18 高台より、辺境を望む
灰簾宮、ティーサロン。
エレノアはカップに口をつけ、ひと呼吸置いてから、静かにテーブルへ戻した。
つい先ほどまで、講義中にセドリックから聞いた話を、勢いのままアレクに語り続けていた。
だが、今は違う。
アレクはそれを穏やかに見つめている。
彼女の青紫の瞳が、つと上がり、アレクを見返した。
「アレク」
名を呼ばれ、アレクは自然と背を正す。
エレノアの青紫の瞳が、まっすぐに彼を捉えていた。
「私が“無才の王女”であり続ける理由を、兄上が話していたな。
だが――あれは、すべてではない」
アレクは膝の上で僅かに拳を握る。
「アレク、私にはもう一人兄がいた」
エレノアが視線を下げ、テーブル上の真鍮象嵌の柄にそっと指を添わせた。昼の光が窓から差し込み、鈍く光を返している。
「正妃殿下はレオンハルト兄上を産んだ。
その後に第一王女であるアレクシア姉上。
側妃殿下も、第二王女であるセシリア姉上を、アレクシア姉上の誕生とほとんど同時期に産んでいる」
華奢な指が辿るのは、テーブルの模様ではなく王家の道筋。
部屋に静かな呼吸だけが横たわる。
「そこまでは良かった。
以前言ったが、陛下は“王と王太子以外が力を持つこと”をひどく恐れている。
そのため、陛下は側室に男児を産ませるつもりは無かった」
指先は一つの花の上をぐるりと回った。停滞する空気を象徴するように。
「セシリア姉上を出産してからしばらくして、側妃殿下はもう一人男児を産んでしまった」
指が止まる。
エレノアの視線はずっと、テーブルに向けられたまま。
「その子どもは――処分された」
短く、区切る。
それ以上の説明はなかった。
アレクの喉が、わずかに鳴った。
「レオンハルト兄上に何かあれば、次の王太子になるのはこの子どもだ。陛下は“側妃腹の王太子”など、許せなかった」
またエレノアの指先が、柄をたどる。迷うように、ゆっくりと。
「それからしばらく経ってから、やっと、正妃殿下がもう一人の男児を産んだ。これがユリウス兄上だ。
王太子の予備が生まれたことで陛下は満足された。駒として使える女児も手元にすでに二人いるしな。
だから、正妃殿下と側妃殿下は離縁された」
青紫の瞳が、ふっと持ち上がり、アレクを見た。
ほとんど変わらぬ表情。
だが、その奥で、ほんのわずかに揺れるものがあった。
アレクが僅かに首を傾げると、金の髪は蜂蜜色に溶け、温かみを帯びる。
エレノアの視線がまた落ちる。
「だが、まわりがそれを許さなかった。“予備”が一人では心もとないと、陛下に意見したのだ。
陛下はしぶしぶまた新たな側室を迎えた。
だが、生まれたのは、王女だった。
陛下はがっかりした。もう子どもはいらないとご決断されたのだ。
それで側妃殿下はまた離縁され、興味のない女児が手元に残った」
――第三王女、エレノアがそうやって誕生した。
「我ら兄弟が“処分された”と知っているのは一人だけだ。
だが、それが全てだといい切れない。
レオンハルト兄上と私の年齢差は十歳ある。十年の間に、陛下のそばにいた子どもを産める女は三人もいたのだ。
もう一人くらいいたって不思議じゃないし、“いた”と言われても、我らは驚かない。
――王宮とはそういうところだ。アレク」
エレノアがカップを持ち上げ、一口飲んだ。カップをおろし、静かにテーブルに置くと、アレクを見た。
澄んだ碧の瞳に少しだけホッとしたように息を吐くと、エレノアの口角が僅かに上がる。
「お前を巻き込んでしまったことは、悪いと思っている。
だが、私は結果的に、よく知らない外国に売り飛ばされず、お前という婚約者を得られた。
怪我の功名だが、良かったと思っている」
アレクは小さく頭を下げた。
「エレノア様……。そのように言っていただけて、光栄です」
エレノアはふっと笑った。
「……空気を変えよう」
彼女はそう言って立ち上がった。
