13 蜂蜜色の影
セドリックが魔導工廠のラボで退勤の支度を終え、クラヴァットを指先で整えていると、控えめに扉が叩かれた。
「どうぞ」
静かに扉が開き、濃紺の第一騎士団制服をきっちりと着こなしたアレクが姿を見せた。
「……どうされました?」
セドリックが穏やかに微笑んで歩み寄ると、アレクもまた朗らかな笑みを返す。
「お迎えにあがりました」
「大げさですよ」
セドリックが肩を揺らして笑った。
整えられた艶やかな黒髪。白シャツの袖口から覗く端正な手首。高く結ばれたクラヴァット。
そして、学者にしては均整の取れた身体――重量のある魔導兵装を持ち上げ続ける日々の積み重ねが形になったものだ。
アレクは知っている。
この男には、静かな色気がある。
瓶底眼鏡がそれを半分だけ隠してくれているおかげで、世間は“悪魔の伯爵”などと揶揄するが、実際には――危険なくらい整っている。
「セドリック殿、眼鏡は絶対外さないでください」
「……何の話です?」
「翡翠の瞳も危険ですから、見せないでください」
「……ますます話が分かりません」
「では行きましょう」
「さては会話する気、ありませんね」
迎えに来たと言う割に、さっさと踵を返すアレクの背中に、セドリックはまた柔らかく笑った。
急いで灰青のフロックコートに袖を通し、ラボの戸締まりを済ませてからアレクを追う。
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灰簾宮のティーサロンに足を踏み入れた瞬間、アレクとセドリックは揃ってピタリと動きを止めた。
戦術盤。向かい合う椅子。そこまでは予想通りだ。
――問題はその奥。
いつもエレノア一人が座っているはずのダマスク柄のソファに、エレノアと 王太子レオンハルトが並んで座っていた。
二人は慌てて礼を取る。
セドリックがちらりとアレクを見る。
(なぜ王太子殿下がいらっしゃるのですか!?)
アレクは目で返す。
(俺に聞かないでください!!)
無言の会話を見ていたレオンハルトは、愉快そうに口端を上げた。
「アレクとセドリック、ずいぶん仲良しになったな。こんな面白い催しに私を呼ばないとは……二人とも随分ひどいではないか」
「私も別に兄上を呼んだ覚えはないが?」
エレノアがしれっと返す。
「私は勝手に来たのだ。気にするな」
王太子はご機嫌で笑っているが、アレクとセドリックは言葉を失い、静かに頭を下げるしかなかった。
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アレクは迷いなく“騎士”を前へ押し出した。
直線の突撃が得意な“機兵”ではなく、斜めに跳ねて敵陣へ最速で切り込める駒。
アルトルミナ戦術盤。
八×八の盤を使う戦術ゲームで、老若男女に親しまれている。
前線突破の“騎士”、横移動が弱いかわりに前進力の高い“兵士”、魔導障壁や反転など補助を担う“術士”、直線に強い“機兵”。
そして――“指揮官”を取られれば敗北。
アレクの攻め手に、セドリックはまぶたをわずかに伏せただけで大きな反応を見せない。
そのまま“術士”を一つ横へ滑らせた。
たったそれだけなのに、盤上の空気が一転する。
――“道を塞がれた”。
騎士が跳ねる三つの到達点すべてが、微妙に“危険地帯”へと変えられている。
「ふふ……さぁ、どうされますか?」
セドリックの翡翠の瞳が柔らかくアレクを射抜く。
アレクも視線を返し、口端を上げた。
「これからですよ」
二人はどこか旧友のような笑みを交わし、戦いを続けた。
だが、和やかに見えて、その裏には互いの読みと理解が静かに火花を散らしている。
ふと、アレクの碧い瞳が揺れて、エレノアへ向いた。
その瞳は澄みきっていて、ただ一人を捉えようとしているようで――
蜂蜜色の髪が肩に柔らかく流れ、その一瞬が、セドリックの視界にも深く残る。
セドリックは、ほんのわずかに目を細めた。
アレクはすぐに盤へ視線を戻し、兵士を一つ前へ。
堅実だが、未来を読んだ一手とは言いがたい。
「前衛を固めるのですね」
セドリックは小さく笑みを落とす。
次の瞬間、セドリックの“機兵”がすっと前に出た。
ただの一歩。しかしその一歩で、アレクの三枚の駒の“逃げ道”が同時に細くなる。
――これが、“読みか”。
アレクは胸の奥で舌を巻きながらも必死に応じる。
騎士を大きく迂回させ、反対側から突破口を探る。
セドリックは淡々と受けているようでいて、アレクの視線と駒の流れを静かに誘導していた。
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戦域中央で、駒が初めて激突した。
アレクは騎士を跳ねさせ、セドリックの兵士を取る。
その手には迷いがなく、美しい軌道を描いていた。
「……お見事です」
讃える声に、嘘はない。
だが、返しの一手。
セドリックが“術士”を横へ滑らせると、盤上の“力場”がふっと反転した。
アレクは気づかない。
指揮官の退路が、かろうじて一筋だけ残されていることに。
――だが、セドリックは勝ち筋ではなく、“アレクが勝てる筋”を静かに選んだ。
機兵を、そっと後退させる。
空気が変わった。
アレクが騎士を跳ねさせると――
セドリックの指揮官へと、一本道が開く。
「……詰みです。アレク卿」
セドリックは静かに、誇りを込めて微笑んだ。
敗北の笑みではなく、
“あなたの一勝を、心から尊重します”という敬意の微笑。
アレクの瞳がわずかに見開かれた。
――違う。今のは……。
――譲られたんだ。
二人は、静かに頭を下げ合った。
アレクの拳が、膝の上で小さく震えていた。




