42 背を預ける夜
本当にそれは偶然だった。
アークメル王国から帰国したセドリック・ヴァーミリオンは、自室となるラボで、報告された王城の点検書類をたまたま見直していた。
彼自身が王城の魔導器具の管理責任者のわけではないが、工廠の主任技師である以上報告は入る。
その書類の中に、灰簾宮の点検書類が紛れ込んでいた。
工廠内部に、セドリックが灰簾宮に出入りしていることを知らない人間はいない。灰簾宮絡みであれば、必ず別途報告が上がるはずだった。
たった一枚の書類。
しかも、“経年劣化”が原因の、大した不具合でもない点検結果。
セドリックは顎に手をやる。
――微かな胸騒ぎ。
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アレクが勤務を終えて、灰簾宮の与えられた部屋に戻ると、扉の前にシリルとセドリックが立っていた。
夜間、廊下には殆ど灯は灯されていない。
シリルはアレクを認めると、静かに頭を下げ、
「それでは、おやすみなさいませ」
と告げて去っていった。
アレクはセドリックと向き合う。
「来るとは聞いていたけど、こんな時間に?」
セドリックは微笑みながら扉を指さす。
「部屋に入れてもらえませんか? 声が響きます」
アレクは扉を開けて、セドリックを先に中に入れた。
セドリックは当たり前のように魔導ランプに明かりをつけている。
アレクの部屋は、すぐ駆けつけられるようにとエレノアの部屋には近いが、他の使用人と同じく、ベッドが一つに机と椅子が一つずつあるだけの狭い部屋だ。
アレクは剣架にサーベルを掛け、鎧を外し、制服のジャケットを脱ぐと、ベッドの端に腰掛けてセドリックに椅子を譲った。
「セドリック。こんな時間にどうした? しかも裏口から入ったんだろう?」
きょとんとセドリックがアレクを見つめる。
「……。アレクと飲みたかったのです」
手土産を掲げた。ワインの小瓶と高級茶葉の瓶。
「……。そうか」
「敬語はやめたんですね」
今度はアレクがきょとんとセドリックを見る。
「君には背を預けられると思って。だめかな」
一瞬驚いた後、セドリックはいつもの穏やかな表情で笑った。
「ふふ。いいですよ。
ガードが硬いんだか、緩いんだか……。不思議な人ですね」
「どういう意味?」
「ワインと紅茶、どちらがお好みですか?」
「無視?」
「ワインと紅茶」
「……ワインで」
セドリックは、どこかからか引っ張り出してきたグラスにワインを注ごうとして、やめた。
「……その前に確認したいことがあるんです」
「確認?」
ボトルが机に置かれる音が、コトンと落ちる。
セドリックは椅子に座り直し、アレクをまっすぐに見た。
「先日、灰簾宮に魔導器具の点検が入りましたか?」
アレクは眉をひそめ、少しだけ座る位置を変えてセドリックに寄る。
「入った。
魔導ランプの光が僅かに不安定で、エレノア様の部屋の暖炉周りの壁から、ほんの小さな異音がなっていた。
それで点検してもらったが、問題ないと言われた」
「その場所を僕に見せてもらっても?」
アレクは頷く。
「むしろ君に見てほしい。
セドリックも、何か感じたのか?」
セドリックは小さく息を吐いた。
「灰簾宮に点検が入れば、必ず僕の耳に入るはずです。でも、今回それがなかった。
僕は国外に出ていました。点検内容も大げさなものではなかった。
だから、わざわざ報告しなかっただけかもしれません。
でも……、妙に気になってしまって」
「行こう。ついてきて」
アレクは立ち上がると、もう一度ジャケットの袖に腕を通し、サーベルを手に取る。
セドリックは工具の入った鞄を持ち上げると、静かに彼について部屋を出ていった。
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夜間の静かな再点検の結果。
セドリックは、極小の破片を見つけた。
大したものではない。だが、暴発のリスクにはなりうるものだ。
部屋に戻り、改めて、グラスにワインが注がれる。
「工廠にまで魔導反対派の手が伸びているのか、単純に見落としたのか。
判断できませんね」
アレクはセドリックからグラスを受け取った。
「……そうだな」
グラスを軽く当て合い、ワインを飲む。
部屋にはじんわりと、ランプの明かりが落ちている。
何もない部屋。
窓の外から聞こえてくる蒸気の音だけが、漂っていた。
「次、アレクが違和感を覚えたら、直接僕を呼んでください」
「そうする」
ふと、アレクがセドリックの翡翠の瞳を見つめた。
「なんです?」
「セドリックってすごく大人っぽいけど、二十五なんだよな。俺と同い年」
「そうですよ?」
「あれ? 知ってた?」
「知ってましたけど……。
貴方も僕を七十過ぎてるとでも思ってました?」
アレクは吹き出した。
「ふっ……。さすがに思ってないけど、エレノア様にそう言われたのが、相当ショックだったんだな」
アレクは無邪気に笑い、セドリックはうんざりとそれを見ていた。
ひとしきり笑うと、アレクは少しだけ目を細めてセドリックを見る。
「……同い年なのに、落ち着いていて、穏やかで、実力もあって、国が絶対に手放したくないと思ってる。
――そんな君を、俺はやっぱり羨ましくてたまらない」
「何を言うのです」
「エレノア様だって、俺といるより、君といる方が楽しそうだ」
セドリックは小さく息を吐くと、アレクの隣に座り直す。
「アレクはカッコいいですよ。
迷わず剣を取れる。貴方の剣技には惚れ惚れします。判断も正確だ。
――それに、お気づきではないのですか?
殿下は、何かあった時、嬉しい時、困った時に、視線でいつもアレクを探しているんです」
「え……?」
「貴方の最大の欠点は、その自信の無さですね」
大げさにため息をつくと、セドリックは立ち上がって、椅子にかけていたコートを羽織る。
「帰るのか?」
「アレクは明日も早いでしょう?」
「外は真っ暗だぞ。
セドリックも安全な立場ではないだろう?」
セドリックは小さく首を傾げた。
「大丈夫です。僕にもどうやら護衛の方がついているみたいなので」
「じゃ、せめて裏口まで」
アレクが慌てて立ち上がる。
「……ではよろしくお願いします」
「君は敬語を崩さないんだな」
「僕はこういう人間なんです」
「……そうか」
灰簾宮の夜は、静かに更けていく。




