4 美貌の騎士の影
朝六時、遠くの鐘楼が低く鳴り、静かな空気を震わせた。
淡く射す朝陽の中、真白なシャツに濃紺のジャケットを羽織る。肩と胸に仕込まれた魔導繊維が、身に着けた瞬間ひやりと肌を撫でた。
左上から右下へ流れる斜め合わせには銀糸の縁取り。肩章には“蒼輪騎士団”を示す青銀のエンブレムプレート。
呼吸と衣擦れだけが落ちる、清潔で質素な部屋。
アレクは背の中ほどまで伸ばした髪を、手早く編み込んで後ろへ流した。
硬い寝台。装飾の少ない紺のカーテン。飾り気のないランプ。
一枚の絵も飾られていない、静寂のための部屋。
鏡の前に立ち、一度深く息を吸う。
黒革のホルスターを腰に巻き、銀の剣架からサーベルを手に取る。
鍔には上位騎士の証、“蒼輪”の透かし彫り。アレクはその模様を指先でそっとなぞり、短く祈るように額へ当てた。
ホルスターへ刃を収め、黒革ブーツで床を軽く蹴る。
こうして、騎士アレク・フォン・リーベルの一日が始まる。
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第一騎士団訓練場。
朝の冷たい空気の中、剣戟の音が鋭くこだまする。
二人一組の打ち合いが砂塵を巻き上げ、練度の高い動きが連続していく。
第一騎士団“蒼輪騎士団”。
王族・国家最高機密・国宝級設備を守る精鋭。
専属近衛に次ぐ“第二防衛線”として、王城すべての要を担う存在。
“蒼輪”とは、王を中心に円陣を敷いて守ることから名づけられた。
蒼は忠誠、輪は守護――その象徴を刻んだ団旗が、朝陽に青銀の光を弾く。
その旗の下、アレクは今日も黄色い声援を一身に浴びていた。
剛腕のガレス団長とは対照的に、アレクの剣筋はしなやかで、鋭い。
ひと振りごとに金の髪が白く光を返し、そのたびに見学席の女性たちが歓声を上げた。
だが今日は、その歓声にどこか悲壮感が混じっている。
「アレク様ぁ! ご結婚だなんて……!」
「アレク様は結婚されても、皆のアレク様ですわ!」
涙声の黄色い悲鳴が、訓練場に妙な熱気を生んでいた。
打ち合いを終え礼を交わすと、アレクは見学席へ軽く手を振る。
阿鼻叫喚。悲鳴と歓声が混じり、もはや訓練場の熱量とは思えない。
アレクは困ったように眉を下げ、軽く頭を下げた。
すぐさま同僚が駆け寄り、肩を叩く。
「すごい騒ぎだな!」
「しかし王女殿下との婚約とか、さすがリーベル卿だよ!」
アレクは白い歯を見せ、いつもの柔らかな笑みを浮かべた。
「ありがとう。でも、まだ公式に発表されていないだろう? よくここまで広まったものだ」
「広まるさ。俺たちの誇りだからな!」
朝の風が、仲間たちの笑い声をさらっていった。
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「良かったなぁ! アレク!」
勢いよく背中を叩かれ、アレクは思わず盆を落としかけた。
胸を撫でおろしながら振り返ると、にこやかに笑った。
「ラインハルトさん!」
食堂で、アレクの背後に立っていたのは、ラインハルト・ハルトマン。
騎士団長ガレスの息子にして伯爵家嫡男、“第一騎士団の暴風”の異名を持つ男だ。
鍛え抜かれた体躯に騎士団服が軋みそうで、アレクより頭ひとつ分高い。
だがその巨躯に似合わず、悪意とは無縁の気持ちの良い男でもある。
二人は並んで席に座り、水の杯を掲げ合った。
「王女殿下との婚約、おめでとう!」
「ありがとうございます」
ラインハルトは金髪の頭をかきながら、少し照れて声を潜めた。
「実は……俺も、婚約が整ったんだよ」
アレクは驚くことなく、むしろ朗らかに微笑む。
「ああ、魔導機関車のホルン主任技師ですよね。おめでとうございます」
ラインハルトは椅子ごと揺れるほど驚いた。
「え!? なんで知ってんの!? まだ誰にも……!」
アレクは堪えきれず吹き出す。
「“第一騎士団の暴風”の噂は、その名の通り暴風のように広がりますから」
