34 静かに下された決断
このアルトルミナ王国には、王党派と王太子派、そして中立派が存在する。
今は表面上、王と王太子の仲は悪くない。
時期が来次第、王は玉座を穏便に譲ると公に表明している。
そのため、派閥同士が正面から衝突することは、いまのところ起きていない。
――だが、何も問題がないわけではなかった。
老いた細い指が、執務机を一度だけ叩く。
宰相、グラハム・アーデルハイド。
「中立派の中の、魔導反対派が騒がしくなってきましたね」
彼の執務室は、重厚というほどではないが、長年の歳月を静かに受け止めた落ち着きがあった。
書棚や机の上には資料や調度が増え続けた痕跡がありながら、どれも品が良く、雑然とはしていない。
壁には淡く光る魔導ランプが据えられ、書類を照らす手元では、あえてオイルランプが静かに揺れている。
机の向こうに、黒い外套の男が一人、控えていた。
「暇な人たちが多いものです。
ヴァーミリオン殿はもちろん、他の技師たちにも近づけないように。
頼みましたよ」
声色だけを聞けば、孫に絵本を読み聞かせる好々爺のようだ。
だが彼が宰相の座に在り続けているのは、その穏やかさの奥にある冷静さと判断力ゆえである。
外套の男は一礼し、音もなく宰相室を後にした。
間を置かず、ノックの音。
従者が扉を開けると、軍務卿コンラッド・エーレンベルクが足音を立てずに入室する。
軽く頭を下げる彼に、グラハムもまた、机に座ったまま顎を引いて応えた。
「ヴァルハルトが、また動き始めたようです」
グラハムは、静かに頷く。
「至急、殿下へご報告を。
まだ完全には整っていないというのに……。
あなたも、そろそろ軍を動かせるよう準備を進めてください」
「はい」
軍の頂点に立つコンラッドは、すでに王太子派として表に出ている。
魔導兵装の導入を支持する姿勢を明確にし、“魔導反対派”の視線を一身に引き受けている状態だ。
技師の頂点に立つセドリックと並び、今もっとも目立つ存在でもある。
「――卿は、いつ表に出られるのです」
一瞬、室内の空気が張り詰める。
二人の影が、壁に長く伸び、重なり合うように揺れた。
グラハムは、答えなかった。
答えられないのではない。
答えないことを、選んだのだ。
コンラッドは察したように視線を伏せる。
「……申し訳ありません。差し出がましいことを」
老宰相は、ゆったりと微笑んだ。
「いえいえ。いいんですよ」
コンラッドは再び一礼し、踵を返す。
金の肩章が、ランプの灯をわずかに返した。
扉が閉まる。
グラハムは手元の書類を一枚めくり、ペン先にインクを含ませる。
流れるように署名を終え、静かに呟いた。
「私の存在は、殿下にとって切り札です。 ……まだ、出る時ではありませんよ」
その言葉は、紙の擦れる音に溶けて消えた。
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灰簾宮。
従者を引き連れて廊下を歩いてきたレオンハルトは、立っていたアレクを見つけると、小さく手を挙げた。
アレクは胸に手を当て、静かに頭を下げる。
「アレク、お前も入れ。
関係する話だ」
レオンハルトはそのままアレクの肘を取り、エレノアのティーサロンへ足を踏み入れた。
「エレノア」
エレノアは、到着の知らせを受け、私室からティーサロンへ移動してきたところだった。
顔を上げると、青銀の髪が淡く光を返す。
レオンハルトは座ることもなく、書簡を差し出した。
「ユリウスからだ。――動いたぞ」
エレノアは立ったままそれを受け取る。
アレクは自然と、彼女の斜め後ろに立った。
昼と夕の狭間の時間。
柔らかな光が部屋を満たし、紙を広げる微かな音だけが落ちる。
「魔導塔ネットワークが出来上がりつつある。
この書簡も、わずか半日で届いた。……素晴らしいな」
レオンハルトは椅子に腰を下ろし、目を細めた。
「エレノア。お前の成したことだ。誇れ」
王女の頬が、ゆっくりと染まっていく。
エレノアはそっとアレクを振り返り、彼は何も言わず、穏やかに頷いた。
小さく息を吐き、エレノアは一歩前に出て、王太子の前に跪く。
「……兄上。行って参ります」
光の層が、三人の間に静かに横たわる。
遠くで、微かな鐘の音が鳴った。
レオンハルトは一瞬だけ目を伏せ、ゆっくりと頷く。
「あぁ。怪我しないようにな」
「……はい」
エレノアは立ち上がり、アレクに向き合う。
厚い前髪の奥、青紫の瞳に宿る光は、迷いのないものだった。
「アレク。グラウベルトへ行く」
彼はわずかに口角を上げ、胸に手を当てて頭を下げる。
「御意」
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翌、早朝。
辺境グラウベルト、ヴァルデン砦。
城壁の縁をなぞるように風が吹き抜け、石と鉄の隙間で鳴いていた。
王都で当たり前に響く、機械の規則正しい音とは無縁の――生き物のような音。
エレノアは閉じていた瞳を開き、物見台から平原を見渡す。
彼女の部隊は、まだ完全体ではない。
それでも、第三王女はすでにここに立っている。
すぐ後ろには、変わらぬ静かな気配。
「アレク……」
「はい」
「……いや、なんでもない」
「……はい」
銀の髪が風になびく。
「……やるぞ」
「はい」
王女の唇が、静かに弧を描いた。
戦いが――この地で、再び始まる。