「バルコニーにでも出ようか」
王女が立ち上がると、遅れてアレクも立ち上がる。
彼が、視線を壁に控えていたオズワルドにやると、老齢の執事はアレクに彼の剣を差し出した。
受け取り、腰のホルダーにサーベルを差す。
僅かな金属の音が、すみれ色の部屋に落ちた。
エレノアはそれを見届けると、背を向けてバルコニーに歩き出し、ヴェラが静かに扉を開け放つ。
陽が傾き始めている。
アレクは僅かに目を細めた。
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手すりの向こうには、王都ルミナリエン。
立ち並ぶ黒い尖塔群から、灰の煙が吐き出される。
赤く染まり始めた空に、それは滲むように溶けていった。
白い月はすでに姿を現し、その下を魔導飛行船が、ゆるやかに横切っていく。
街の明かりがぽつぽつと灯りはじめ、
道に並ぶ魔導灯が、道しるべのように順に点っていった。
少し冷たくなった風が、手すりに手をついて立つエレノアの銀髪をそよがせる。
アレクは彼女の半歩後ろの風下に立ち、王女の周辺に素早く目を走らせた。
「セドリックが魔導戦闘機の設計図を見せてくれた。
彼がコアの作製までを担当し、その先は魔導飛空艇の技師を呼んで造らせることになる」
王女は右手を高く掲げ、空に浮かぶ魔導飛行船の動きに合わせて、ゆっくりと右から左へと手を動かす。
横から差し込む夕陽が、彼女の整った横顔を金色に縁取った。
「どのような姿なのだろうな。さすがに赤には塗らないだろうが。
きっと格好が良いのだろうな」
エレノアがアレクを振り返る。
「……だが、今回の“辺境視察”には間に合わんだろう。
最低限の装備で行くことになる」
アレクは一度目を伏せ、エレノアの青紫の瞳をきちんと見返した。
「承知の上です」
エレノアの銀の髪と、アレクの金の髪が風にさらわれる。
「辺境は、どのようなところなのだろうな。
私は、物心ついたときからずっと、灰簾宮の中にいた。
……外に出るのは、実は初めてなのだ」
彼女の瞳に光が宿るのを、アレクは目を細めて見つめた。
――広い世界を、その美しい瞳に映して差し上げたい。
――その時、この瞳はどれほど輝かれるのだろうか。
「……エレノア様。必ずお守りいたします」
エレノアは口角を上げて頷いた。
再びアレクに背を向け、王都を眺める。
「能力を隠さずに生きるとは、どういう感じなのだろうな。
私が興味があるのは“魔導”だけだ。
せめて、その分野で励もうとする芽を、
摘まれずに済む世の中にはできないものか。
新しい技術というだけで嫌煙され、女だというだけで、王都から離れているというだけで、魔導に触れられないなんて、悔しいではないか」
エレノアが空を見上げる。
陽がゆっくりと落ち、星々が瞬きはじめていた。
「……できるだろうか。私に」
「エレノア様なら、できますよ」
優しい声音に、エレノアはさっと振り返る。アレクを見て、目を細めた。
「お前はその美貌を褒められるのは嫌いなのか?」
「え? いや、そういうわけでは……」
「お前の美貌は……そうだな、“精霊王”だ。
性別が曖昧で、清廉で、淡く、細く見える。
森の湖畔に立っていれば、それだけで絵になるだろう」
エレノアは小さく首を傾げる。アレクの濃紺の制服を眺めた。
「だが、近づけば分かる。
お前は“騎士”だ。
理性的に鍛え上げられた体躯。研ぎ澄まされた神経。
今も私のまわりのあちこちの気配を探っているのだろう?」
アレクは淡く笑んだまま、静かにエレノアの瞳を見つめる。
「私はそれを誇らしく思う。
アレク、私の騎士よ。頼りにしている」
「……エレノア様」
「そろそろお開きだな。戻ろう」
エレノアが部屋に戻る。
夕陽が西の丘に沈みきる。
あの向こうにある辺境グラウベルト。
エレノア達は、淡々と戦の準備を進めている。