「……そうなのか」
アレクがにっこりと微笑むと、ラインハルトは子犬のように大人しく食事に戻った。
少し離れた席で他の騎士たちがひそひそとささやく。
「ラインハルトさん、声でかいからすぐ広まるよな」
「しっ、静かに。あれで“隠してるつもり”なんだから」
アレクはスープを口に運びながら、話題を続けた。
「ホルン技師は落ち着いた方ですし……その、ラインハルトさんをうまく制御できると思いますよ。お似合いだと思います」
「そうか? 嬉しいな!」
ラインハルトはにぱっと笑い、続けた。
「王女殿下のことはよく知らないが、あの方は銀髪が綺麗だからな。アレクと並んだら、金と銀でお似合いだろう!」
アレクの手がふと止まる。
――そんなふうに言われたのは、初めてだ。
周囲は皆、“王女”という身分ばかりを羨んだり、“無才の王女”と結ばれたアレクを哀れんだりしてきた。
美しいとか、似合うとか――
そんな純粋な言葉を向けられたことはなかった。
「ラインハルトさんは……本当に、いい人ですね」
「お? そうか? ありがとな!」
今日のスープは、いつもより温かく感じられた。
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乾いた地面を蹄が軽やかに叩き、風が訓練場を駆け抜ける。
整列した騎士たちの中央で、アレクが手綱を軽く引いた。
彼の軍馬――艶のある黒鹿毛の“ノクス”が短くいななき、首を振る。
「よし、行くぞ」
踵でごく軽く合図すると、ノクスは矢のように駆け出した。
アレクの体はぶれず、手綱は最小限。重心移動だけで馬と完全に一体になっている。
第一騎士団の馬術は“王族護衛型”。
急停止・急旋回に対応し、剣を抜いたままでも操作できるよう洗練された乗り方だ。
「さすがリーベル卿……体勢が全く崩れねぇ」
「馬じゃなくて“風”に乗ってるみてぇだな……」
仲間たちが感嘆の息を漏らす。
アレクがわずかに手綱を緩めると、ノクスは騎手の意図を読み、障害物へ向けて跳んだ。
前脚、後脚が流れるように続き、着地の砂すらほとんど乱れない――完璧な跳躍。
しかし、すれ違いざま、低い声が落ちた。
「……顔だけで成り上がりやがって」
誰にも聞かれないよう絞られた声。
アレクの耳にだけ届く距離だった。
彼はほんの一瞬だけ瞳を伏せた。
だが、次の呼吸ではいつもの柔らかな笑みに戻り、ノクスの首を撫でた。
「ノクス、もう一周いくぞ」
馬は静かに鼻を鳴らし、また走り出す。
風と蹄音だけが広がり――
アレクの胸に落ちた小さな影に、誰も気づかなかった。
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重いため息をつきながら、アレクは書斎の椅子に深く身を沈める。
魔導ランプに手をかざすと、青白い光がともり、白いシャツが淡青に染まった。
髪を縛っていた紐を外すと、金の髪が肩にさらりと落ちた。
「……疲れた」
この家は、騎士爵を得たときに購入したものだ。
王都ルミナリエンの中層区にあり、庶民よりは広く、貴族としては小さい。
通いの料理人とハウスキーパーが数人いる程度。
地方伯爵の三男として生まれ、
第一騎士団に入り、
功績を挙げ、“騎士爵”を得る。
誇るべき経歴。
胸を張っていいはずの生き方。
だが――
アレクを褒める言葉のほとんどはこうだ。
“美貌の騎士”
“神の顔貌”
彼の剣も、努力も、人となりさえも、人々は“美貌の附属物”かのように扱った。
爵位さえ、彼の見目が後押ししたと囁かれる。
婚約もまた、同じだ。
――この顔に与えられたものばかりだ。
「……俺には、何にもないな」
窓の外の魔導街灯は、夜でも眩しいほど明るい。
この部屋より明るく、遠い。
アレクは一つ息を吐き、静かに書類へ向き直った。
逃げたくても――
逃げる場所さえ、彼にはないのだから。




