19 歯車は、夜に噛み合う
陽が落ち、星が瞬き始める頃、灰簾宮からは淡い青白い灯りが、霧のようにわずかに漏れていた。
裏門前――明かりも灯されていない場所に、装飾のない馬車がひっそりと停まる。
先に降りた従者が周囲を確かめ、続いてレオンハルトが一歩、地に降り立つ。
その肩に、すぐさま深い色の外套が掛けられた。
王太子はフードを目深に被ると、音もなく歩き出す。
ほどなく、その姿は灰簾宮の闇へと溶け込んだ。
扉の前で控えていたヴェラが静かに頭を垂れる。
レオンハルトは一瞥だけを返し、扉は音もなく開かれた。
ティーサロンには、テーブルの上の小さな魔導ランプだけが灯されている。
厚いカーテンは引かれ、月光すら届かない。
青白い光に照らされながら、エレノアはティーテーブルの脇に立っていた。
レオンハルトは部屋に入る直前、従者たちに向けて小さく手を挙げる。
従者とオズワルドは外に残され、扉が閉まった。
中に残ったのは、エレノアとレオンハルト、そしてヴェラだけだ。
王太子はフードを払うように外し、懐から一通の書簡を取り出しながら歩み寄る。
「ユリウスからだ」
エレノアはそれを受け取り、ソファに腰を下ろした。
簡素な封蝋。手にざらりと触れる、質の悪い紙。
並ぶのは迷いのない大きな文字だが、一画一画は揃い、几帳面さがにじむ。
エレノアの口角が、わずかに上がった。
レオンハルトはそれを横目に、高背椅子へと身を預ける。
「焦りが見える」
「兄上、そのようだな。
敵部隊はまだ小さいが、“小型の魔導兵器がありそうだ”と書いてある」
「だが、アルトルミナの辺境には“魔導兵器”の知識がない。判断がつかないとも記されていた。
部隊が小さいうちに叩けるなら叩きたい――それがユリウスとファルケンハイトの見解だ」
「陛下は?」
「情報は渡していない。邪魔されるだけだろう。
“若手に経験を積ませたい。第一騎士団の若手と、魔導工廠の技師を辺境視察に向かわせたい”とだけ進言した。
そのまま通ったよ」
エレノアは鼻で笑う。
「兄上も、なかなか意地が悪い」
「そうか?」
「“小型の魔導兵器”か。奪えないものか。分解してみたい」
「……エレノア」
「分かっている。冗談だ」
王女は書簡を畳み、封筒に戻した。
「奪えるなら奪って研究すればいい。
だが、その場合はセドリックにやらせろ。お前はいじるな。
彼なら危なげなくやり遂げる」
「……まずは、私の目で見てみよう。ヴァルハルトの魔導兵器とやらを。
楽しみだな」
「……エレノア」
「分かっている。今回はユリウス兄上の判断に従う」
レオンハルトは静かに立ち上がり、手を伸ばす。
エレノアの頭を、ほんの一度だけ撫でた。
「私はお前の頭脳を信じている」
エレノアが顔を上げたとき、レオンハルトはすでに彼女を見下ろしていた。
「第三王女エレノア。
お前は決して“無才”などではない。だが、表には出せぬ。許せ。
私の下で、よく働け」
エレノアも立ち上がり、胸に手を当て、わずかに膝を曲げる。
「畏まりました。王太子殿下」
レオンハルトは小さく笑みを残し、踵を返す。
ヴェラが音もなく扉を開け、王太子の姿は薄闇に消えた。
扉が閉じてもなお、エレノアはしばらくその先を見つめていた。
やがて、わずかに震える息を吐く。
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セドリックはアレクに紙束を渡した。
訓練の合間に魔導工廠へ“遊びに来た”はずのアレクだったが、その内容に目を通し、苦く笑う。
「……やはり、バレていましたか」
作業台の前に腰掛けたまま、セドリックは脇に立つアレクを見上げ、穏やかに微笑んだ。
「進捗を聞いてこい、と言われたのではありませんか?」
「その通りです」
セドリックは白衣の裾を軽く払うようにして立ち上がり、無言のままラボの奥へ向かう。
アレクは慌ててその背を追った。
大型魔導炉の前。
青白い光を放つ炉を囲むように、複数の魔導兵装が整然と並べられている。
セドリックはその前にしゃがみ込み、床に裾を落としたまま口を開いた。
「アレク卿が選抜した騎士八名分、用意しました。
