14 心の輪郭が触れたとき
レオンハルトが大げさなほど大きく手を叩いた。
「楽しかった! 良い試合だった」
エレノアは厚い前髪の奥に瞳を隠しながらも、唇だけは綺麗に弧を描いている。彼女もまた楽しげに、軽く手を叩いた。
アレクとセドリックは一度視線を合わせ、立ち上がった。
王族二人へ深く礼を取ると、再び向き合って手を取り合う。
「楽しかったです。また遊びましょう」
穏やかに微笑むセドリックに、アレクも微笑みを作る。
「……そうですね」
「ふふ。貴方の勝ちです。良い手でした」
「……はい」
握手が静かにほどける。
ヴェラが二人の間へ入って戦術盤を手際よく片付け始めた。
「それでは、僕はこれで失礼します」
セドリックは王族へ頭を下げると、すっと踵を返し扉へ向かった。
いつもは講義を行っている昼の早い時間。
窓の向こうはまだ明るく、柔らかな光が室内に満ちている。
銀刺繍のカーテンが、光を淡く返して揺れた。
「私はヴァーミリオン主任技師殿をお送りしてまいります」
アレクも頭を下げ、静かにセドリックの後を追う。
レオンハルトとエレノアは、その背を黙って見つめていた。
扉が静かに閉まる。
「エレノア」
「はい、兄上」
レオンハルトはそっと妹を見た。
「……追いかけないのか?」
「……え?」
エレノアの長い銀髪がその場にまっすぐ落ち、前髪に隠れた瞳がわずかに揺れる。
「追いかけていいのだぞ? 彼はお前の婚約者だ」
「……追いかける理由など」
レオンハルトはエレノアの膝の上に置かれた細い手を軽く握った。
「ではなぜ、その指は震えている。
気になるのだろう? 行ってこい」
「……兄上」
「まったく、本当に手がかかる妹だ」
エレノアは静かに立ち上がる。
小さく息をのみ、ふらつきながら扉へ向かった。
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「セドリック殿!」
廊下を歩いていたセドリックは足を止め、ゆっくり振り返った。
「あれ? アレク卿、どうされました?」
「お送りします」
「ありがとうございます」
アレクがセドリックの横に並ぶ。
二人の足音が静かな石畳に規則正しく響く。
「あの……」
「はい?」
セドリックが横顔を覗くと、アレクはいつも通りの微笑みを浮かべ、しかし小さく首を振った。
「いえ……なんでもありません」
「そうですか」
小さな宮殿。すぐに玄関ホールを抜け、外気が二人を包んだ。
並木の向こうには、魔導工廠の馬車が待っている。
「では。アレク卿、またお会いしましょう」
柔らかい、変わらないセドリックの笑み。
アレクの横をすり抜け、馬車へ向かって歩き出す。
――自分では絶対に届かない男。
「……セドリック殿!」
「はい」
呼ばれ、セドリックが振り返る。
落ち着いた翡翠の瞳。包み込むような声。
アレクの微笑みが消えた。
胸の奥を押しつぶす感情が堰を切る。
「なぜ……。なぜ勝ちを譲ってくださったのですか!」
セドリックは静かに笑んだ。
「勝ちは勝ちですよ。
僕は負けました」
――静かな余裕。
――手を伸ばしても届かない世界。
「アレク卿。
殿下のお側にいるべきは、貴方です。
僕ではない。自信を持ってください。
僕は、貴方に負けたのです」
アレクは言葉を失った。
ただ立ち尽くす。
セドリックは小さく頭を下げ、馬車へ乗り込む。
黒鉄の車輪が軋みを上げ、ゆっくりと動き出した。
柔らかな風がアレクの頬を撫でる。
視界が滲んだ。
アレクは片手で両目を覆い、肩を震わせた。
握った拳に力がこもる。
――彼には、何もかも見透かされている。
自分がどれほど怯えているかさえ。
――あんな男に、敵うわけない。
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エレノアは立ち尽くしていた。
あのいつも微笑みを絶やさない男が、肩を震わせている。
背に垂れる金の甘い髪が、かすかに揺れた。
石畳の脇で風に揺れる木の葉が、さらさらと静かに擦れ合う。
エレノアは手を伸ばしかけて――一度止めた。
指先が震えている。
微笑みの仮面を外したかった。
でも、悲しませたかったわけではない。
もう一度、そっと腕を伸ばし、濃紺の背中に触れた。
「アレク……」
覗き込んだその顔。
アレクはハッと肩を震わせ、エレノアを見る。
透明な碧の瞳から、一筋の涙がこぼれた。
アレクは思わず背を向けた。
「……殿下。今は、見ないでください。
みっともないから……。
俺には、近づかないで……」
「なぜ泣く? お前は勝ったではないか」
「違う。あれは譲られたんです……」
「でも…… セドリックに勝てる見込みなど最初からなかっただろう。
アレク、譲られたのだとしても、お前は天才相手に十分に善戦した。
なのに、なぜ泣く?」
エレノアの声が震えた。
――どう言えば、いい?
