表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
14/16

14 心の輪郭が触れたとき

 レオンハルトが大げさなほど大きく手を叩いた。


「楽しかった! 良い試合だった」


 エレノアは厚い前髪の奥に瞳を隠しながらも、唇だけは綺麗に弧を描いている。彼女もまた楽しげに、軽く手を叩いた。


 アレクとセドリックは一度視線を合わせ、立ち上がった。

 王族二人へ深く礼を取ると、再び向き合って手を取り合う。


「楽しかったです。また遊びましょう」  

  

 穏やかに微笑むセドリックに、アレクも微笑みを作る。


「……そうですね」

「ふふ。貴方の勝ちです。良い手でした」

「……はい」


 握手が静かにほどける。

 ヴェラが二人の間へ入って戦術盤を手際よく片付け始めた。


「それでは、僕はこれで失礼します」


 セドリックは王族へ頭を下げると、すっと踵を返し扉へ向かった。


 いつもは講義を行っている昼の早い時間。

 窓の向こうはまだ明るく、柔らかな光が室内に満ちている。

 銀刺繍のカーテンが、光を淡く返して揺れた。


「私はヴァーミリオン主任技師殿をお送りしてまいります」


 アレクも頭を下げ、静かにセドリックの後を追う。


 レオンハルトとエレノアは、その背を黙って見つめていた。

 扉が静かに閉まる。


「エレノア」

「はい、兄上」


 レオンハルトはそっと妹を見た。


「……追いかけないのか?」

「……え?」


 エレノアの長い銀髪がその場にまっすぐ落ち、前髪に隠れた瞳がわずかに揺れる。


「追いかけていいのだぞ? 彼はお前の婚約者だ」

「……追いかける理由など」


 レオンハルトはエレノアの膝の上に置かれた細い手を軽く握った。


「ではなぜ、その指は震えている。

 気になるのだろう? 行ってこい」

「……兄上」

「まったく、本当に手がかかる妹だ」


 エレノアは静かに立ち上がる。

 小さく息をのみ、ふらつきながら扉へ向かった。


---


「セドリック殿!」


 廊下を歩いていたセドリックは足を止め、ゆっくり振り返った。


「あれ? アレク卿、どうされました?」

「お送りします」

「ありがとうございます」


 アレクがセドリックの横に並ぶ。

 二人の足音が静かな石畳に規則正しく響く。


「あの……」

「はい?」


 セドリックが横顔を覗くと、アレクはいつも通りの微笑みを浮かべ、しかし小さく首を振った。


「いえ……なんでもありません」

「そうですか」


 小さな宮殿。すぐに玄関ホールを抜け、外気が二人を包んだ。

 並木の向こうには、魔導工廠の馬車が待っている。


「では。アレク卿、またお会いしましょう」


 柔らかい、変わらないセドリックの笑み。

 アレクの横をすり抜け、馬車へ向かって歩き出す。


 ――自分では絶対に届かない男。


「……セドリック殿!」


「はい」


 呼ばれ、セドリックが振り返る。

 落ち着いた翡翠の瞳。包み込むような声。


 アレクの微笑みが消えた。


 胸の奥を押しつぶす感情が堰を切る。


「なぜ……。なぜ勝ちを譲ってくださったのですか!」


 セドリックは静かに笑んだ。


「勝ちは勝ちですよ。

 僕は負けました」


 ――静かな余裕。

 ――手を伸ばしても届かない世界。


「アレク卿。

 殿下のお側にいるべきは、貴方です。  

 僕ではない。自信を持ってください。

 僕は、貴方に負けたのです」


 アレクは言葉を失った。

 ただ立ち尽くす。


 セドリックは小さく頭を下げ、馬車へ乗り込む。


 黒鉄の車輪が軋みを上げ、ゆっくりと動き出した。


 柔らかな風がアレクの頬を撫でる。


 視界が滲んだ。


 アレクは片手で両目を覆い、肩を震わせた。

 握った拳に力がこもる。


 ――彼には、何もかも見透かされている。

 自分がどれほど怯えているかさえ。


 ――あんな男に、敵うわけない。


---


 エレノアは立ち尽くしていた。


 あのいつも微笑みを絶やさない男が、肩を震わせている。

