44 誓いと沈黙
金と象牙の装飾が、朝の光を受けて上品にきらめいていた。
白大理石の床に、エレノアの靴音が澄んで響く。
回廊に並ぶ王族の肖像画、大タペストリー。その向こう側に隠された魔導配管と蒸気設備を思い浮かべ、彼女はわずかに口角を上げた。
もう、瞳を隠すことも、地味なドレスを纏うこともない。
着飾ることに興味があるわけではないが、選ばれた装いは簡潔で、品があり、よく似合っていた。
そして今、エレノアは堂々と王城を歩いている。
レオンハルトの執務室へ向かうために。
もっとも、灰簾宮の外へ出る際には、軍務卿の手配した護衛が複数随行していた。
「おや」
向こうから声がかかる。
黒い艶を帯びたコートを纏ったルキウス・ヴァルマーだった。
エレノアが足を止めると、彼は優雅に歩み寄り、周囲の貴族たちに見せつけるように丁寧な礼を取る。
「王女殿下に、ご挨拶申し上げます」
「ルキウス。先ほど、お前の噂を聞いたぞ」
彼は穏やかに眉を上げた。
「ほう」
「会議でお前の顔をよく見る、と。中立派だと思っていたのに、とな」
エレノアも口角を上げ、彼を見上げる。
「私はただ、“勝ちそうな未来”に投資しているだけです」
「そうか」
「それに――アークメル王国が“観測を強めている”そうですよ」
「あそこは魔導大国だからな」
「ええ」
「ではな」
「はい。ご機嫌よう」
エレノアが再び歩き出す。
半歩後ろに控えていたアレクとすれ違う瞬間、ルキウスはわずかに距離を詰め、低く囁いた。
『――この名、存分に使っていただきたい』
アレクが視線を向けると、ルキウスはすでに一歩退き、静かに頭を下げていた。
---
レオンハルトの執務室。
エレノアが入室すると、王太子は席を立った。
机の上に積み上げられた書類は、以前にも増して雑然としている。
「エレノア」
「兄上」
「報告は受けている。だが――お前がここへ来ること自体に意味がある」
「分かっている」
レオンハルトは机にもたれるように立ち、腕を組んで妹を見つめた。
「順調か?」
エレノアは勧められた椅子に腰を下ろし、足を組む。
「クラリッサの高速魔導機関車。
ヘルマンの魔導ネットワーク。
ルカによる飛行隊の育成。
セドリックの新型魔導兵器。
そして、アレク指揮下の魔導兵装部隊」
一つずつ、確かめるように。
「すべて、整いつつある。
第三戦の開戦も視野に入れている」
「そうか」
レオンハルトは机の上から一枚の書類を取り上げ、エレノアに差し出した。
「名を与えよう。お前の部隊に」
紙が、かすかな音を立てる。
「――アルトルミナ魔導創製局。
魔導先進戦術班フロストギア隊」
エレノアはそれを受け取り、息を呑んだ。
「もう、私名義ではない。
お前の部隊だ」
彼女はゆっくりと立ち上がり、兄を見上げる。
瞳が、わずかに潤んだ。
レオンハルトが両手を広げると、エレノアは迷いなくその胸に飛び込んだ。
「兄上」
「あんなに小さかった妹が……大きくなったものだ」
静かな声。
「これでもう、以前ほどは守ってやれない」
「……兄上には、散々守ってもらった」
レオンハルトは彼女の髪をそっと撫で、視線を壁際へ向けた。
そこに立つ、金髪の騎士。
アレクは胸に手を当て、何も言わず、静かに頭を下げた。
---
灰簾宮、ティーサロン。
エレノアは静かにカップを置いた。
「魔導先進戦術班フロストギア隊……かっこいいな」
頬をわずかに染め、嬉しそうに笑う。
その横顔を、アレクは目を細めて見つめていた。
「エレノア様、良かったですね」
「うん」
すみれ色の絹壁に夕の赤が差し込み、やがてそれは青みを帯びていく。
アレクがその移ろいを見ていると、エレノアも同じ方向へ視線を向けた。
「……そろそろ時間か」
「そのようですね」
アレクは静かに立ち上がり、改めて彼女の前に立った。
「……エレノア様」
「アレク?」
差し出された手に、エレノアは迷いなく自分の手を重ねる。
「少し、お時間をいただけませんか」
部屋の中央へと彼女を導き、アレクはゆっくりと跪いた。
夜の青に沈む室内へ、月光が差し込む。
衣擦れの音さえ、ひどく遠くに感じられた。
アレクは顔を上げ、エレノアを見つめる。
「エレノア様。
どうか――私の、貴女への生涯の忠誠を、受け取ってはいただけないでしょうか」
澄んだ声が、静かに落ちる。
碧い瞳に映るのは、ただ一人。
「騎士として、伴侶として。
生涯、貴女に侍り、守り、支えたい。
貴女の築く未来を――私に、お与えくださいませんか」
エレノアは、呆然と彼を見つめていた。
眉が寄り、青紫の瞳がわずかに潤む。
彼女は手を伸ばし、アレクの頬に触れようとして――寸前で、その手を引いた。
「……アレク」
代わりに、彼の片方の肩へ両手を重ね、そっと額を預ける。
呼吸が触れ合うほどの距離。
淡い青銀の髪が、彼の頬をかすめた。
「アレク……お前は有能だ」
震えを含んだ声。
「我が国が誇る“蒼輪騎士団”の名に、恥じぬ騎士だ」
アレクは何も言わず、その言葉を受け止める。
「私は……お前の忠誠を受けるに値するだろうか?
お前の才能を、無駄にしてしまうのではないか?
私では、お前を……幸せにできないのではないか?」
腕を伸ばせば、抱きしめることができる。
だが――触れてはならない。
伏せられた瞳が潤んでいることも、
肩に置かれた手が、わずかに震えていることも、
彼には、痛いほど分かっていた。
それでも、アレクは彼女を抱きしめない。
彼は“騎士”であり、
その忠誠を差し出した今、この距離を越えてはならないと知っている。
そして、彼は“婚約者”ではあるが、“婚約者”でしかないことも、知っている。
アレクは顔をそらすように、唇をかみしめた。
白い月が、二人を等しく照らしていた。




