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21 静寂の陣


 小さな机の上に置かれた燭台の火が、ゆらりと揺れた。

 エレノアが振り返ると、ユリウスが部屋に入り、代わりにヴェラとアレクが静かに外へと下がるところだった。


 石壁に囲まれた静かな部屋。

 城壁の内側を向いた小さな窓が一つ。

 木製のベッドと、机と椅子。

 丁寧に掃除はされているが、装飾はない。


 王女エレノアに与えられた、砦での私室だった。

 思考を巡らせ、休み、そして明日を迎えるためだけの空間。


 エレノアは机の前の椅子から立ち上がり、兄を迎えた。


 ユリウスは、日頃は鋭いその眼差しをわずかに和らげ、妹を見る。


「エレノア。壮健であったか」

「はい。兄上も、変わりがないようだな」


 背の高いユリウスを、エレノアは見上げる。


「……そうだな。レオンハルト兄上は、変わりないだろうか」

「変わりない」


 即答だった。

 ユリウスは小さく、苦く笑う。


 燭台の火に照らされ、二人の影が長く石壁に映った。


「兄上は、私には前に出るなと言ってきている。

 ……もちろん、兄上の危惧は理解している。今、王族間で争うことほど無駄なことはないからな」


 同じ色味の髪と瞳。

 だが、“王太子の予備”として生かされ続けてきたユリウスの瞳は、辺境の乾いた冷たい風によく似ていた。


 それでもエレノアは知っている。

 王族としての矜持も、己自身の誇りも、彼が一度として手放したことはないということを。


 ユリウスは小さく息を吐き、エレノアの厚い前髪の奥にある瞳を見つめる。


「……兄上は、一人で背負いすぎてはおられないだろうか」


 沈黙。


 ユリウスは小さく首を振った。

 背で一つに結われた細い銀髪が揺れ、橙の光を静かに弾く。


「これも、言っても詮無いことだったな。悪い」


 濃い茶色の軍服。

 騎士団の濃紺とは異なる、地に馴染んだ色合い。縁取りは黒、ボタンは古金。

 その上に羽織る将としてのロングコートも、また黒だった。


 淡い紫の瞳だけが、彼に許された唯一の色だ。


「ヴァルハルトは強敵だ。油断はできない。

 閣下も、魔導の必要性は感じておられる。

 だが、ここは“辺境”だ。魔導をたやすく扱えない事情も、よく分かっているつもりだ」


 ユリウスは、エレノアをまっすぐ見た。


「――だから、お前たちが頼りだ」


 エレノアは、ちらりと机の上の燭台を見る。

 その視線を追って、ユリウスはまた苦く笑った。


「兄上が魔導ランプを送ってくださったが、こちらでは魔導動力の確保も難しくてな。しまい込んでしまった。

 火は、珍しいか?」

「灰簾宮にも暖炉はある。陛下の部屋には魔導ランプもない。火を見ること自体は、珍しくはない」

「そうか」


 エレノアは、ゆっくりとユリウスを見る。


「エレノア。これは武人としての私の勘だ。

 おそらく、すぐに動き出す。今日はもう休め。

 ――辺境は、お前たちを歓迎する」


「はい。兄上」


 ユリウスは踵を返し、自ら扉を開けて部屋を出ていった。


---


 扉脇に控えていたアレクとヴェラを見つけ、ユリウスはわずかに足を止める。


 アレクは胸に手を当て、静かに頭を下げた。

 ユリウスは一歩寄り、その耳元に声を落とす。


「お前の役目は、分かっているな?」


 石壁の狭い廊下。

 等間隔に取り付けられた燭台の炎が、ジジッと音を立てて揺れる。


 アレクは、視線だけで応えた。

 ユリウスはふっと笑い、距離を取ると、彼の肩を軽く叩く。


「それから――まだ手は出すなよ」


 アレクの眉が、わずかに下がる。

 ヴェラは、微動だにしない。


 ユリウスは楽しそうにほんの少しだけ笑い、従者を連れてその場を離れていった。


---


 ユリウスの背を見送り、アレクとヴェラはエレノアの部屋へ戻る。


 王女は二人をちらりと見ただけで、机の椅子に腰掛け、燭台の炎をじっと見つめていた。


「レオンハルト兄上は、この地に“魔導”が行き届かないことも危惧していた」


 独り言のような、小さな声。

 だが、石に囲まれた部屋では、その言葉が水面に落ちた雫のように静かに広がる。


 アレクは黙って、銀の髪の王女の背を見つめていた。


「数年前、この地に、兄上主導で魔導制御塔の建設が進められた。

 このグラウベルトだけではない。アルトルミナ各地に置こうとしたのだ」


 エレノアの指先が、燭台の縁をなぞる。


「だが、陛下はこう仰った。

 “そんな無駄なもののために、金と資源を使うな”と。

 その一言で、すべてが止まった」


 爪先が燭台の台座を打ち、カツンと小さな音が鳴る。


「この地には技師もいない。魔導塔一基さえない。

 ――だから、ここには“知識”が届かない」


 細く、息を吐く。

 その音さえ、この部屋でははっきりと聞こえた。


「静かだな。

 王都では、何もしていなくても世界が鳴っていた。