従来の兵器搭載型ではなく、身体強化と軽量化に特化した――剣で戦うための《ヴァレリア型魔導兵装》、その汎用機です」
アレクも隣に屈み、恐る恐る装甲に指先を触れる。
魔導炉の光を受けて鈍く輝く表面は、ひやりと冷たい。
「重さは通常のプレートアーマーより、わずかに重い程度に抑えました。
魔導兵装に不慣れな騎士でも、違和感なく動けるはずです……たぶん」
アレクは息を呑み、顔を上げる。
セドリックはいつもと変わらぬ穏やかな表情だが、微かに疲労の色が滲んでいた。
「……かなり、無理をされたのでは?」
翡翠色の瞳がゆっくりとこちらを向き、柔らかく細められる。
セドリックは立ち上がり、白衣のポケットに手を差し込んだ。
「戦場では、僕たちエンジニアも走り回ります。
ですが、騎士の皆さんほど前には出ません。
今が一番、踏ん張りどころですから」
アレクも立ち上がり、小さく頷いた。
「……頼りにしています」
そして、先ほど渡された書類へ再び視線を落とす。
「セドリック殿の婚約者、ハルトマン嬢も技師として腕を上げていると聞きました。
ですが、この名簿に名前がありません。連れて行かないのですか?」
魔導炉の低い稼働音が、二人の間に静かに落ちた。
セドリックは、苦く笑う。
「彼女は連れて行きません。
戦場には……連れて行きたくないのです。
今回の“辺境視察”のことも、リアには“出張に行く”としか伝えていません」
一瞬、視線を落とす。
「……甘いですよね、僕は」
「そんなことはありません」
アレクが即座に否定すると、セドリックは一度だけ小さく息を吐き、ゆっくりと顔を上げた。
翡翠の瞳には、技術者としての覚悟と、個人としての恐れが同時に滲んでいる。
「それから――急ごしらえにはなりますが」
静かな声で、しかし迷いなく告げる。
「アレク卿専用の、ヴァレリア式魔導兵装を造らせていただけませんか」
「……え?」
「ぜひ」
「それは……光栄ですが、よろしいのですか?」
「エレノア王女殿下から許可は得ています。
“お前の好きにやれ”と」
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二人は強化防御壁に囲われた箱型の実験場へ移動し、セドリックは中央へとアレクを導いた。
「では、ここで剣を振ってみてください」
そう言われ、アレクは一瞬だけ瞬きをする。
「……このままで、ですか?」
鎧も兵装も身に着けていない。
騎士団制服のままの姿で。
「ええ。いつも通りで構いません。
型でも、実戦を想定した動きでも」
アレクは小さく頷き、セドリックが十分に距離を取ったのを確認してから、サーベルの柄に指をかけた。
抜刀音は、驚くほど静かだった。
刃はまるで最初からそこにあったかのように、自然に彼の手に収まる。
足を肩幅ほどに開く。
重心は低く、だが沈み込みすぎない。
――踏み込み。
水平の一閃。
空気が裂ける音が、遅れて耳に届く。
刃が返り、斜め上からの斬撃。
体をひねり、逆袈裟。
動きは流れるようで、どこにも無駄がない。
剣先は常に、次の一手を封じる位置にあった。
派手な跳躍も、力任せの振り下ろしもない。
だが、どの一太刀にも迷いがなく、確実に“相手を終わらせる”ための角度と速度がある。
最後に一歩引き、刃を止める。
呼吸は乱れていない。
肩も上下していなかった。
「……これで、よろしいでしょうか」
穏やかな声。
セドリックはしばらく、言葉を失ってアレクを見つめていた。
筋肉は誇示されず、動きの中にだけ存在する。
しなやかで、研ぎ澄まされ、徹底して理性的。
――なるほど。
静かに息を吐く。
――これは、力を振るう剣ではない。
――守るべきものがある者の剣だ。
メモ用のボードが、わずかに震えた。
手が、震えていた。
「……美しい剣でした」
アレクはきょとんとした表情でこちらを見て、少し遅れて頭を下げる。
「……ありがとうございます」
「ラインハルトさんやガレスさんの剣が“軍神”だとするなら――
これは違う世界の剣です」
セドリックは続けた。
「生きるための。
生かすための剣。
