11 仮面の下の心
アレクは自宅の書斎で、しゃがみ込んだ。
――なんという失態だ。
――感情を表に出してしまうなど、未熟にもほどがある!
解いた金の髪をかきむしる。薄灯りの下では蜂蜜色に沈み、緩やかに波打っていた。
長く息を吐き、机に手をついて立ち上がる。
「明日、時間を作ってセドリック殿には、巻き込んでしまったことを正式に謝罪しに行こう……。
そのあとは――」
――“訓練の後は毎日ここに来い。ボードゲームを教えてやる”
セドリックが先に退出した後、エレノアが静かにそう言った。
長い前髪に瞳は隠れていたが、どこか嬉しげだった。
「……灰簾宮だな」
アレクの口元もわずかに緩む。
窓越しの青白い魔導街灯が、今夜は少しだけ柔らかく見えた。
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ティーサロンにアレクが入ると、エレノアはティーテーブルの脇で静かに立ち、右手を差し出した。
今日は訓練後。いつもより遅い時刻のため、窓の外は夕暮れに沈みかけている。
魔導ランプの柔らかな光がすみれ色の絹壁を照らし、その色を淡い青へと変えていた。
アレクは歩み寄り、彼女の手に口づける。
顔を上げれば、青紫の瞳。
夕陽の赤と魔導灯の白が重なり、複雑な色を宿していた。
「……殿下。昨日は取り乱したことを、お詫びいたします」
二人の呼吸だけが部屋に落ちる。
エレノアは小さく首を傾げ、銀の髪が夕陽を受けて赤く染まった。
そして彼女はアレクの手首をつかみ、軽く口角を上げる。
「来い。見せたいものがある」
エレノアは手を離し、別の扉へ歩き出す。
アレクも静かにその背を追う。
ティーサロンから繋がる異なる二つの扉のうち、一つをエレノアが開いた。
そこは質素な小書斎だった。机、椅子が二つ、本棚が一つ。
「ここでセドリックの講義を受けている」
エレノアは迷いなく本棚の前へ進む。
「恋愛小説とマナー本と哲学書……見栄えはいいが、飾りだ」
棚を押すと、音もなく回転する。
裏側には魔導書がぎっしりと並んでいた。
「こっちが“読む用”の本だ」
エレノアはさらに本棚脇の壁を押し、隠し扉を開く。
むき出しの配管を抜けた先、再び壁を押すと――。
「ここが、魔導工房だ」
アレクは息をのんだ。
細長い部屋。実験台、小型魔導炉、吊るされた魔導工具。
絹壁を這う細い配管では魔導液がコポコポと音を立て、
魔導炉の陣は淡い青を脈動させている。
「……すごい」
思わず漏れた声に、エレノアは勢いよく振り返る。
「すごいと思うか? アレクは楽しいか?」
前髪の隙間からのぞいた青紫の瞳が、わずかに揺れる。
アレクはやわらかく微笑み、頷いた。
「もちろんです。素晴らしい工房だと思います。……楽しいです」
白い歯を見せるアレクの笑みに、エレノアの肩がかすかに緩む。
「アレク」
静かな声で、エレノアは語り始めた。
「父王は“王位継承権争い”を恐れている。
だから兄上以外に才能がある者をとても嫌う。
二番目の兄上は軍才があったがゆえに辺境へ。
姉上たちは、美貌ゆえにすぐ国外へ嫁がされた」
アレクの瞳がわずかに揺れる。
「……だが、私はこの国にいたいのだ。
だから父王には“無才の王女”である方が都合がいい」
エレノアは魔導工房を見回す。
「アルトルミナは思想こそ遅れているが、天才には恵まれた。
セドリックのような、国を変えうる才がいる。
私は王族だ。王族だからこそできることがある」
ゆっくり、言葉を選ぶように続けた。
「兄上が王位を継がれた時、私は表に出る。
その時に、彼らをきちんと引き上げたい。
……それが私の役目だと思っている」
アレクの胸の奥がわずかに熱くなる。
「だから――引きこもっていた。
そのせいで、同世代の友もいない。
どう接したらいいかもわからん。