 背に垂れる金の甘い髪が、かすかに揺れた。


 石畳の脇で風に揺れる木の葉が、さらさらと静かに擦れ合う。

 エレノアは手を伸ばしかけて――一度止めた。


 指先が震えている。


 微笑みの仮面を外したかった。

 でも、悲しませたかったわけではない。


 もう一度、そっと腕を伸ばし、濃紺の背中に触れた。


「アレク……」


 覗き込んだその顔。

 アレクはハッと肩を震わせ、エレノアを見る。

 透明な碧の瞳から、一筋の涙がこぼれた。


 アレクは思わず背を向けた。


「……殿下。今は、見ないでください。

 みっともないから……。

 俺には、近づかないで……」


「なぜ泣く? お前は勝ったではないか」


「違う。あれは譲られたんです……」


「でも…… セドリックに勝てる見込みなど最初からなかっただろう。

 アレク、譲られたのだとしても、お前は天才相手に十分に善戦した。

 なのに、なぜ泣く?」


 エレノアの声が震えた。


 ――どう言えば、いい?

 ――何を返せば、彼の痛みが少しでも軽くなる?


 アレクの金の髪が揺れた。小さく首を振る。


「分かってました。勝てないなんて、最初から分かっていた。

 セドリック殿は才能があって、国に必要とされていて……見目もよくて……。

 それだけじゃない。穏やかで、大人の余裕があって……。

 何より、貴女と並び立てる知性がある。

 ――俺には、何もない……」


「そんなことはないだろう。

 お前は誇り高い蒼輪騎士団の一員だ。騎士爵も持つ。

 見目だって、この国でお前に敵う者はそういないだろう?」


 アレクはイヤイヤと首を振った。


「それでも……俺は……」


「アレク……」


 背に添えた手の震えが止まらない。


「アレク、こっちを向け。……なぁ、お願いだから」


 エレノアの指先が、彼の頬に触れた。

 アレクはゆっくり顔を向け、彼女の前髪へ手を伸ばす。

 瞳をあらわにしたその奥を、吸い込むように見つめた。


 指先が、そっとエレノアの目元に触れた。


「……俺は、貴女の心が――欲しかった」


 口にしてから、アレク自身がわずかに息を詰めた。

 なぜ、こんな言葉が出たのか。

 自分でも分からなかった。


「え……?」


 切なげな碧の瞳。


 エレノアの頬が、じんわりと赤く染まっていく。

 口を開き、言葉を失い、また閉じた。


 そして、小さく息を吐き――ふっと笑う。


「そんな風に思っていたのか。

 ふふ……本当に、不器用な奴だ」


 彼の手を両手でそっと包む。


 アレクは困ったように眉を下げる。


「お互い、不器用だな。……お揃いだ。

 我々は、なかなかお似合いなのではないか?」


 エレノアはまっすぐにアレクを見た。


「私は、お前が悲しむところは見たくない。

 でも、何に喜び、何に怒り、何に心を動かされるのか――それは知りたい。

 良きパートナーになりたい。

 もっと、お前のことを教えてくれ」


「……殿下」


「エレノア、と呼べ。婚約者だろう?

 私の騎士、アレク。お前に“エレノア”と呼ぶことを許す」


「……エレノア様」


 アレクはエレノアの手を額に押し当てた。


 ――悔しいのか。

 ――嬉しいのか。

 ――心が何を望んでいるのか分からない。


 ――ただ一つ。

 この人を、守りたいと思っている自分に気づいてしまった。


---


 玄関扉の影に身を預け、レオンハルトはニヤニヤと二人を眺めていた。


「本当に手が掛かるな、我が妹夫妻は。

 オズワルド、騎士団の馬車が控えているのだろう? 呼んでやれ。

 さすがにあの状態で長居はせんだろ」


「畏まりました」


「私は彼が帰ってから、こっそり帰る。

 エレノアにも思うところがあるだろう。

 私の馬車は少し適当に待たせておけ」


「仰せのままに」


 レオンハルトは踵を返し、静かな宮へと入っていく。


「まったく……」


 その横顔に、小さな笑みが浮かんだ。


 ――我ながら、エレノアには良い婚約者を選んでやれたものだ。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