言うなれば――生還者の剣」
アレクの瞳が大きく見開かれ、胸の奥がじわりと熱くなる。
彼の剣はいつも“美しい剣”とだけ評されてきた。彼の“美貌”に見合う剣筋である、と。
片手で顔を覆う。
「セドリック殿……。貴方は、本当に……」
――この人には、敵わない。
セドリックは書き込みだらけのボードを抱え、アレクの前に立つ。
「アレク卿。時間はありません。
ですが、王女殿下を守れるのは貴女だけです。
そして、その装備を整えるのが僕の役目です」
静かに、しかし強く。
「研究者として。
エンジニアとして。
やれるだけのことを、やりたい」
差し出された手を、アレクは力強く握り返した。
二人の口角が、同時に上がった。
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灰簾宮、謁見の間。
銀糸の敷物の上を、黒のロングコートの裾が翻る。歩みに合わせ、裏地の真紅が艶やかに覗いた。
前を開けたコートの下には、光沢を抑えた黒の制服。胸元の紋章入りの徽章が、青白い光源を鋭く弾く。
しなやかな長い脚に沿う黒地の布が、無駄のない動きを際立たせていた。
クラリッサ・ホルンは、音ひとつ立てずに歩み入る。
濃灰の立ち襟ロングコート――工廠の上級技師正装を纏ったセドリックの隣に並ぶと、二人は揃って深く頭を垂れた。
ヘルマンを迎えた時と同様、高背椅子にはエレノアが座している。
右斜め後ろには、剣を床に立てたアレク。左脇にはレオンハルトが立つ。
エレノアが小さく頷いた。
「よく来てくれた。面を上げてくれ」
二人が顔を上げる。
「エレノア王女殿下。
魔導機関車鉄道上級技師、クラリッサ・ホルン殿をお連れしました」
セドリックが柔らかくクラリッサを見ると、彼女は無表情のまま小さく頷いた。
そしてエレノアへと向き直る。
きっちりとまとめられた銀の髪。澄んだ灰青の瞳、その下にある小さな泣きぼくろ。
女性にしては上背があり、凛とした佇まい。
――エレノアは、思わず息を呑んだ。
「クラリッサ。セドリックから聞いているかもしれないが、此度の“辺境視察”にはお前の力を借りたい。
人数は精々二十名程度だが、魔導兵器を王都から持ち出す。
お前にも無理を強いることがあるかもしれない」
クラリッサの口角が、僅かに上がった。
「王女殿下、お任せください。
わたくしが、無事に送り届けさせていただきます」
低く澄んだ声は、軍事司令官のそれに近い。
言葉は短く、しかし迷いがない。
エレノアは、肘掛けに置いていた手に力を込めた。
――そして、席を立つ。
その瞬間。
アレクは一切の言葉も視線もなく、剣を床から引き上げた。
音を立てずに腰のホルダーへ収め、自然な動作で半歩、王女の斜め後ろへと位置を変える。
まるで、最初からそう決まっていたかのように。
レオンハルトが、僅かに目を見開いた。
エレノアは足早にクラリッサの前へ立つと、迷いなく両手を取った。
「頼りにしている」
クラリッサの肩が、ぴくりと揺れる。
彼女は反射的にアレクを見た。
――彼は、表情一つ変えていない。
続いてセドリックを見ると、セドリックは穏やかに微笑み、小さく頷いた。
それを見て、クラリッサはようやく理解したように、エレノアへ視線を戻す。
瞳を柔らかく細めた。
「はい。ご期待に添えるよう、尽力させていただきます」
エレノアは、なおも彼女の手を握ったまま振り返る。
「見ろ、アレク!
クラリッサは美しいな! これでアルトルミナ唯一の女性上級技師なのだぞ!?
信じられるか!?」
エレノアの頬は赤く、分かりやすく興奮している。
アレクは、わずかに口角を上げ、小さく頷いた。
「ええ。誇らしいことです」
「ふふっ」
セドリックが堪えきれずに笑い、クラリッサも苦く息を吐いた。
レオンハルトは額に手を当て、深くため息をつく。
「エレノア……彼女を困らせるな。
……まったく」
だが、その声には、どこか呆れと同時に安堵が滲んでいた。
“辺境視察”を前にしているとは思えぬほど、
謁見の間には一瞬、穏やかな空気が満ちる。
――いよいよ、彼らは辺境へ向かう。




