36 宣戦、そして位相は断たれる
霧が、重く平原を覆い尽くしていた。
視界は悪い。
ヴァルハルトの兵士たちは息を潜め、陣地に伏している。
技師たちもまた声を殺し、各々の持ち場で最終調整を進め、その時を待っていた。
この霧の中で号令など出せるはずがない――
誰もが、そう思っていた。
実際、あくびを噛み殺す兵士さえいる。
だが。
――突如、空が裂けた。
赤い閃光が霧を切り裂き、
魔導エンジンの鋭い唸りが、耳元を抉る。
刹那。
爆発音。
破片が舞い、悲鳴と怒号が陣地を走る。
炎が立ち上り、灰色の煙が視界を覆った。
それがわずかに晴れたとき、
彼らはようやく理解する。
――自陣の大盾型魔導兵装が、撃破された。
撃破したのは、空の支配者。
スカーレット・ウィング。
アルトルミナからの、
明確な宣戦布告だった。
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ルカ・アストレインは、ゴーグル越しに目を細め、口角を上げる。
「まずは、ご挨拶だ」
鋭く旋回する赤い機体。
その左右に、霧の中から灰色の魔導戦闘機が二機、並走する。
ルカは耳元に手を当てた。
「予定通り行こう。俺は撹乱、君らは偵察だ。
よく見ておけ――さぁ、行け!」
操縦桿を引き、高度を取る。
雲を裂き、風と一体になる感覚。
地上では怒声が上がり、砲撃が爆音とともに放たれた。
翼端の航行灯が青白く回転し――
一瞬、消える。
急降下。
ヴァルハルトの兵は態勢を整える暇もなく、散開を余儀なくされる。
その隙間を縫うように、赤い閃光が超低空で駆け抜けた。
追撃するように小型魔導戦闘機が舞い上がるが、距離は縮まらない。
『盾が百』
『後方、投射三十を確認』
魔導通信に、冷静な報告が入る。
「こちらスカーレット・ウィング。
盾百、後方に投射三十。ついでに空五――確認した」
『本陣、了解』
砲撃と迎撃を引きつけながら、
赤い機体は霧を味方につけ、自在に空を踊った。
「向こうの空は五機だ。
俺が引きつけて落とす」
ルカは一瞬、視線を走らせる。
「グレー・ファルコン、グレー・ウルフ――
旋回しろ。逃げ場を潰せ。頼んだぞ!」
『了解』
操縦桿を強く引き、赤い翼が空へ跳ね上がる。
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「境界軍、動員四千。これ以上は削れん……閣下!」
ユリウスが、馬上のグンターを見上げた。
荒々しい黒馬。
その背、男の重いマントの裏地は赤――翻らぬ、歴戦の色。
乾いた強風が陣を抜ける。
将は、笑った。
「十分だ、婿殿」
「魔導相手に“十分”は信用できません」
ユリウスの銀髪が風に揺れる。
ロングコートの裏地もまた銀。王族の矜持。
「……行くぞ」
グンターが馬上から手を差し出す。
ユリウスは、それを強く握った。
「今、スカーレット・ウィングが好き勝手にやっている。
その隙を――我らが制する」
「頼みましたよ、閣下!」
「うむ!」
グンターは振り返り、声を張る。
「鉄槍境界軍! 出陣!!」
鬨の声が、大地を震わせた。
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「スカーレット・ウィングがうまくやっている。
鉄槍境界軍も出撃した。
――次は我々だ、セドリック!」
本陣にて、エレノアが声を上げた。
青銀の髪が風を受け、灰銀のマントが僅かに翻る。
名を呼ばれたセドリックは、即座に技師席へ声を張り上げた。
「広域魔導遮断フィールド、展開準備に入ってください!」
「「はい!」」
彼はすぐ隣に並ぶアレクへ視線を送る。
銀のヴァレリア式魔導兵装を纏ったアレクは、短く頷いた。
耳元の通信器に手を当てる。
「味方機は位相同調シールドを展開。
広域遮断に飲まれるな。位相を合わせろ」
『了解』
アレクは振り返り、背後に控える魔導兵装部隊へ声を張った。
「兵装部隊は、遮断フィールド展開後に出撃する。
――備えろ!」
調整はすでに完了している。
戦士たちは息を殺し、技師たちは技師区画の制御盤へと駆け戻った。
陣から、音が消える。