……お前には迷惑をかけてばかりだろう」
「そんなことは」
エレノアはかぶせるように続けた。
「アレク。私は愛とか恋とかはわからん。
だが、生涯を共にするのだ。
良いパートナーになりたい。
……せめて、友人にはなりたい」
そして、自らを示すように両手を広げる。
「これが、私エレノア・アルトルミナだ。
アレク――私はお前のことが知りたい」
「殿下……」
アレクは息をひそめるほどの静けさの中で、その言葉が胸に落ちた。
「昨日、私は嬉しかったのだ。
お前が“微笑みの仮面”を外し、怒ってくれたことが。
私の前では、楽しくない時に笑わなくていい」
エレノアが見上げ、淡い唇が静かに弧を描く。
血色こそ薄いが、その形は端正で、凛として美しい。
――“私はお前のことが知りたい”。
アレクの胸の奥で、長く凍っていた何かが音を立てて溶けていく。
完全には溶け切らないが、確実に柔らかさを帯びていく。
――俺は彼女を、知ろうとしたことがなかった。
――周囲の凡俗どもと、何も変わらなかったのは自分の方じゃないか。
アレクは静かに跪き、エレノアの指先を取った。
「生涯、お側におります」
「アレク、まだ早い。
私はお前の忠誠を受け取れるほどの人間ではない。
だが、そばにいろ。私を見ろ。
お前の人生はお前のものだ。
……お前が“それでも誓いたい”と思った時、その時こそ私は受け取る。
アレク、“無才の王女”を押しつけられたのだ。せめて楽しく生きろ」
強い言葉に反して、見上げた青紫の瞳はどこか不安げに揺れていた。
「殿下。一つだけ、願いを聞いていただけませんか」
「言ってみろ」
アレクは立ち上がり、そっと手を伸ばす。
エレノアの長い銀の前髪を、指先で静かにかき分けた。
隠れていた青紫の瞳に、自分が映り込む。
「――この瞳を、俺はずっと見つめていたいのです」
すみれ色の瞳がふと潤み、魔導灯の青を受けて揺れる。
わずかに頬が赤らんだ。
エレノアはアレクの手を払うと、ぷいと背を向けた。
「……わかった。
お前が来る時だけ、前髪を上げるようヴェラに言っておく」
耳まで赤い。
アレクは小さく吹き出した。
エレノアは慌てたようにわずかに振り返り、先に歩き出す。
「なぜ笑う。戻るぞ。“アルトルミナ戦術盤タクティカ”の特訓だ」
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ティーサロンに戻ると、二人は戦術盤を挟んで向かい合っていた。
「アレク、お前はどれほどできる?」
アレクは少しだけ頬を掻く。
「……得意とは言えません」
エレノアは小さく頷いた。
止めている前髪のピンが魔導灯の光を反射して揺れる。
「……そうか。
まぁ、あいつは“アルトルミナの頭脳”だからな。少しでも善戦できたらいいな」
「……はい」
エレノアは腕を伸ばし、アレクの頬を指でぐいっと押した。
「お前、今楽しいか?」
「……え?」
「楽しいならいい。
だが、お前、さっきからずっと微笑んでいる。癖になっているのではないか?
ある意味“表情が動かなくて気持ち悪い”ぞ」
「……き、きもちわるい……!?」
エレノアは肩を震わせて笑った。
「ずっと美貌を褒められてきたのだろう。私は容赦しないからな」
アレクは呆れたように目を瞬き――そして笑った。
「では、始めよう。
タクティカはチェスより駒の能力差が小さい。
より実戦に近い。
初心者でも、歴戦の勇士に勝ち得る“可能性”がある」
「それでも俺がセドリック殿に勝つとは……?」
「思えんな」
「容赦がない……」
エレノアは不敵に笑い、“騎士”の駒をつまみ上げる。
「第一騎士団の美貌の騎士。まずは私と勝負だ」
アレクは片眉を上げ、穏やかに応じた。
「――受けて立ちましょう」
窓の外では陽が落ち、白い月が静かに浮かんでいた。




