39 静観という名の決断
――使者が、帰ってこない。
レオンハルトは、父王名義でヴァルハルト公国へ正式に使者を送っていた。
「使者は安全に遇されているとのみ、短い連絡がありました」
報告に立つ男が、淡々とそう述べる。
「……そうか。分かった。下がってくれ」
扉が閉じる。
魔導ランプの青白い光が、机の上に落ちていた。
「殿下。そろそろお時間です」
壁に控えていた従者の声に、レオンハルトは机上の魔導クロノメーターを手に取る。
小さく息を吐き、立ち上がると、白銀の髪を一度かき上げた。
「今日は……荒れるな」
独り言のように呟き、王太子は部屋を後にした。
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王国評議会。
高い天井の下、貴族たちの声が反響し、空気を震わせていた。
壁に並ぶガスランプの炎が、わずかに揺れる。
「ヴァルハルトは無礼だ! 強硬に出るべきではありませんか!」
王党派の大臣が、声を荒げる。
円卓に並ぶ大臣たち。
レオンハルトは静かに拳を机上に置き、その白い指先を見つめていた。
隣に座る父王は、ほとんど表情を変えぬまま、ひとつ頷く。
「確かに、無礼かもしれんな」
父王の反対側、軍務卿コンラッド・エーレンベルクは、膝の上に置いた拳にわずかに力を込めた。
レオンハルトが視線を向けると、コンラッドは小さく目を伏せる。
中立派の貴族が声を張り上げた。
「交渉中なんだ!
そんな真似ができるわけがない!
様子を見るべきだ!」
「そうだな」
国王の声には、驚くほど関心が含まれていなかった。
国を揺るがす戦でさえ、彼の興味を引かない。
「だから魔導など信用ならぬのだ。はじめから用いなければよかったのだ!」
魔導反対派の大臣が、机を強く叩く。
それに同調する声が、いくつも重なった。
「そうだなぁ」
気の抜けた王の相槌。
――愚者どもめ。本当に、何も見えていない。
レオンハルトは、指先で一度だけ机を叩いた。
宰相グラハム・アーデルハイドが、その動きを見逃さず、視線を送る。
王太子が立ち上がると、喧騒は波が引くように静まった。
「ヴァルハルトは『考える』と言った。
ならば、考えさせよう」
低く、よく通る声。
「決断を誤るのは――追い詰められた時だ」
円卓を一巡し、最後に父王を見る。
「陛下。ここは“静観”されるべきです」
「そうだな。お前の言うとおりだ」
――少しは自分で考えろ。
レオンハルトは、その言葉を胸の内に押し込み、息を殺した。
グラハムが一歩前に出て、場を見回す。
「陛下がそう仰せです。
異論はありませんな」
大臣たちは、それぞれの思惑を顔に滲ませながらも、うなずく。
レオンハルトは、わずかに視線を伏せた。
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「殿下」
窓際に立つレオンハルトは、わずかに振り返る。
高背椅子に腰掛けたグラハムが、慈しむように静かな笑みを浮かべていた。
「なぜ笑っていられる。
グラハムも報告を受けただろう。
エレノアが、ヴァルハルトに割れたんだぞ」
窓の向こう、低い位置に赤い月が昇っている。
まるで、ヴァルハルトの国色のようだった。
「ご覚悟を決められるべきです」
子どもを諭すような、柔らかな声。
レオンハルトは窓ガラスに手をついた。
「エレノアにセドリックを引き合わせるように誘導したのは、私だ。
前に立てと言ったのも、――私だ」
掌に、夜の冷気が伝わる。
「実際、彼女がいなければ辺境は落ちていた。
成果は上げた。だが……まだ自立するには足りない」
レオンハルトは、わずかに視線を伏せる。
「……私が、もう少し早く玉座を取るように動いていれば、
守れたのかもしれない」
「殿下」
彼は振り返った。
腕を組み、淡い紫の瞳に光を宿す。
「……詮無いことを言った」
グラハムは、ゆっくりと立ち上がる。
窓の外。
黒い尖塔から吐き出される灰色の蒸気が、夜空に溶けていく。
眠らぬ王都。
人の営みが、絶え間なく続く街。
宰相は、レオンハルトの前に跪いた。
「焦ってはなりません。
少しずつ、貴方のもとに人が集まっております。
――もうすぐです、殿下」
レオンハルトは、それを静かに見下ろした。
「この老骨、グラハム・アーデルハイド。
殿下のもとに立ち上がりましょう。
貴方が守りたいもののために。
貴方が築く未来のために」
王太子は、わずかに眉を寄せた。
「……お前が、表舞台に立つということか?」
「左様。
その時が来たと存じます」
衣擦れの音。
グラハムが顔を上げる。
レオンハルトは、口角を上げた。
「エレノアを守ってやってくれ。
私の治世に、彼女が必要だ」
「御意」
夜空を、飛行船が横切る。
青い航行灯。
赤い月を貫くように、それはゆっくりと進んでいった。




