26 任命
第一騎士団訓練場。
アレクがトラックを走っていると、背後から地響きが近づいてきた。
騎士団では日常の音だ。気にも留めず走り続けていた、その瞬間――
巨大な鉄球で殴られたかのような衝撃が、突然、肩に叩きつけられる。
騎士団長ガレス・ハルトマンが、後ろからアレクの肩を抱いていた。
かろうじて転倒は免れ、速度を落とすと、二人は並んで走る形になる。
「はっはっはっ! アレク! ついに正式発表されたな! おめでとう!」
「……ありがとうございます」
「これからも頑張れよ!」
「はい」
肩から腕が離れない。
違和感に、アレクは恐る恐る横を見る。
表情は、いつも通りの朗らかな笑顔。
だが、ガレスは前を向いたまま、声だけを低く落とした。
「……妙な視線が増えた。――気をつけろ」
次の瞬間、彼は再び大声で笑い、アレクの背中を思いきり叩くと、戦車のような勢いで走り去っていった。
アレクは、その背を見送る。
視線を巡らせる。
早朝の走り込みの時間、見学席はまだがら空きだ。
騎士たちの掛け声。
鳥の鳴き声。
朝の金色の光が砂塵に散り、蒼輪騎士団の旗が緩やかにはためいている。
――何も変わらない、いつもの朝。
アレクは小さく首を振り、走る速度をわずかに上げた。
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夜。
訓練を終え、自邸へ戻ってきたアレクは、門前に立つ黒い外套の男の姿を見つけて足を止めた。
胸の奥に、かすかな緊張が走る。
男はアレクに気づくと、深く頭を下げた。
立ち止まったアレクに歩み寄り、横に並ぶ。
眉を下げ、作り笑顔を浮かべた男が、値踏みするように見上げてきた。
「こんばんは。アレク・フォン・リーベル卿。噂に違わぬ美貌ですな。
神が舞い降りたのかと思いましたよ」
「……ご要件は?」
「主より言伝を預かって参りました。
“貴殿は誉れある蒼輪騎士団の身。
魔導からは距離を取られよ。
魔導はこの国を分断する悪魔の刃である”――と」
魔導街灯の光が男の目に差し込み、白く、獣のように光った。
アレクは穏やかな微笑を浮かべたまま、視線を細める。
「“主”とは、どちらでしょうか」
男は首を振る。
「今はまだ……。
リーベル卿。道を外されてはなりませんよ」
アレクは答えず、視線を外す。
黒い外套は彼から離れ、待たせていた質素な馬車へと乗り込んだ。
馬車は静かに走り出し、青白い灯りに染まる石畳の闇へと溶けていく。
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夜半。
すでに人の気配が引いた刻。
仕事を終えたセドリックは、魔導工廠の正門を出て、石畳を歩いていた。
上級技師用の寮へ、ひとり戻るところだった。
ふと、足を止める。
振り返ると、そこにあるのは魔導街灯の光と、静まり返った通りだけ。
黒革の書類ケースを抱える腕に、知らず力が入る。
――視線?
――いや、人の気配……?
小さく首を振り、再び歩き出す。
コツ……コツ……。
自分のショートブーツの音だけが、夜に響く。
それ以外は、何も聞こえないはずなのに――
――ドサリ。
重たい、何かが倒れるような音。
背筋に冷たいものが走る。
セドリックは、もう一度振り返った。
――だが、そこにあるのは、変わらぬ静寂だけ。
呼吸が浅くなる。
彼は足早に、寮への道を急いだ。
彼が去った後。
街灯の届かぬ闇の中に立つ男が、耳元に手を当てる。
「排除完了」
小型魔導通信機越しの短い報告。
――グラハムが手配した、“影”。
その男は、アルトルミナの“頭脳国宝”が無事に寮へ入るのを見届けると、音もなく闇に溶けた。
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高窓から柔らかな日が差し込む、王城の回廊。
歴代国王の肖像画を横目に、従者を従えたレオンハルトが歩いていると、向こうから軍務卿コンラッド・エーレンベルクが現れた。
互いに軽く頭を下げ、すれ違いざま――
「……工廠、騎士団、どちらにも現れました。長くは持ちません」
彼にだけ届く声。
コンラッドは視線を前に向けたまま去り、レオンハルトも何事もなかったかのように歩き続ける。
――魔導反対派が、動き出した。
伝統を誇るこの回廊の壁の内側には、隠された魔導動力が張り巡らされている。
それを知る者だけが、この静けさの滑稽さに気づく。
“魔導”なしでは、もうこの国は成り立たないというのに。
レオンハルトは、立ち止まらない。
ため息も、動揺も、王太子には許されなかった。
ただ、静かに歩き続ける。
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エレノアとの茶会の後、アレクはいつものようにレオンハルトの執務室を訪れた。
部屋に入ると、王太子は窓辺にもたれ、腕を組んで立っていた。
白銀の髪が、沈みゆく夕陽の赤を透かしている。
黒壇の大きな執務机には、相変わらず書類が雑然と積まれ、替える暇を見つけられなかったペン先がいくつも放置されていた。
ブルーのベルベットを張った金縁の高背椅子に、レオンハルトが大人しく腰掛けている姿を、アレクはほとんど見たことがない。
従者が用意した椅子を辞退し、アレクは机の前に立つ。
そして、王太子が口を開くのを待った。
「……魔導反対派が、動き出した」
「……はい」
「お前のところにも、圧力がかかっているようだな」
アレクは、わずかに視線を伏せて応える。
「……はい」
「セドリックのところにも、招かれざる客が来ている」
「……え」
レオンハルトは、アレクの碧い瞳をじっと見つめ、小さく首を振った。
「魔導工廠は警備が厚い。
彼が外に出る際にも、“影”を手配している。
問題がないとは言えんが、対策は打っている」
陽が完全に落ち、魔導ランプに明かりが入る。
紺の壁布と白漆喰の壁に、青白い影が細長く伸びた。
「エレノアが背後にいることは、まだ完全には悟られていない。
だが――それも、時間の問題だろう」
淡い紫の瞳に、ランプの光が差し込む。
「アレク」
一拍。
「――お前を、第三王女の臨時専属護衛に任命する」
アレクは、静かに顎を引いた。
「エレノアを、守れ」
「御意」
レオンハルトの背後、窓の外には、今にも消えそうな細い三日月が浮かんでいる。
夜風が窓枠を、カタリと鳴らした。