――何を返せば、彼の痛みが少しでも軽くなる?
アレクの金の髪が揺れた。小さく首を振る。
「分かってました。勝てないなんて、最初から分かっていた。
セドリック殿は才能があって、国に必要とされていて……見目もよくて……。
それだけじゃない。穏やかで、大人の余裕があって……。
何より、貴女と並び立てる知性がある。
――俺には、何もない……」
「そんなことはないだろう。
お前は誇り高い蒼輪騎士団の一員だ。騎士爵も持つ。
見目だって、この国でお前に敵う者はそういないだろう?」
アレクはイヤイヤと首を振った。
「それでも……俺は……」
「アレク……」
背に添えた手の震えが止まらない。
「アレク、こっちを向け。……なぁ、お願いだから」
エレノアの指先が、彼の頬に触れた。
アレクはゆっくり顔を向け、彼女の前髪へ手を伸ばす。
瞳をあらわにしたその奥を、吸い込むように見つめた。
指先が、そっとエレノアの目元に触れた。
「……俺は、貴女の心が――欲しかった」
口にしてから、アレク自身がわずかに息を詰めた。
なぜ、こんな言葉が出たのか。
自分でも分からなかった。
「え……?」
切なげな碧の瞳。
エレノアの頬が、じんわりと赤く染まっていく。
口を開き、言葉を失い、また閉じた。
そして、小さく息を吐き――ふっと笑う。
「そんな風に思っていたのか。
ふふ……本当に、不器用な奴だ」
彼の手を両手でそっと包む。
アレクは困ったように眉を下げる。
「お互い、不器用だな。……お揃いだ。
我々は、なかなかお似合いなのではないか?」
エレノアはまっすぐにアレクを見た。
「私は、お前が悲しむところは見たくない。
でも、何に喜び、何に怒り、何に心を動かされるのか――それは知りたい。
良きパートナーになりたい。
もっと、お前のことを教えてくれ」
「……殿下」
「エレノア、と呼べ。婚約者だろう?
私の騎士、アレク。お前に“エレノア”と呼ぶことを許す」
「……エレノア様」
アレクはエレノアの手を額に押し当てた。
――悔しいのか。
――嬉しいのか。
――心が何を望んでいるのか分からない。
――ただ一つ。
この人を、守りたいと思っている自分に気づいてしまった。
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玄関扉の影に身を預け、レオンハルトはニヤニヤと二人を眺めていた。
「本当に手が掛かるな、我が妹夫妻は。
オズワルド、騎士団の馬車が控えているのだろう? 呼んでやれ。
さすがにあの状態で長居はせんだろ」
「畏まりました」
「私は彼が帰ってから、こっそり帰る。
エレノアにも思うところがあるだろう。
私の馬車は少し適当に待たせておけ」
「仰せのままに」
レオンハルトは踵を返し、静かな宮へと入っていく。
「まったく……」
その横顔に、小さな笑みが浮かんだ。
――我ながら、エレノアには良い婚約者を選んでやれたものだ。




