29 灰簾宮の静かな一日
専属護衛に任命されたアレクは、灰簾宮に部屋を与えられた。
早朝に目覚め、中庭で鍛錬を積む。
その後は、使用人用の小さな食堂で、執事補佐のシリルと早い朝食を取りながら、エレノアの一日の予定を確認するのが日課になっている。
「灰簾宮は人が少ないので、食事も交代制なんです。
ですから、こうして誰かと一緒に食べられるのは嬉しいですね、騎士殿」
にこやかに笑うシリルを、アレクは改めて見た。
シリルは四十手前の男だった。
口数の少ないオズワルドや、寡黙なヴェラとは対照的に、朗らかで話しやすい人物だ。
他宮との連絡や調整も、主に彼が担っているらしい。
「本日は夕刻に、ヴァーミリオン卿がいらっしゃいます。
殿下と打ち合わせの予定です」
「承知しました」
「では、今日も一日、よろしくお願いします」
「はい」
穏やかに言葉を交わし、互いに持ち場へ戻る。
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朝食後、アレクはエレノアの私室を訪れた。
「おはようございます」
「おはよう、アレク」
専属護衛となってから、入室が許された王女の部屋。
すみれ色の絹壁。
銀糸の刺繍が施された、淡い紫の天蓋。
黒鉄のシンプルな暖炉。
灰青のカーテン越しに、柔らかな朝の光。
静かで、品があり、どこか思索のための余白を残した空間だった。
すでに身支度を整えていたエレノアは、ベッド脇の小テーブルから立ち上がると、いつものように右手を差し出す。
アレクは歩み寄り、跪いてその指先に口づけを落とした。
見上げれば、彼女もまた、わずかに微笑む。
言葉は交わさない。
エレノアが手を引き、アレクは立ち上がって一礼する。
この後、彼は基本的に部屋の前で待機する。
ときおり灰簾宮内の見回りにも出るが、門前には第一騎士団が立ち、建物そのものにも防御機構が備わっている。
彼の役目は、ただ一つ。
――エレノアの、そばにいること。
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エレノアは私室の椅子に腰掛け、背もたれに頭を預けて天を仰いだ。
――次に、ヴァルハルトはどんな手を打ってくるだろう。
――あの魔導偵察機は、明らかにこちらを探っていた。
一台だけだったのか。
それとも、こちらの存在が想定外で、十分な数を用意できなかったのか。
――次は、より高性能で、より多くの魔導偵察機が投入される。
魔導兵装部隊も、本格的に動くだろう。
――どう戦う。どう備える。
「魔導の知識があるだけで、戦場に立ったこともない私が……
本当に、戦えるのか?」
腕で目元を覆う。
胸の奥に、不安が滲む。
呼吸が浅くなり、眉が寄る。
エレノアははっとして立ち上がり、部屋の扉へ向かった。
静かに開け、廊下を覗く。
アレクがいた。
「どうされました?」
優しい声音。
変わらぬ、穏やかな表情。
――いる。
それだけで、呼吸が整っていく。
「なんでもない」
そう答えて、エレノアは部屋へ戻った。
椅子に腰を下ろす。
――辺境には、ユリウス兄上とファルケンハイト伯がいる。
――戦場は、彼らに任せればいい。
――セドリックの技術があり、それを体現できるアレクがいる。
――空の目、ルカも得られた。
――後方には、クラリッサとヘルマンがいる。
「大丈夫。
みんな、信じられる。
私は……私のやれることを、やるだけだ」
扉の向こうで、かすかに鎧の擦れる音がした。
――大丈夫。怖くない。彼がいる。
エレノアはそっと目を閉じ、再び思考の海へと沈んでいった。
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灰簾宮、エレノアの小書斎。
セドリックと技術会議をしていた最中、控えめなノックの音が響いた。
ヴェラが応対し、続いてオズワルドが入室する。
「殿下。第二王女殿下より、お荷物が届いております」
無表情のまま、オズワルドは一瞬だけセドリックに視線を向けた。
「魔導に関わる品のようです。
ヴァーミリオン主任技師殿にも、ご同席いただきたく」
エレノアとセドリックは顔を見合わせる。
「わかった。セドリック、問題ないな?」 「はい」
前室へ向かうと、すでにシリルとアレクが検分を進めていた。
床に敷かれたマットの上に、いくつもの荷が整然と並べられている。
第二王女セシリア。
兄妹の中でも、とりわけ美貌で知られる王女だ。
魔導大国アークメル王国へ嫁いでおり、これまでも度々、最新の魔導書や魔導道具をエレノアへ送りつけてきていた。
――そして、その国は、セドリックの師が身を置く国でもある。
エレノアは小さな黒い箱を手に取った。 文字盤には、見慣れぬ刻印が施されている。
「これは?」
セドリックが覗き込み、穏やかに笑った。
「ああ、音声録音機能付きの魔導時計ですね」
エレノアが差し出すと、彼は蓋を開け、操作を確認する。
「おはようございます」
蓋を閉じ、エレノアに向ける。
『おはようございます』
箱の中から、澄んだ音声が響いた。
「おお……すごいな!」
セドリックは楽しそうに頷く。
「時間指定もできます。目覚まし代わりにも使えますよ」
「へえ。すごいな……すごいが、必要か?」
「あはは。そこは好みですね。
ただ、最新技術であることは確かです」
時計を受け取ったエレノアは、しばしそれを見つめ――ふと思いついたように、アレクを見上げた。
「アレク。これに 『おはようございます、エレノア様』
と言ってみろ」
「えっ」
アレクが固まる。
セドリックが吹き出した。
エレノアは眉をひそめる。
「何だ、その反応は。セドリックも、なぜ笑う」
「いえ……お二人の距離が、着実に縮まっているなと思いまして」
「どういう意味だ?」
セドリックは肩をすくめ、話題を逸らす。
「ほら、殿下。ほかにもありますよ」
彼はしゃがみ込み、次々と道具を手に取っていく。
その中に、分厚い書類の束が混じっているのを見つけ、そっと取り上げた。
――そして。
みるみるうちに、彼の顔色が変わった。
「……セドリック殿?」
背後からアレクが覗き込むと、セドリックはゆっくり立ち上がる。
「……とんでもないものが入っています」
エレノアも並んで書類を見る。
二人は、無言で視線を交わした。
「……最新式の魔導偵察機の設計図です。
それに、魔導兵器の設計図まで……」
セドリックは言葉を選びながら続ける。
「本来なら、最高軍事機密です」
アレクの顔からも、わずかに血の気が引いた。
エレノアは、オズワルドから差し出された手紙を広げる。
「姉上からだ」
そこに綴られていたのは――
『愛するエレノアへ。
前略。
素敵なものをたくさん集めたから送るね。
なんだか大変そうだって聞いたから、お姉ちゃんとして何ができるか考えたの。
そちらの主任技師さんのお師匠さんのおじいちゃん、私と仲良しなのよ?
だからね、とってもいいもの、同封します。
極秘だよ♡
貴女の素敵なお姉ちゃん
セシリアより』
セドリックの手が、わずかに震えた。
「……国家裏切りになど、なりませんよね……?」
エレノアは視線を逸らし、ぽつりと答える。
「多分……大丈夫だろう……多分な。
“妃殿下”だぞ?」
セドリックは、 (これほど恐ろしい“♡”は見たことがないな……) と現実逃避しかけたが、口には出さなかった。
こうして、アルトルミナは予想外の形で、 最新式の魔導兵器の知識まで手に入れることとなる。
――淡々と。
だが、確実に。
次なる戦いへの準備は、進んでいった。




