17 名を残さぬ王女
「お断りします」
灰簾宮――謁見の間。
壁一面を覆う淡い灰紫の絹壁布は、角度によって銀砂のような光を返し、部屋全体に薄い霧が漂うような静謐さを与えていた。
正面、ひときわ高く置かれた黒檀の高背椅子には王家の双獣の紋章。華美ではないが、鈍い金の縁取りが、座す者の権威を静かに示している。
その椅子にエレノアが身を預け、わずかに首を傾げた。
濃銀の髪がさらりと流れ、彼女の冷静な瞳とともに場の緊張を支配する。
沈黙。
息を呑むことすらためらわれる空気を破ったのは、魔導建築の天才――ヘルマン・クロウフォードの低い声だった。
「私はまだ何も言っていないだろう?」
エレノアは肘掛けに手を添えたまま、口角をわずかに吊り上げた。挑発にも似た、不敵な笑み。
彼女の右後方にはアレクが控える。
濃紺の騎士服、剣は床に静かに立て、両手は柄の上に重ねる姿勢。わずかの揺らぎも許さぬ護衛の構えだ。
左側にはレオンハルトが立つ。
銀糸を控えめに施した濃藍のコートに、淡紫のクラヴァット。油断なく場を見渡す瞳に、王太子としての威厳が満ちていた。
王族二人と護衛が放つ、静かだが圧倒的な緊張。
床は墨色の石材、入口から高背椅子へ向かうように銀糸の敷物がまっすぐ伸び、部屋の主が誰であるかを語っていた。
「うわあ……ヘルマンさん、本当に黙っててください。一生のお願いですから!」
ヘルマンの隣で青ざめているのは、金髪碧眼の青年、ルキウス・ヴァルマー。
黒いフロックコートに身を包んだ如何にも貴族然とした姿だが、立場は王立都市整備局の主任技監――若くして破格の権限を持つ男だ。
今回、エレノアはレオンハルト名義で二人を召喚していた。
ルキウスが長年口説き落としたことで、ヘルマンは隣国からアルトルミナへ招かれ、現在王都巨大ランドマーク――新魔導塔の設計を共に行っている。
その天才性と偏屈さは国境を越えて知られていた。
エレノアの狙いは、魔導塔の“ネットワーク化”。
この国では各地に魔導塔が点在しているが、いずれも独立した設計で繋がりを持たない。
王都から辺境へ――動力も通信も流れないのが現状だ。
塔が繋がれば、国の在り方が変わる。
彼女はそれを見据えていた。
「魔導塔を繋ぎたい。民の暮らしは、確実に豊かになる。
だが、今ある塔は設計思想も規格もばらばら。すべて再構築する必要がある。
――ヘルマン、お前の自由な設計が欲しい。
ルキウス、お前はどう考える」
促され、ルキウスは息を呑んで頭を垂れた。
「王女殿下……素晴らしいお考えです」
「そういう前置きはいい。顔を上げ、意見を述べろ」
叱咤でも怒声でもない。
エレノア特有の、無駄を嫌う率直さ。
ルキウスは顔を上げ、星を宿したような青い瞳で彼女を見つめた。
「実現すれば、あのランドマークは王都を越え、国の中心となるでしょう。
都市整備局の主任技監として……誇らしい構想です」
そう言いながら横目でヘルマンを伺うが、彼は壁を見つめたまま動かない。
「王都を離れれば離れるほど魔導の恩恵は薄れます。
将来を考えるなら、インフラ整備は必ず向き合うべき課題だと、私も考えます」
エレノアは肘掛けに顎を預けたまま、わずかに笑んだ。
「だそうだ。私も同意見だ。……ヘルマン、聞いているか?」
長身の銀灰髪の男が、ようやく王女に視線を向ける。
切れ長の瞳の奥に、静かな拒絶があった。
「辺境がきな臭いという話は俺の耳にも入ってる。
いくら綺麗事を並べても、結局は“軍事目的”だろう?
勘弁してくれ。俺を戦に巻き込むな」
その瞬間、エレノアの背で衣擦れの音。
アレクが半歩踏み出そうとしたのを察し、彼女は小さく左手を上げて制した。
ルキウスはうつむいたまま、顔を青くしていた。
レオンハルトは穏やかな笑みを保ったまま、二人を静かに見つめている。
天井から下がる灯具には、重厚なシャンデリアではなく、魔導式の青白い光源が編み込まれていた。
炎の揺らぎはなく、湖面のように凪いだ光が、部屋の影をやわらかく整えている。
壁際には灰簾宮の使用人、そしてレオンハルトの従者たちが整然と控え、空気にわずかな緊張を乗せていた。
「ヘルマン、お前は“生きた塔”が造りたいのだろう?
“人に寄り添う塔”が。
軍事とは民を守るための力だ。何が不満だ?」
ランプの青が、ヘルマンの藍色のコートに落ちる。
彼は鼻で小さく笑った。
「偉い人間はみんなそう言う。“私のために塔を造れ”と。
力を誇示して何になる」
「力がなければ、蹂躙される。
私は自分のためではなく、民のために造ってほしいと言っている」
言葉が石壁に吸い込まれていく。
置き時計の歯車が静かに噛み合う音だけが、微かに響いた。
「……“無才の王女”。
俺は殿下の何を信じればいい」
エレノアは口角を上げた。
背後でアレクの剣を支える手に力がこもるのを感じ、彼女は左手を軽く上げて制した。
「本当のことだ、アレク。怒るな」
「ですが……」
彼をたしなめ、エレノアは再びヘルマンへ視線を戻した。
「お前の言う通り、私は“無才の王女”だ。
そうあらねばならない理由がある。
私がどれほど働いても、功績は表に出ることはない。
――だが、それで構わん」
ヘルマンの切れ長の瞳が、わずかに細められる。
「ヘルマン。会えてよかった。
お前の作った隣国の魔導時計塔……本当は見に行きたいが、私はそう自由に動ける身ではなくてな」
エレノアは軽く笑った。
「また呼ぶ。今日は下がれ」
ルキウスとヘルマンは深く頭を下げ、静かに銀糸の敷物を踏んで退出していく。
扉が閉まり、
謁見の間には呼吸の音だけが帰ってきた。
エレノアは高背椅子から立ち上がると、ぱっとアレクの前に歩み出た。
「アレク、見たか?
私はあのヘルマン・クロウフォードと話したぞ。
……噂通り、すごい偏屈だったな。
少し仲良くなれたら魔導塔の設計図を見せてほしいと言いたかったが……さすがに躊躇われた」
アレクは驚き、そしてほっとしたような顔でサーベルを鞘へ戻す。
「エレノア様は……本当に」
レオンハルトが苦く笑いながら口を開く。
「エレノア、お前が命じれば設計図くらい見せるはずだぞ? 遠慮する必要はない」
「兄上、そんなことをすれば、本気で嫌われるだろう」
その返しに、レオンハルトは堪えきれず吹き出した。
「……確かに。あれは機嫌を損ねたら二度と来なくなりそうだ」
三人の声が静かな謁見の間で重なり、
ほんの一瞬だけ、戦の影を忘れさせる温かな空気が流れた。




