15 王家に潜む影
「陛下。ヴァルハルトの斥候部隊との衝突があったと伺いましたが」
重厚な油絵の歴代王が壁からじっと見下ろす。
深紅のベルベットのカーテンは閉ざされ、薄暗い室内には古い木の匂いが濃く漂っていた。
高背椅子に身を沈めていた父王――アルフォンス三世は、机の前に立つレオンハルトを満足げに見上げる。
「さすが我が王太子、耳が早いな。
だが問題ない。グラウベルトにはファルケンハイトの軍団がいる。今回も無事に押し返した」
黄金の揺れるランプが父王とレオンハルトの瞳を柔らかく照らした。
「……ですが、いつものごく少数の偵察ではなく、今回は小隊規模だったと」
「お前は心配性だな」
「陛下。ヴァルハルトは魔導軍事に大規模投資しています。対して辺境は魔導偵察機すら持たず、魔導兵装も持っていないのです。
今すぐ支援を――」
父王は片眉を冷たく持ち上げた。
「魔導など“多少強いだけ”の力だろう。
辺境には鉄槍境界軍がいる。十分だ。……もう下がれ、忙しい」
レオンハルトは口を引き結び、静かに頭を下げて部屋を出た。
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廊下に出ると、硬い石床に軍靴が乾いた音を打つ。
高窓から差し込む赤い陽光。
季節の花の香りが、妙に鼻についた。
――ユリウスとファルケンハイト伯がいる限り、しばらくは持つ。
――だが魔導兵器の前に、アンティークの槍がどれほど役に立つ。
――どうする。
――どうやって“持たざる辺境”を守る。
思考に沈みながら歩くレオンハルトは、執務室前でふと足を止めた。
老齢の男――軍務卿コンラッド・エーレンベルクが佇み、王太子を認めて深く一礼する。
「入れ。話したいと思っていたところだ」
二人は滑るように執務室へ入った。
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「どう思う?」
扉が閉まるより早く、レオンハルトは問いかけた。
コンラッドは用意された椅子を辞退し、背筋を伸ばしたまま王太子を見る。
濃緑の軍服、厚い胸板。肩章とサッシュが鈍い光を返す。
「これまでは地形偵察に過ぎませんでした。
ですが今回の衝突で、“辺境には魔導兵器がない”ことは確実に露見したでしょうな」
「私もそう見ている」
レオンハルトは執務机に軽く寄りかかり、白銀の髪を落としながら天井へ視線を向けた。
濃紺の壁布の上に並ぶ各国地図。
ヴァルハルトが領域をじわじわと広げている赤い印が、不気味に浮かび上がる。
「次に狙われるのは……アルトルミナだ」
軍務卿の灰色の瞳が鋭く細められた。
「殿下。どう動かれますか」
レオンハルトは瞳を伏せ、わずかに首を振った。
「ユリウスもエレノアも、まだ表には出せん。
だが、辺境を抜かれれば我が国は一瞬で総崩れだ」
コンラッドもまた地図へ目を遣る。
王太子の危惧の本質を理解していた。しかし――使える力を使わねば国は守れないという緊張もあった。
「ユリウス殿下にはファルケンハイトがおります。お力を借りては?」
その言葉に、レオンハルトの淡紫の瞳に影が落ちた。
従者が点けた魔導ランプの灯りが細く揺れる。
軍務卿は王太子の沈黙の色を読み取り、静かに目を伏せた。
「……忘れたのか? 正妃の実家のことを。
陛下は“王と王太子以外が力を持つこと”を何よりも嫌う」
レオンハルトの声は低かった。
「まだだ。ユリウスはまだ出せない。私がやる」
王太子は机から離れ、軍務卿と従者を見渡す。
「だが、ユリウスの助けなしではヴァルハルトは退けられん。
彼とは密に連絡を取る。――ユリウスからの書簡はすべて私に直接渡せ。陛下には決して見せるな。必要があれば私が説明する」
一同が深く頭を垂れる。
レオンハルトは卓上の魔導クロノメーターを手に取り、時刻を確認した。
「今日は“家庭教師”と“婚約者との茶会”の日だったのだが……セドリックは帰ったか。アレクはまだいるだろうか。……まぁ、すれ違いでもいい」
そう呟いて扉へ向かう。
「馬車を用意しろ。エレノアのところへ行く」
コンラッドの横に並び、短く視線を交わす。
「殿下」
「私はまだ手駒が少ない。玉座は遠い……踏ん張りどころだ」
