞳を伏せ、そして格納庫の外へ視線を向けた。


 そこには、鉄槍境界軍の馬車がずらりと並んでいる。

 ダークブラウン。

 辺境の色。戦場の色。


「これで決する」


 エレノアは、前を見据えた。


「いくぞ」


 彼女が歩き出し、アレクとセドリックが静かにその背に従う。


 時代が、動く。

 最後の戦が、今、始まろうとしていた。



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