 だが、この砦では……音はすべて“人が出したもの”だ」


 ――それが、思っていた以上に心をざわつかせる。


 エレノアは立ち上がり、二人を振り返った。


「今日はもう休もう。アレク、お前も下がれ」


 銀の髪を照らす橙の光が、彼女の頬に淡い影を落とす。


 アレクは静かに頭を下げた。


 魔導の青光は、この地を照らさない。

 音のない、静かな夜。

 そこにあるのは、人々のわずかな吐息だけだった。


---


 手元の魔導ランプが放つ青白い光が、男の節くれだった指を冷たく染めていた。

 地図の上に伏せられた視線は、一点から微動だにしない。


 深淵のような黒い瞳。

 魔導の青ささえ吸い込んでしまうかのように、そこには感情の揺らぎがない。


 漆黒の髪は長く、高い位置で結われている。

 戦場にあっても乱れぬよう整えられたその髪は、彼の性質そのものを映していた。

 無駄を嫌い、激情を外に出さない男。


 身に纏うのは、黒を基調とした軍装。

 だが、その上から羽織られた臙脂色の外套だけが、血のように濃く、異様な存在感を放っている。

 赤は彼の国の色であり、彼自身の色でもあった。


 男の背後に、一人の兵士が音もなく近づき、膝をつく。


「アルトルミナ側に、見慣れぬ装備と人員あり」


 報告は簡潔だった。

 男の口角が、わずかに吊り上がる。


「……動いたか」


 それは笑みと呼ぶにはあまりに浅く、ただ獲物の気配を捉えた獣の反応に近い。

 男はゆっくりと立ち上がった。

 臙脂の外套の裾が床に触れたまま、静かに揺れる。


 小さく手を挙げる。


 兵士は一言も発さず頷き、立ち上がると、そのまま音を立てずに去っていった。


 地図の上には、まだ血は落ちていない。

 だが、男の瞳はすでに、そこに流れるものを見据えていた。


---


 未明。

 見張り台に登り、ユリウスは腕を組んで平原を見つめていた。


 紫の瞳に、淡い月光が映り込む。

 冷たい風に髪がなびき、星々の瞬きのように、夜の空気の中で静かに揺れた。


 石を打つ足音。

 鉄槍境界軍てっそうきょうかいぐんの兵士が駆け寄り、ユリウスは視線だけを向ける。


「ご報告申し上げます。敵陣に動きあり」


 ユリウスは一度だけ瞳を伏せた。

 そして、短く息を吸う。


「……来るか。

 陣を張れ」


 兵士は頷き、踵を返す。

 軍服の下に着込まれたチェーンメイルの金属音が、石床を低く這った。


 ヴァルデン砦の空気が、確かに動いた。


---


 ユリウスがエレノアの私室へ向かうと、扉の前にはアレクが控えていた。

 蝋燭の明かりが、彼の金の髪を蜂蜜色に揺らがせている。


 第二王子は、僅かに目を細めた。


 ――兄上は「完璧な男を、エレノアの婚約者に選んだ」と書簡に記していた。


(なるほどな)


 目を引くほどの美貌。

 第一騎士団所属という肩書。


(だが、綺麗なだけの男ではない)


 すれ違いざま、ユリウスはアレクの肩に軽く触れた。


「昨夜も思ったが……いい鍛え方をしている」


 アレクが一瞬、目を見張る。

 だがすぐに表情を整え、ユリウスが部屋へ入っていくのを見送った。


---


 部屋では、すでに支度を整えたエレノアが立っていた。

 ヴェラがその背後に控え、ユリウスに一礼して壁際へ下がる。


 厚い前髪はそのままに、銀の髪は高く一つに結われている。

 濃い灰紫のロングチュニックを細身のベルトで留めたパンツスタイル。

 編み上げのブーツ。


 ドレスを脱ぎ捨て、戦地に立つ覚悟を示す装い。

 侍女であるヴェラもまた、ショートジャケットに細身のパンツ。腰には魔導具ホルスター。


 ユリウスは二人の姿を認め、短く頷いた。


「エレノア。来るぞ」


「はい」


 ユリウスは扉を開け、アレクを招き入れる。

 碧の瞳を一度だけ見て、口角をわずかに上げると、そのまま部屋を後にした。


 一つしかない燭台の火が、壁を赤く揺らす。


 エレノアは静かに右手を差し出した。

 アレクは歩み寄り、跪き、その指先に口づける。


「アレク。行こう」


「はい、殿下」


 三人は陣へと向かう。


---


 後方陣では、王都から連れてきた騎士と技師たちがすでに待機していた。

 簡易テーブルの上に、解析装置や魔導兵装の遠隔制御盤が次々と並べられていく。


 エレノアが姿を現すと、一斉に頭が下がった。

 彼女は手を挙げ、それを制する。


 セドリックが駆け寄り、頭を下げた。

 濃灰のロングコートが、松明の火を受けて淡く光る。


「先ほど、斥候部隊が出発したとの報告がありました。

 ……まだ、敵の魔導兵器の姿は確認されていません」


「……そうか」


 エレノアたちは歩を進める。


 前方の陣では、ユリウスが立ち、

 グンターは椅子に腰掛けたまま、平原を見据えていた。


 東の空が、ゆっくりと白み始めている。



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