「私は貴方について参ります」
「心強い。頼むぞ、コンラッド」
王太子は軍務卿の肩を軽く叩き、迷いなく歩き去った。
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灰簾宮のティーサロンへ足を踏み入れた瞬間、レオンハルトは思わず口角を上げた。
立ち上がったアレクが驚いたように礼を取る。
だが彼がいたのは、エレノアの二人掛けのソファの“隣”。
本来ならティーテーブルを挟んで座るはずの場所だ。
しかもエレノアは、前髪を美しく編み込み、いつも隠していた瞳と額をすっきりと出している。
「へぇ……なるほど。ずいぶん距離が縮まったものだな」
「何の話だ?」
エレノアはむっと眉を寄せる。アレクは朗らかな微笑を保ったまま、苦く笑った。
「先ほどまでセドリック殿が同席されていましたので」
「なんだ、ただの偶然か。……でも、顔を出す気になったんだろう?」
エレノアはそっぽを向く。アレクは困ったように微笑む。
「兄上、何かあったんだろう? ふざけていないで早く話せ」
「せっかちな妹だ」
レオンハルトは高背椅子に腰を下ろし、アレクにも座るよう促す。
彼が席に着くのを確認すると、王太子は息をひとつ吐いた。
「辺境グラウベルトで、ヴァルハルトの斥候小隊と衝突が起きた。
今までは偵察とスパイが常だったが……小隊規模は、初だ」
アレクとエレノアの表情が同時に強張る。
「問題はそこからだ。
ヴァルハルトは軍事魔導に狂ったように資金を注ぎ、領土を次々と飲み込んでいる。
そんな国に、“アルトルミナの辺境に魔導兵器が一切無い”ことが露見した可能性が高い」
魔導ランプの青白い灯りがゆらぎ、室内に薄寒い影を落とした。
「今回は鉄槍境界軍とファルケンハイト伯が押し返した。あの男ならしばらくは持つだろう」
アレクが息を呑む。
――グンター・ファルケンハイト。騎士団に所属する者で彼の名を知らぬ者はいない。“歴戦の猛者”と畏怖される男だ。
「辺境には、ユリウス兄上もいる」
エレノアの声は震えていなかった。だが、握った拳の白さが、緊張の深さを物語っている。
「そうだ。だが、魔導兵器が無い以上、魔導で押されたら終わりだ」
ヴェラが淹れた茶を、レオンハルトは一息に飲み干す。
「ユリウスは優秀だ。だが――優秀すぎる」
彼の淡紫の瞳が、ゆっくりとアレクをとらえた。
「アレク。これは……王家の暗部だ。お前を信じて話す」
アレクは姿勢を正し、頷いた。
「陛下は正妃に二人目の男児、ユリウスを産ませたあと、すぐに離縁した。
王太子の予備としての男児が一人いればいいという判断だろう。
だが正妃の実家は欲を出した。王太子を産んだのだからと権力を欲したんだ。
――その結果、我が国の公爵家が一つ、名を消すことになった」
アレクの背筋に寒気が走る。
エレノアが微かに眉を曇らせた。
「この王城には正妃も側室ももういない。王の血を継ぐ子どもを産んだ“力を持ちうる女たち”がどうなったか、もはや言うまでもないだろう?」
王太子は鼻で笑った。
「陛下は血の呪いに取り憑かれている。“王と王太子以外が力を持つこと”をひどく恐れている」
アレクは拳を強く握った。
――“無才の王女”を演じる理由。
――エレノアがどれほどの恐怖と隣り合わせで生きてきたか。
「ユリウスは軍才がある。だが、功績を上げれば……父の目に触れる。
だから表に出せん。まだ早い」
沈黙。
魔導ランプの青が、白銀の髪を淡く照らす。
「だが魔導に疎い我が国で、辺境が落ちれば一瞬だ。
ユリウスの力も、魔導も、今こそ必要になる」
レオンハルトは顔を上げ、まっすぐエレノアを見る。
「エレノア、私が立つ。すべて私の名で動く。
お前の知識と魔導への洞察が要る。
だが表に出すことはできない。……許してほしい」
エレノアの唇が震えた。
隣でアレクがそっと背に手を添える。
「……私の力など、本当に役に立つのだろうか」
「エレノア様」
アレクの低く優しい声。
エレノアは彼を見る。
その眼差しに支えられ、深く息を吸った。
「兄上。私も……やれるだけのことを、やる」
レオンハルトは小さく微笑み、頷いた。
「動く時が来た。……アルトルミナは、このままでは終わる」
置かれた茶器が静かに鳴り、夜の中へ沈んだ。




