40 灰簾宮に忍ぶ影
灰簾宮。
廊下を歩いている時、ふとアレクは壁を見た。立ち止まり、備え付けの魔導ランプに手をかざす。
「どうされました?」
隣を歩いていたシリルが声をかけるが、アレクはほんの少しだけ首を傾げた。
「光が、僅かに不安定ではありませんか?」
「そうですか?」
シリルも手をかざし、ランプに手を触れる。彼は小さく笑った。
「私には分かりませんね。
工廠の技師に点検依頼をかけましょうか」
「そうですね。念のため」
「承知いたしました」
二人はまた歩き出し、エレノアの私室の扉の前で別れた。
アレクがノックをすると、すぐにヴェラが扉を開ける。
週に一度の“婚約者”としての茶会。
アレクが専属護衛となっても、これは基本的には継続して行われていた。
ただし、ここ最近は戦支度で忙しくしていたため、久しぶりの茶会でもある。
ティーサロンに入ると、ダマスク柄のソファに腰掛けていたエレノアが立ち上がり、数歩だけアレクに歩み寄る。
そして右手を差し出す。
アレクも彼女に歩み寄り、跪いて、その指先に短く口づけをした。
二人のいつもの儀式。
アレクが顔を上げると、前髪を髪飾りで留めたエレノアと視線が交わる。
いつもはここで終わる。
だが、エレノアはふと、指先をアレクの顎に添えた。
彼女の青紫の瞳が、ゆっくりと確認するようにアレクの輪郭をたどっていく。
その指先が頬に触れかけ、だが彼女はハッとしたように手を引いた。
アレクは不思議に思いながらも、何も言わずに立ち上がる。
王女の宙に浮いたままの指先をそっと取り、微笑みを浮かべ、ソファまで彼女を導いた。
エレノアが黙って座るのを見届けると、自分はテーブルの向かいの椅子に腰を下ろす。
ヴェラが静かに茶器を二人の前に並べた。
「少し、久しぶりですね」
「……うん」
アレクの視線が、エレノアから暖炉の方へ流れる。
「どうした」
アレクは視線を動かさないまま、小さく手を挙げた。
「……申し訳ありません。少々確認させていただきたい」
立ち上がり、壁に寄る。
手を添え、耳を当てた。僅かに眉が寄る。
「ヴェラ殿」
壁に控えていたヴェラが歩み寄り、アレクが耳を当てていたあたりに、同じように耳を当てる。
「微かに異音がしますね」
アレクは小さく頷く。
「魔導配管でしょうか」
「技師を呼びます」
「いえ。先ほどシリルさんと話して、既に呼ぶことになっています。配管も見てもらうことにしましょう」
「はい」
アレクはまた、席に戻った。
「異音?」
エレノアが問いかけると、アレクは微笑んで頷く。
「本当に、ごく小さな音ですが。
……欲を言えば、人に見せるならセドリックに見てもらいたいのですが」
エレノアは眉を下げて、少しだけ前髪をいじった。
「セドリックは今日明日はいない。アークメル王国へ行っているのだ」
カップを持ち上げたアレクの手が止まる。
「……アークメルへ?」
「そうだ。あそこにはセドリックの師がいるからな。
ほら、あれだ。“極秘設計図”のお礼を“私的訪問”の形でしにいったんだ。ついでに新型についても相談してくると」
「……なるほど」
一口、茶を飲む。
アレクの視線がエレノアの前髪にとまる。先ほどいじったせいで一房落ちてしまっていた。
カップを置くと、アレクは自然に手を伸ばし、落ちた前髪を彼女の耳にかける。
指先が彼女の耳に触れた途端、エレノアの頬が赤く染まった。
驚いてアレクは手を引く。
「すみません……」
「いや……大丈夫だ」
エレノアがそっとアレクを伺うようにして見、アレクは眉を下げて微笑んだ。
その表情に、エレノアは安心するように小さく笑った。
「ふふ。こうして、二人で茶を飲むのは本当に久々だな」
「そうですね」
「“その笑顔は本物か?”」
エレノアがニヤリと笑って言うと、アレクは眉をしかめた。
「いやだな。本物ですよ」
「あはは。そうだといいけどな」
「本物ですってば」
エレノアの笑い声が、いつもは静かな灰簾宮を華やかせた。
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夕刻。
シリルが手配した工廠の技師が点検に訪れ、シリルとアレクで立ち会った。
しかし技師達は調査した後、
「経年劣化ですね」
「問題ありません」
とだけ述べて帰っていった。
「良かったですね」
シリルが穏やかに言う。
アレクは返事をするまで、ほんの一瞬だけ間を置いた。
「……そうですね」
シリルにはそう返した。
だが、僅かな違和感が彼の中に、まだ燻っている。
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夜。
灰簾宮の内部回廊をヴェラは歩いていた。
手には茶器類。
エレノアの就寝前の茶の片付け。いつもの仕事だ。
回廊の魔導灯は最低限の数だけが灯され、足元には闇が不規則に転がっていた。
背筋に気配を感じて、ヴェラが振り返った。
剣を抜く音はしなかった。
休憩に入っていたはずのアレクが、彼女の背後に背を向けて立ち、
逆袈裟切りを、一振りだけ。
――ドサッ。
重い音。
ヴェラは、息を吐いた。
「レオンハルト殿下に報告を」
「……はい」
薄闇の中、アレクは耳を澄ませる。
魔導配管を流れる魔導動力。
吐き出される蒸気の音。
いつもの音。
――だが、説明できない引っかかりが拭いきれない。