前線の怒号と砲撃音が、ひどく遠くに感じられた。
「広域魔導遮断フィールド、発動準備に入ります。
カウントダウン開始」
セドリックの抑えた声が、陣に沈む。
「五、四、三、二――展開!」
一瞬、耳鳴りのような圧が走る。
――そして。
敵陣から絶えず響いていた砲撃音が、唐突に止んだ。
壁のように立っていた大盾型魔導兵装が、重い音を立てて沈み込む。
風が、止まる。
霧の向こうで爆音。
何かが、堕ちた。
『スカーレット・ウィング。二機、撃墜』
「魔導兵装部隊、出撃!」
アレクの号令とともに、ヴァレリア式魔導兵装を纏った少数精鋭が駆け出す。
馬より速く、鋭く、前線へ。
その背を、エレノアは腕を組んで見つめていた。
「ヘルマンが整えた魔導塔と連動した広域魔導遮断フィールド。
魔導兵装の“位相”を崩し、人と兵器の同調を強制的に遮断する。
敵兵装の出力は確実に落ちるはずだ」
セドリックは小型制御盤を抱え、彼女の隣に立つ。
「魔導塔がまだ完全体ではありません。
ヘルマンさんからも“いきなり全開はやめろ”と念を押されていますので、出力は抑えています。
ですが――」
制御盤に視線を落とす。
「味方機には位相同調シールドを事前展開済みです。
影響は受けません。差は、十分につけられます」
エレノアはヴェラに目配せし、時刻を確認させた。
「……予定より、少し早い」
「王都で怒っているヘルマンさんの顔が浮かびますね」
「仕方ない。ここは戦場だ」
一拍置き、エレノアは小さく付け加えた。
「王都に戻ったら……ヘルマンに会うときは、セドリックも一緒に来い」
「一緒に怒られろ、ということですか?」
セドリックの翡翠の瞳を受け、エレノアは視線を逸らす。
「次、行くぞ」
「……はい」
その少し離れた位置で、次々と届く報告に耳を澄ませながら、
アレクは小さく、苦笑していた。
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「王都中の魔導街灯の出力を二%落とせ!
それだけでも、まだ動力は捻り出せる!」
中央制御盤の前で作業する技師たちの肩に手を置き、ヘルマンは計器を覗き込んだ。
無数の青光が明滅し、剥き出しのダクトから唸りが絶えず部屋を震わせている。
彼は腕を伸ばし、ある数値をなぞる。
「……早めにシールドを張ったな。
ぐんぐん吸われていく……」
眉間に皺を寄せ、銀灰の髪をかき上げた。
「ヘルマンさん!」
アメリアが見つめているのは、辺境グラウベルトの魔導制御塔――
導管共鳴限界計。
青光が不規則に点滅している。
まだ危険域ではない。だが、楽観できる数値でもなかった。
ヘルマンはアメリアの肩越しに画面を覗き込む。
「……やっぱり不安定だ。
一気に送れば、共鳴崩壊を起こしかねん」
即座に振り返り、技師たちへ指示を飛ばす。
「送動力を抑えろ!
今から計算する、少し待て!」
頭を抱えるように演算器を引き寄せ、数値を叩き込む。
だが、途中で舌打ちし、演算器を脇へ放り出した。
拳を額に当て、目を閉じる。
「……67.8……いや、いける」
顔を上げると、技師たちの元へ駆け寄った。
「全魔導塔、出力68%!
グラウベルトへは“ゆっくり”送れ!
一秒ごとに0.4%ずつ上げろ。
いいな――深呼吸だ!」
技師の肩に手を置き、秒を数える。
動力供給は、まるで呼吸を整えるように、少しずつ安定していった。
誰かが、はっと息を吐く。
ヘルマンはその背を軽く叩いた。
「いい制御だ。
さすが、ルキウスが引っ張ってきた技師だな。
計器から目を離すな――戦は、まだ始まったばかりだ」
アメリアも、ようやく息を吐いた。
「……帰ってきたら、当然一言くらいは文句を言わせてもらおうな」
その一言に、アメリアは思わず笑ってしまった。
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グラウベルト、本陣。
エレノアは、ふいに寒気を覚え、腕をさすった。
戦況は、まだ動き出したばかりだ。
彼女は細く、長く息を吐き、前線を見つめる。
――その背後に、
小さな、小さな影が忍び寄っていることに、まだ気づかずに。




